第57回 外の正月
正月も三日にもなると、ピリッとしていた空気もすっかり緩んで、消化試合みたいになってくる。
それでも今年は、去年とは違っていた。
舞子がいる。
それだけで、だらしない寝正月まで、ちゃんと二人の正月みたいな顔をしていた。
僕と舞子は、朝方までファミコンで桃太郎電鉄をやっていて、気付いたらこたつでそのまま寝落ちしていた。
目を開けると、こたつ布団の中にこもった自分たちの体温が、まだじんわり残っている。
足を動かすと、ぐにゃっとゴローちゃんのお腹の感触。
完全に、足枷がわりにされている。
カーテンの隙間から差し込む冬の光は白くて柔らかくて、外の世界とこの部屋のあいだに薄い膜が張られているみたいだった。
「……今、何時だろ」
舞子が布団の中から顔だけ出して、天井を見たままつぶやく。
「知らん。昼前ちゃうか」
こたつの上の目覚まし時計に目をやる。
針は、とっくに昼を過ぎていた。
「昼過ぎだよ、これ」
「ほな、立派な寝正月やな」
二人で顔を見合わせて笑う。
とりあえずテレビのスイッチを入れると、箱根駅伝の復路が映っていた。
アナウンサーの声と、選手の息遣いと、沿道の歓声が混ざっている。
「……がんばってるねえ、みんな」
舞子は寝癖の付いた頭で頬杖をつきながら、しばらく画面を眺めていたが、
やがて小さくため息をついた。
「……つまんない」
「謝れ。全国の長距離ランナーに謝れ」
そう言いつつ、僕も別に真剣に観ていたわけではない。
舞子がリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変える。
画面には、八坂神社のかるた始めが映った。
十二単姿のかるた姫や童子たちが並び、読み上げの声に合わせて全身で札に飛び込んでいく。
「うわ、なんかすごいね、これ」
「京都の正月は忙しいねんなあ。行かへんけど」
「行かないんだ」
「寒いやん。こたつの方がええ」
もっともな理由だ。
舞子は「それもそうだね」と言って、またこたつの中に沈んだ。
僕も負けじと布団に潜り込み、そのまま二度寝に落ちていく。
目を覚ましては、貰ってきたおせちをタッパーから食べ、また落ちる。
「舞子ー、代わりにトイレ行ってきてー」
「無理だよそんなのー。それより、トースターーでお餅焼いてよ。きなこと砂糖醤油」
「無理ー」
「どうしてー?」
「お腹の上にゴローちゃんが…」
気がつくとあたりは暗くなり、テレビでは『抱きしめたい!'90』で、浅野温子が正月らしくぐうたらしていた。
チャンネルを変えると、中村主水が失業していた。
「仕事人も大変やな…」
「そうだね…」
みかんを剥きながらそんな会話をしていたはずなのだが、気がつけばまた眠気に襲われる。
こたつから、のぼせたゴローちゃんがのそのそと這い出してきて、畳の上に寝そべるのが見えた。
ストーブの上のやかんが、シュンと鳴った。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日は、目を開けた瞬間から、なんとなく「この正月もそろそろ終わりか」といった空気が漂っていた。
同じようにこたつから這い出してテレビをつけると、KBSのニュースが、今日は下鴨神社で蹴鞠初めがあると伝えていた。
色とりどりの装束に烏帽子をかぶった人たちが、真面目な顔でふわりふわりと鞠を蹴り上げている。
「……これ、ちょっと見てみたくない?」
舞子が、湯呑みを両手で包みながら言う。
「まぁ、近いしな。行ってみるか」
ようやくこたつから抜け出し、マフラーとコートを引っかけて、糺の森を歩いた。
冷たい空気が、寝正月で緩みきった肺に少しだけ刺激をくれる。
しかし、神社の前まで行って拝観料の看板を見た瞬間、舞子の足がぴたりと止まった。
「……これ、なかなかお高いんだね」
「せやなあ」
「中で蹴鞠やってるの、テレビで観たから……いいかな」
「帰る?」
「……帰ろっか。無理して“ちゃんとした京都のお正月”しなくてもいいよね」
舞子がそう言った。
せっかく来たのに、結局鳥居もくぐらずに帰ることにした。
まあ、そんな正月も悪くない。
◇ ◇ ◇ ◇
アパートに戻ると、テーブルの上には、まだおせちの残りが並んでいた。
黒豆、紅白なます、鮎巻き、赤こんにゃく入りのお煮しめ、栗きんとん。
タッパーにきれいに詰められたそれらを、今日は舞子が小皿に少しずつ盛り付けた。
「はい、じゃあ今日もおせち定食です」
「ありがたいねんけどさ……」
僕は箸を持ったまま、おかずをじっと見つめる。
「いくら美味しいおせちでも、ずっと食べてると飽きてきーひん?」
「うん。なんかこう…濃いもん欲しくなるね」
「分かる。もっとしょっぱくて、脂っこくて、脳みそがバカになる味…」
「その表現…」
どうやら二人とも全く同じ気持ちだった。
トースターで焼いた餅を、舞子はきなこ、僕は砂糖醤油で食べる。
確かに美味しい。美味しいのだけれど、心のどこかで違う何かを求めている。
その時だった。
テレビから、お馴染みのメロディが流れてきた。
「やきーにくのー、天壇ー♪」
油のはねる音と、湯気の上がる鉄板の映像。
分厚いロースが、きれいな網の上でじゅうじゅうと音を立てている。
「…………」
「…………」
僕と舞子は、同じタイミングで顔を見合わせた。
「……焼肉ってな」
「うん」
舞子の目がキラリと輝いた。
「すごく、ええと思わへん?」
「私も、すごくそう思う」
こたつの中で伸ばした足が、布団の下でそっと触れ合う。
と思ったら、やっぱりゴローちゃんのお腹だった。
「でも、天壇ってさ、高そうだよね」
「そらまぁ、気軽な焼肉屋とはちゃうな」
「だよね…」
「あ、そういえば、お祖母ちゃんから貰ったお年玉があったな…まだ中身見てへんかったけど」
こたつに出しっぱなしだったポチ袋を開けると、何と一万円札が三枚も入っていた。
それを抜き出して舞子に見せる。
しばしの沈黙の後、同時に笑い出した。
「行こか」
「行こう」
前なら、僕が「行こか」と言って、舞子が「わーい」とついてくるだけだったかもしれない。
でもこの日は違った。
僕らは同じタイミングで、おせちの甘さから逃げ出したかった。
おせちのタッパーにラップをかけ直し、こたつの電源とストーブを切る。
冬の部屋の空気が、ゆっくりと現実に戻っていく。
◇ ◇ ◇ ◇
外に出ると、日が落ちかけた空は薄い群青色に変わっていた。
東山の稜線が黒く浮かび上がり、比叡山の方角から、細く冷たい風が流れ込んでくる。
出町柳から京阪に乗り、四条で降りる。
駅から地上に出ると、四条大橋の上には観光客らしき人たちがちらほらいて、
鴨川の流れが、暗くなりかけた水面に街の灯りを揺らめかせていた。
「正月でも、けっこう人いるね」
「そら、祇園やしな」
川沿いを少し歩くと、荘厳なビルに「焼肉の名門」と看板が掲げられた建物が見えてくる。
ホテルのような入口からは、ガラス越しに暖かい光があふれていた。
「……なんか、『焼肉屋さん』って感じじゃないね」
「ちょっとよそいきやからな」
自動ドアが開くと、店内からふわりと肉と出汁が混ざったような香りが流れてくる。
黒服のスタッフがすぐに近づいてきて、丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいでしょうか」
「はい」
本当にホテルマンみたいだ。
二階のダイニングフロアに案内される。
木目のテーブルが整然と並び、天井には控えめな照明が下がっている。
和の要素を残しつつも、どこかモダンな雰囲気で、
いかにも「ちょっと良いところに来た」感じがした。
席に着くと、テーブルの中央には埋め込み型のロースターがあり、
脇には銀色のトングと箸、そして小さめの白い器が二つ置かれている。
黒服のスタッフが透明に近い琥珀色の液体が入ったポットを持ってきて、その器にとくとくと注いでいった。
「こちらが、当店自慢のつけだれでございます。
牛骨をベースにしたお出汁のようなたれでして、お肉をこちらにたっぷりとくぐらせてお召し上がりください」
舞子が、器の中を覗き込む。
「……ほんとに、お出汁みたい」
「天壇は、これで食べる焼肉なんや」
僕も、初めて連れて来てもらった時は同じように驚いたのを思い出す。
メニューを開くと、「天壇ロース」「ミルフィーユロース」「天壇カルビ」などと並んでいる。
お祖母ちゃんのお年玉で懐は温かい。
天壇ロースとミルフィーユロース、それから天壇カルビ。
僕が肉を選んでいる横で、舞子がメニューを覗き込み、
「野菜もいるよ。ナムルとサンチュ」
と指を差した。
「あ、生レバーも忘れちゃいけない」
「それはハルくん担当ね」
そんなふうにして、締めのクッパまで決まった。
「けっこう頼んだね」
「正月やしな。奮発デーや」
そんなやりとりをしているうちに、
大きな皿にきれいに並べられた肉が次々と運ばれてきた。
薄くスライスされたロースが、何枚も扇のように重なり、
ミルフィーユロースは、三枚重ねにしたロースが少しずつずれて重ねられている。
「……きれいだね」
「ほんまやな。焼く前からもうちょっと幸せになれる焼肉や」
ロースターに火が入り、静かに金網が温まっていく。
「とりあえず、ロースから行こか」
ロースを一枚、網の上に乗せる。
ジュウ、とお肉が音を立てた瞬間、
さっきまで正月のだるさでぼんやりしていた頭が、一気に現実へ引き戻された
薄い肉がゆっくりと反り返り、脂がじわじわと浮かんでくる。
「焼きすぎたらあかんで。片面ちょっと色変わったくらいで、すぐひっくり返して」
「分かった」
軽く焼き目が付いたところで、肉をトングでつまみ、
たっぷりと器のつけだれにくぐらせる。
琥珀色の液体が、肉の周りにとろりとまとわりつく。
「はい」
舞子の皿の上に、そっと置いた。
「…いただきます」
舞子は、少し緊張したように一口かじる。
ほんの一瞬、目を閉じて、それからふわっと微笑んだ。
「……あれ。全然想像と違う」
「どう違う?」
「もっとこう…どろっと甘辛いタレで、口の中が支配される感じかと思ってたのに、
なんか…スープみたい。優しくて、でもちゃんとお肉の味がして…」
言葉を探しながら、もう一口。
「しつこくないね。いくらでも食べられそう」
「それが京都焼肉やな。肉よりタレの方が勝ってもうたらあかんのやて」
「ずるいね、京都…」
舞子が、ちょっと悔しそうに笑う。
その顔がやけに嬉しそうで、見ているこっちまでお腹が鳴りそうになった。
次は、生レバー。
「これは…何?赤こんにゃくみたいだけど?」
牛の肝臓の刺し身だと説明すると、舞子は恐る恐る一枚をつまみ、キョロキョロとテーブルの上を見回した。
「これも、このお出汁たれ?」
「いや、それはこっちの、ごま油に塩入ったやつ。たっぷりめに付けて」
僕の言葉にしたがってとろりとした赤い一枚を口に運んだ舞子は、瞬間、目をまん丸にした。
「わ!おいし!なにこれ?」
僕も一枚。
ぬるんとした独特の感触。歯を立てるとぷつんと切れて、甘みとコクが口の中に一気に広がる。
塩が味を引き出して、ごま油がその全部をまとめる。
「こんなの初めて食べたけど、すごいね」
舞子はそう言いながら、もう一枚に箸を伸ばした。
「ほな、焼きもんに戻ろか」
今度はミルフィーユロースを三枚重ねのまま網に乗せる。
薄いロースがじわじわと白くなり、端からくるりと丸まり始める。
「これ、何か特別な焼き方あるの?」
「ほんまは店員さんが焼いてくれるとこもあるらしいけどな。
弱めの火でじっくり焼いて、最後ちょっと丸めて…ほら、こうや」
トングでくるくると巻き上げ、筒状にした肉をつけだれに沈める。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
舞子は、箸でそれをつまむと、少し大きな口でぱくりと頬張った。
「……んん」
しばらく何も言わず、もぐもぐと噛み締めている。
「どうや」
「これ…反則。お肉がふわふわで、でもちゃんと噛むとじゅわってして…
この出汁みたいなタレが、全部まとめてくれる感じ」
「ええ実況するようになったな」
「だって、本当にそうなんだもん」
カルビも、ナムルも、サンチュも、どれもいちいち美味しくて、気付けば二人とも無言になっていた。
箸とトングと、ロースターの上の肉だけが、忙しく動いている。
「…なんかさ」
一息ついたところで、舞子がぽつりと言った。
「おせちもすごく美味しかったけど、これはこれで、ちゃんと正月のごちそうって感じだね」
「せやな。おせちは家の正月やけど、これは外の正月って感じやな」
「うん。どっちもあっていいんだね」
舞子はそう言って、最後の一切れのロースを大事そうにつけだれにくぐらせた。
◇ ◇ ◇ ◇
店を出ると、祇園の夜はすっかり暗くなっていて、
四条大橋の上には、吐く息の白さを確かめるように歩く人たちが行き交っていた。
「お腹いっぱい」
舞子が、マフラーの中から満足そうな声を漏らす。
「高かったけどな」
「うん。でも…たまには、こういうのもいいよね」
「正月ボーナス焼肉やな」
「お年玉だけど」
二人で笑いながら、鴨川の流れを見下ろす。
水面に映る灯りが、風に揺らされて細かく砕けていた。
正月のおせちの優しい味も、
天壇の出汁のようなつけだれも、
全部ごちゃ混ぜになって、胸のあたりに温かい層を作っているような気がした。
舞子が満足そうに歩いているのを見ながら、僕は少し不思議な気持ちになっていた。
美味しい店に連れて行ってやった、という感じではなかった。
二人で、今日の正月を選んだ。
そんな気がしていた。
「あー…また明日から、普通のごはんに戻るんだね」
舞子が、少し名残惜しそうに言う。
「うん。そろそろ冷蔵庫の野菜も使い切らなあかんし」
「うん。でも…こうやってだらだらして、おせち食べて、最後に焼肉まで行ったお正月、きっとずっと覚えてると思う」
「そら、僕もやな」
北から吹き下ろしてくる冷たい風の中で、
さっきまで店の中にとどまっていた肉と出汁の匂いが、
まだ少しだけコートの袖口に残っている。
その匂いと、舞子の笑い声と、冬の川の気配を胸に抱えながら、僕らはまた、出町柳へ戻る電車に乗った。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日、やっぱりニンニクと辛味噌の効いたドロドロのタレで食べる焼肉が恋しくなって、営業を開始した百万遍の里乃家まで自転車を走らせた。
それはそれ。
天壇には内緒だ。




