第56回 箸のぬくもり
白髭神社から161号線を南に下り、琵琶湖大橋を渡る。
橋の上も雪で真っ白で、左に広がる北湖も、右の南湖も灰色に霞んで水面と地面と空の境目もよく分からなかった。
取り付け道路沿いの田んぼも、野洲川を渡る橋も、何もかもが白く塗りつぶされて、まるで違う星に間違って降り立ったかのような風景だ。
舞子はずっと助手席の窓に手をついて外を眺めている。
時折、「わ」とか「すごい」とか呟く声が聞こえた。
久しぶりにやってきたお祖母ちゃんの家は、そんな外の風景とは無縁であるかのように明るく、暖かく、ストーブの灯油の匂いとお出汁の匂い、そしてイトコ達や伯父さん叔母さん達の賑やかな声に溢れていた。
誰も観ていない付けっぱなしのテレビでは、北大路欣也が剣豪・宮本武蔵に扮している。
「おお~、来たな!ハルヒトくん!」
奈良の伯父さんが僕に気づいて声を上げると、イトコたちがワッと玄関に集まってきた。
「久しぶりやん、ハルちゃん」
「大阪の出版社やて?カッコええなあ」
「でも、正月から仕事てなあ」
口々に話すイトコや親戚たちにお決まりの新年の挨拶をする。
舞子も落ち着いた様子で頭を下げて、笑顔で
「あけましておめでとうございます。中田さんにはいつもお世話になっています」
と挨拶した。
さっきまで窓の外の雪にはしゃいでいた姿からは別人のように、実に堂々としたものだった。
「ハルちゃん、よう来たね。まあまあ上がり」
お祖母ちゃんが台所から出てきて迎えてくれた。
懐かしい笑顔に嬉しくなるが、同時に記憶よりもまた少し小さくなった姿に寂しさも覚える。
「ほらほら、そちらのアシ…アシ…」
「『アシスタント』やで、お祖母ちゃん!」
「ああ、足スタンドさんも上がってな」
どっと笑いが起こる。
ああ、やはりこっちの親戚は好きだなあ、いいなあこの空気、と思いながら、舞子を促して靴を脱いだ。
襖を外して仏間とひと繋がりになった畳の居間には長い座卓が三つ並び、ところ狭しとおせちやオードブル、お寿司なんかが並んでいる。
僕のオトンは鮒ずしをつまみながらご機嫌で日本酒を飲んでいた。
オカンは台所とこっちを出たり入ったり忙しそうだ。
「そこ座って、何でも食べて食べて」
叔母さんに言われて、座布団に腰を下ろす。
「お雑煮食べるやろ?おせちもつまんでや。もうじきしたらすき焼きはじめるさけな」
「あ、何かお手伝いします」
舞子が立ち上がると、
「いやいや、お客さんにそんなんとんでもない。座っててな」
と叔母さんが言って、舞子はちょっと困ったような顔になった。
舞子の性格的にこの状況で"お客さん"としてただ座って飲み食いするのは確かに居心地悪いだろう。
「あー、ごめんけど、僕らこの後まだ仕事あって、あんまりゆっくりでけへんねん」
お祖母ちゃんには申し訳ないけど、僕は早めに切り上げておいとますることにした。
「なんや、出版社いうのは正月からそんな忙しいんか?」
イトコの匠くんが言うと、里美ちゃんが訳知り顔で
「そらそうやん。マスコミやで、マスコミ。ほら、テレビの人らも今そうやって仕事してはるやんかいさ!」
と、賀来千香子が大写しになったテレビを指さした。
「ほな、お雑煮だけでも食べていき。それくらい時間あるやろ?」
返事を待つまでもなく、僕と舞子の前に赤いお椀に入った白いお雑煮が置かれた。
祝い箸を渡されて、お椀を持ち上げると、湯気の中で糸カツオが踊った。
「ありがとうございます。では、いただきます」
舞子が笑顔でそう言って、手を合わせる。
その姿は、二年前に僕のアパートに突然押しかけてきて勝手に押し入れを自分の巣にして居座った、子供みたいな十六歳の女の子じゃなく、分別をわきまえた、きちんとした大人の女性だった。
美しく正座をして、シャンと背筋を伸ばした舞子が、少し眩しかった。
「あ、美味し」
一口、お汁をすすった舞子が小さく呟く。
カツオと白味噌の甘い香り、雑煮大根の白と金時人参の赤、柔らかく炊かれてクタッと伸びる丸餅。
ああ、これだ。
そう思いながら、僕も椀に口をつけた。
「ねえ、去年ハルくんが作ってくれたお雑煮と同じ味だね」
耳元で舞子が小さく囁いた。
「そらそうや。滋賀県と京都は、おんなじこの白味噌雑煮やもん」
僕も小さくささやき返す。
舞子は、お椀の中の丸餅を箸でそっとすくい上げるようにしながら、何度も小さく頷いていた。
くちびるに白味噌の甘い膜を薄く残したまま、ほっと息をつく。
「……あったかいね、これ」
「どや、美味しいやろ?」
「うん。体の奥からあったかくなる……"お正月だな"って味がする」
舞子の頬がほんのり赤いのは、白味噌のせいだけじゃないだろう。
部屋は石油ストーブの甘い灯油の匂いと、人の声と、湯気でほどよく満ち、
外の雪景色が嘘みたいに、ここだけ別の季節が灯っているようだった。
叔母さんが「アシスタントさん、もっと食べて」と煮しめの皿を勧める。
舞子は「はい、ありがとうございます」と両手で受け取って、その中に入っている赤こんにゃくを見つけ、目を丸くした。
「……これ、赤こんにゃく?」
「滋賀はこんにゃく赤いんやで」
「いえ、赤こんにゃくは以前に中田さんに教えてもらったんですが、おせちのお煮しめにも入れるんですね。これ、ちょっと新鮮です」
伯父さんが「ほう、もう知ってんのか。物分かりええなあ」と笑い、
向こうで匠くんが「アシスタントさん、それ美味しいで!」と身を乗り出す。
舞子は少し照れたように笑い、箸で赤こんにゃくをそっとつまんで口に運ぶ。
「……うん、やっぱり美味しい。すき焼きのとはまた違う味だ」
座卓の空気が柔らかくなるような、そんな一言だった。
「ほら、昆布巻きも食べや」
伯母さんが箸でそっと、黒々と艶のある昆布巻きを舞子の皿に置く。
舞子はまた驚いた顔をして、中を覗き込む。
「……これ、鮎?」
「そや。正月はこうやって食べんねん」
「すごい……贅沢……」
舞子の驚きに、親戚たちは嬉しそうに笑い合った。
食卓には、正月特有のゆったりとした時間が流れていた。
小さな子どもたちはこたつの端で福笑いやすごろくをしていて、大人たちはテレビの時代劇を横目に、日本酒をちびちびやっている。
舞子はそんな光景を目で追いながら、手元のおせちをつついていた。
その横顔は、さっきまでとは違う。
どこか馴染み始めていて、まるでずっと前からこの家の一員であったようだった。
「あ、これも食べて。黒豆、甘すぎへんで」
伯母さんが黒豆の小鉢を差し出すと、
「あ……はい。いただきます」
舞子は少し照れながらも素直に受け取り、一粒口に含む。
「……おいしい……。なんか、やさしい味がする」
「やさしいて、ほめられたなあこれ」
伯父さんが豪快に笑い、座卓がまた賑やかになった。
僕はその光景を見ながら、胸の奥がふっと温かくなるのを感じていた。
舞子がこんなふうに、誰かの"家族の時間"の中にすっと馴染んでいることが、なんだか誇らしくて、少しだけ不思議で、そしてとても嬉しかった。
やがて、お祖母ちゃんが僕らのほうを見て言った。
「ハルちゃん、舞子ちゃん、口に合うてよかったわ。よう来てくれたなあ」
舞子は姿勢を正し、静かに頭を下げた。
「ほんとうに……ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。
なんか……あったかくて、嬉しい味でした。ありがとうございます」
その言葉に、お祖母ちゃんはゆっくり微笑んだ。
丸い背中が、少しだけ嬉しそうに揺れる。
「そらよかった。正月やからな」
僕も手を合わせた。
「ごちそうさまでした。ほな、そろそろ……行こか」
「仕事やもんなぁ。気ぃつけて行きや」
伯父さんが手を振ると、伯母さんが「これ持って帰り!」とタッパーをいくつも差し出した。
赤こんにゃくの入ったお煮しめ、鮎巻き、黒豆、紅白なます、栗きんとん、たたきごぼう…。
滋賀のおせちがぎゅうぎゅうに詰まっている。
「えっ、こんなに!? す、すみません……!」
「ええのええの。若い子はよう食べるし。もらうてくれたほうが嬉しいんやで」
お祖母ちゃんはそう言いながら僕のところに来て皆から隠すように僕の手に小さなポチ袋をねじ込んで、
「おとしだま」
と小さく囁いた。
舞子はタッパーを抱えたまま、胸の前で大事そうに持ち直し、そのままの姿勢で深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に」
その声は、小さくて、澄んでいて、お雑煮よりも、雪景色よりも、僕の胸の奥にそっと染み込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
雪の琵琶湖大橋を再び渡った頃、舞子が大きく息をついた。
「はぁ~!緊張した!」
僕が笑うと、
「なんで笑うの!?ちゃんと仕事のアシスタントさんとして、大人みたいに振る舞うの、大変だったんだよ!?」
とぷんすかしている。
いつもの舞子だ。
途中越を抜け、雪が消えた大原辺りでチェーンを外そうと車を停める。
「帰ったら、またおせちの続き食べようね」
舞子はとびっきりの笑顔でそう言った。
白くけぶる山あいの空気の中で、舞子の笑顔だけが小さな灯りみたいに揺れて、
その灯りが、僕らの冬をそっとあたためていた。




