第55回 雪の白髭神社
大原の集落を過ぎると、空気の質が変わった。
さっきまで見えていた茶色い山肌が、気付けば薄い靄に沈み、前方の景色がゆっくりと白に塗り替わっていく。
途中越の峠道は、まるで別の季節にひと足だけ踏み入れたみたいだった。
木々の枝という枝に雪が張り付き、重みでしだれるように垂れ下がっている。
路肩の石垣は角がすっかり丸くなり、黄色いフォグランプが当たると、細かな氷の粒が一瞬きらっと返してくる。
京都市内と滋賀県側、どちらも全く降っていなくてもここだけは大雪、それは冬になればいつものことだ。
──どうせまたすぐに外さなあかんねんけどな。
ちょっとうんざりしながらチェーンを巻く。
チェーンを巻いた前輪が、ゆっくりと新雪を踏みしめる。
柔らかい雪を噛むたびに、細かい振動がハンドルに伝わってきて、車体がわずかに上下する。
時々、日当たりのいいカーブでは路面の雪が薄くなっていて、
チェーンがアスファルトを拾って「チャリ…チャリ…」と乾いた音を鳴らす。
舞子が「今の音、なんか好き」と言って、ふっと笑った。
前へ進むごとに、視界の白さは深まっていく。
吹き溜まりでは新雪が膝の上あたりまで積もっているのが遠目にも分かり、
その向こうで杉林が、まるで水墨画の中の山みたいに静かに佇んでいた。
風がないせいか、世界の音が急に消えたように感じる。
タイヤが雪を押しつぶす音と、チェーンが時折奏でる金属音だけが、この峠の時間をゆっくりと刻んでいた。
僕はアクセルを少し緩めた。
ゆっくり走れば走るほど、この白い世界がやけに深く胸に沁みこんでくる。
京都の市街地とは別の国みたいな、
そして滋賀県の手前にだけ毎年ぽっかりと現れる冬劇場みたいな、そんな峠道だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルヒト、正月くらい顔出しなさい」
オカンから電話がかかってきたのは、舞子と白髭神社に初詣に行こうと、いちいちバッグに入ろうとするゴローちゃんと戦いながら準備をしていた朝のことだった。
「ん?もう有馬から帰ってきたん?ていうか、今日は二日やから家いいひんのんちゃうん?中主のお祖母ちゃんとこやろ」
「そうや。奈良のおっちゃんトコも来てはるし、あんたのイトコら、匠くんや里美ちゃんも来てはるで。あ、ちょっと待ちや!」
電話の向こうで何やらボソボソとは話す声が聞こえて、受話器の声が変わった。
「ハルちゃん、お正月くらい顔見たいわー」
お祖母ちゃんだった。
子供の頃からとにかく僕を可愛がってくれた、大好きな母方のお祖母ちゃん。
六月、就職内定祝を送ってきてくれたお祖母ちゃん。
お祖母ちゃんにそう言われては、行かないわけにはいかない。
それは大晦日の舞子と同じだった。
それに、実家と同じ村の父方の親戚連中は苦手だが、こちらの母方の親戚の集まりは好きだった。
みんな田舎の人独特のズケズケ入り込んでくるところがなくて、去年みたいに酔い潰される心配もない。
「ちょっと待ってな。すぐに折り返す」
一旦電話を切り、まだゴローちゃんと戦っている舞子の方に向き直った。
「舞子、前のうなぎの時のお祖母ちゃんが、イトコとか集まってるから顔出せ言うてるんやけど、白髭神社行った後、ええかな?」
「いいよー。でも、親戚の人集まってるトコに正月から私と一緒に行って大丈夫なの?ややこしくない?」
確かにそうだ。
正月早々、そんなトコに女の子なんか連れて行ったら、「ハルヒトが嫁さん連れてきた」と大騒ぎになることは火を見るより明らかだ。
その辺は、父方も母方も一緒だ。
しばし考えて、僕はとても無理のある、でも、田舎の人達にならギリギリ通じそうな設定を思いついた。
「あ、お祖母ちゃん?ハルヒトです」
かけ直した電話には待ち構えていたようにお祖母ちゃんが出た。
「昼からやったら行けるし、行くな」
「ホンマかいな!ハルちゃん、嬉しいわー」
「ただな、実は今日、就職先の出版社からの正月明けまでの課題で、地域の伝統的な冬の文化のレポート出せいうのがあって、そのために白髭神社の初詣の様子を取材行くねんけど、アシスタントの女の子も一緒やねんけど、ひとり先帰れいうのも悪いし、連れてってええかな?」
なんで正月二日から会社がそんな事させてるのか、そもそもまだ内定者の大学生にアシスタントてなんやねん?
突っ込みだしたらキリはないが、"出版社"、"取材"、"アシスタント"、そんな単語を並べたら何となくみんな納得してくれそうな気がしたのだ。
「なんやお正月から難しいことしてんねんな、頑張ってるな、ハルちゃん。ええでええで、連れといで、そのアシ…なんとかさん」
うまくいきそうだ。
──あ。
両親は舞子に何回か会ったことあるじゃないか。
ここの辻褄を…どう考えても合わせられそうにない。
仕方ない。
「お祖母ちゃん、ほな、ちょっとオカンと電話変わって」
そう言って変わってもらったオカンに口裏を合わせてもらうことにした。
「あ、もしもし、実は今日な、前に何回か連れてったカノジョいるやろ?うん。そう。舞子」
ここはもうカノジョってことにしといた方が話が早い。
僕はオカンに、正月からカノジョなんか連れてったら、親戚のみんなからハルヒトが嫁さん連れてきたと大騒ぎになると思うから、仕事関係ってことで合わせて欲しいと説明した。
前にも僕の仕事で会ったことあると。
「なんや、ややこしなー。まあええわ。分かった。ほな気ぃつけておいでや」
オカンはこういうことに関しては話が早い。
助かった。
電話を切って振り返ると、ゴローちゃんを抱えた舞子が、顔を赤くして満面の笑顔で僕を見ていた。
「……カノジョって言った」
小さくそう言って、また顔を赤くした。
◇ ◇ ◇ ◇
途中越だけで消えると思った雪は、予想を裏切って、堅田に降りても道路を綿菓子のように染め抜いたままだった。
というか、今も雪が細かく降り続いている。
街路樹の枝という枝が白く縁取られ、店先の看板まで薄い雪化粧をして、見慣れた湖西の景色がまるで知らない町のように静まっていた。
161号線を北へ走ると、あちこちの路肩に他府県ナンバーの車が立ち往生していた。
ノーチェーンのまま突っ込んだらしい車、FFなのに後輪にチェーンを巻いてしまった車。
雪に慣れていない運転の痕跡がそこら中に残っている。
可哀想に軽くガードレールへ頭を突っ込んでいる車もあれば、左車線なのにこちらを向いて止まっている車もある。
舞子がフロントガラスの向こうを見つめながら、小さく息をのんだ。
「わあ…すごいね…。大丈夫かな、あの人たち」
「ん?僕は大丈夫やで。雪道慣れてるし」
「そういう意味じゃなくて…慣れてない車が、こっちに滑ってくることもあるでしょ?」
「その時は…どうしようもないな」
そう言って笑うしかない。
舞子もつられて笑ったが、口元だけで、目の奥はやっぱり少し不安そうだった。
上り坂を登れず、タイヤを空転させながらお尻を振っているスポーツカーの横をゆっくりと抜ける。
道の右手に広がる琵琶湖は、雪にかすんで対岸どころか水平線すら分からない。
空と湖面の境目が溶けて、世界が白一色にほどけていく。
車を進めるほどに、景色はますます静かになった。
信号の色だけが、雪に吸い込まれそうな町の中でぽつりと灯り、
道路脇の田んぼも畑も真っ白な布にくるまれたみたいに沈黙している。
時々、チェーンが薄い雪の下のアスファルトを拾って「チャリ…」と乾いた音を立てる。
その一瞬だけ現実に戻されて、またすぐに白い世界の奥へ戻る感じだった。
車内の暖房がやさしく足元を温める。
窓の外では、雪が音もなく降り続き、
湖西の冬にだけ現れる、短い夢のような時間が流れていた。
「あ、見えてきたよ!」
舞子が小さく叫ぶ。
「安芸の宮島な」
「もう~!それもういいって!もう間違えないよー!」
大笑いしながら、駐車場に車を停める。
外へ出ると、息が白くほどけた。
足元の雪がサクッと鳴り、アスファルトの上に踏みしめた僕らの足跡が、境内へ向かって二本の線を描いていく。
石段の縁には、まだ誰にも踏まれていない薄い雪が残っていた。
湖の中の鳥居から国道を挟んでこちら側、社殿の屋根はすっかり白くなり、軒先から下がるしめ縄にも細い雪の筋がまとわりついている。
湖に向かって開けた境内は、普段のざわめきが嘘みたいに静かで、時々、鈴の音と柏手の響きだけが、凍った空気の中をすっと通り抜けていった。
「うわあ……きれい……」
舞子が小声でつぶやきながら、一歩踏み出した瞬間、足元を滑らせかけた。
慌てて腕をつかむ。
「おっと。大丈夫か」
「う、うん。ちょっとびっくりした」
「雪道歩く時はな、後ろに蹴らんと、前に足上げて、かかとからおろすねん。ベタッ、ベタッて、足裏ぜんぶで踏む感じで」
そう言って、わざとゆっくり一歩分、見本を見せる。
舞子も真似をして、同じようにかかとからそっと雪を踏む。
「こう?」
「そうそう。そのままちょっと大股で。ちまちま歩くほうが、逆に危ないで」
「そっか。…なんか、雪国の人みたい」
「一応、滋賀県人やし」
顔を見合わせて笑うと、白い息がふたつ、空中で重なって消えた。
参道を進むにつれて、足跡が増えていく。
つい今さっきまで誰かが歩いていたらしい靴跡が、社殿へ向かっていく。
雪は相変わらず細かく降り続いていて、古い足跡の縁を少しずつ丸くしていた。
手水舎の水面にも、うっすらと氷の膜が張っている。
竹の柄杓を持つと、指先からじんと冷えが登ってきた。
僕と舞子はぎこちない動作で手を清め、吐く息で凍りつきそうな口元を整えてから、拝殿の前に並ぶ。
鈴の縄を引くと、雪に包まれた境内に、澄んだ音が広がった。
木の床板に二人分の足音が重なり、軽く二礼して手を合わせる。
──今年も、無事に前へ進めますように。
──舞子と、ちゃんと笑っていられますように。
そんなことを心の中でつぶやきながら、頭を下げる。
横で目を閉じている舞子の横顔にも、白い息がふわっとかかった。
参拝を終えて階段を下りると、境内の端に、湯気の立ちのぼる小さな屋台が出ていた。
白いテントの下で、おじさんが大きなアルミの鍋をかき混ぜている。
「甘酒やな」
「飲みたい。めっちゃあったまりそう」
二人で並び、紙コップを受け取る。
湯気の向こうで麹の甘い匂いがふわっと立ちのぼり、冷え切っていた指先にじんわり熱が移ってきた。
一口すすると、舌の上にやわらかい米麹の甘さが広がる。
「おいしい……。なんか、体が溶けていくみたい」
舞子が嬉しそうに目を細める。
耳まで真っ赤にして甘酒をすすっている姿が、雪景色の中でやたらと似合っていた。
「ここでこうやって甘酒飲むの、なんか贅沢やなあ」
「うん。寒いのに、あったかい…って感じ」
国道の向こうには、琵琶湖に建つ大鳥居が、雪と霞の中にぼんやりと浮かんでいる。
水面も空も白くけぶって、鳥居だけが朱色をわずかに残していた。
雪の音、湖の気配、甘酒の湯気。
全部が静かに混ざり合って、
僕たちの「今年もよろしく」を、そっと包み込んでくれているように思えた。
湖の白さに溶けていく雪を見ていると、正月二日という何気ない時間さえ、ふたりの一年の始まりに思えてきた。




