第54回 どん兵衛雑煮
元旦の午前の光というのは、不思議だ。
冬の陽ざしなのに、どこか柔らかくて、
まるで一年の最初の数時間だけ、世界の露光を少し甘くしてあるみたいに見える。
その光の輪の中を、僕はひとりで糺の森へ向かって歩いていた。
夜の冷えがまだ土の道に残っていて、踏むたびに"さくっ"と乾いた音がする。
湿った腐葉土の匂いがふっと立ち上がり、胸の奥の深いところがゆっくりと開いていく気がした。
参道には家族連れやカップルが多い。
肩を寄せて歩く若い夫婦、晴れ着姿の女の子の手を引くお父さん。
そんな光景を見るたびに、胸のどこかが静かにひりついた。
舞子は大阪に帰っていて、僕はひとりだ。
──だからこそ、だろうか。
いつもより、この森の気配がよく聞こえる。
枝を渡る小鳥の影、松の匂い、遠くから流れてくる参拝客のざわめき。
全部がやわらかく溶け合って、まるで"ひとりの正月"をそっと包む毛布みたいだった。
境内への分かれ道に差しかかった時、ふと朱色の鳥居が目に入った。
雑太社──ラグビーの神さま。
吸い寄せられるように足が向いた。
鳥居をくぐると、空気が一段ひんやりと変わる。
小さな社殿の手前に、木彫りの巨大なラグビーボールがどん、と据えられている。
それが賽銭箱だと気づくのに、ほんの一瞬だけ時間がかかった。
楕円の表面には、手で触れたくなるような木目が走り、
縫い目の部分がそのまま賽銭口になっている。
硬貨を落とすと、木の内部で コロン と芯のある音が響いた。
その響きが胸の奥にまで落ちてきて、思わず笑ってしまう。
こんなの、ラグビーやってる人間には反則や。
頭上の鈴緒を引くと、
揺れたのは丸い鈴ではなく、金属光沢のラグビーボール型の鈴だった。
形のせいか、鳴った音もどこか弾むように聞こえる。
澄んだ余韻が糺の森の木々に吸い込まれるように広がっていった。
掌を合わせながら、自然と胸の奥が温かくなる。
四回生最後の冬、肩の怪我、就職のこと、卒論のこと、舞子のこと。
全部が"この鈴の音の向こう"にいったん置かれるようだった。
──まだまだ、ちゃんと走ってタックルできますように。
──舞子が元気でありますように。
声には出さないまま、そんな願いが静かに浮かんで消えた。
参道へ戻る頃には、森の光が少しだけ明るく見えた。
一年の最初の朝が、ゆっくりと、確かに始まっていく。
人いきれの中、下鴨神社にもちゃんとお参りし、ひとりのアパートに戻る。
いや、ひとりじゃない。
ゴローちゃんが大きなあくびをしながら体をうんと伸ばし、尻尾を立てて足元にやってきた。
体を擦り付けてくるので構ってほしいのかと思って抱き上げると、体をねじってのるんと床に逃げ、顔を上げて
「ふまー」
と不満げに鳴いた。
やれやれ。僕を慰めたいわけじゃなくて、カリカリが欲しいだけだった。
皿に入れたカリカリを美味しそうに食べるゴローちゃん、そういえば僕もお腹が空いた。
朝起きて何も食べていない。
ストーブのヤカンはまだ沸いていないから、コンロで多めに湯を沸かし、昨日買ってきたどん兵衛きつねうどんに注ぐ。
五分待つ間に、残りのお湯にこれも商店街で買ってきたサトウの切り餅を放り込んで柔らかくしておく。
出来上がったどん兵衛に切り餅を入れたら、年明けうどん雑煮の出来上がりだ。
湯気がふわっと立ちのぼる。
出汁と油揚げと、ほんのり甘い餅の匂いが混ざって、アパートの空気が一気に"人の暮らし"の匂いになった。
箸であげを軽く押すと、指先までじんわり出汁が染みてくるようで、思わずそのままかじった。
──うまい。
笑うほど上等な味じゃないのに、胃の奥にまっすぐ届く感じがして、ひと口で体がほっと緩んだ。
麺は、あいかわらず柔らかい。
餅も、もう半分とろけかけている。
それをつゆごと吸い込むと、口の中で全部が混ざり合って、なんとも言えず"正月の味"になった。
「……あかんな、これ。うまいわ」
思わず声が出る。
でも、部屋は静かなまま。
返事をするのは、餅をすする自分の音と、
足元のゴローちゃんのすうすうという寝息だけだ。
ていうか、カリカリ食ってもう寝たのか?
舞子がいたら、
「えー?お餅入れたの?絶対のびのびなるやつじゃん!」
と笑われただろうなと思う。
麺をすすると、つゆが喉の奥に落ちていく"すっ"という感覚が、やけに寂しく響く。
うまいのに、胸の真ん中に少しだけ穴が空く。
正月の朝にどん兵衛をすすること自体は別に悪くない。
むしろ悪くないどころか、このジャンキーな出汁の香りは、今の僕にはちょうどいい。
でも──
「こういうふざけた雑煮、舞子と一緒に食べて笑いたかったな…」
つぶやいた声が、自分でも驚くほどかすれて聞こえた。
去年の元旦も、僕が寝ている間に舞子はバイトに行って、舞子が帰ってくる前に僕は滋賀に帰省して、確かに別々だった。
でも大晦日の夜に僕が作っておいた雑煮を舞子が食べた食器が洗ってあって、お餅とお汁が少し減っていて、なんだか一緒に食べた気分になれたものだ。
箸で餅をつまむと、さっきまで浮いていた餅が、すっかりつゆを吸って重たくなっていた。
「……あ、やば。もうこれ餅ちゃうわ。ほぼ"とろろ昆布の親戚"みたいになってる」
そう思って笑いながら口に運んだ瞬間、なぜだか目頭が少しだけ熱くなった。
笑いと寂しさと、うまさと虚しさが、つゆの温度みたいにゆっくり混ざっていく。
外では風の音も人の声もしない。
静まり返った京都の元旦の朝。
でも、机の上の湯気だけは、まるで誰かがここにいた証みたいに細く揺れ続けていた。
コーヒーを淹れ、こたつに入ってテレビを付けても、初詣客で賑わうあちこちの神社の中継や、くだらない演芸大会や、古すぎてわからない昭和の歌謡曲の振り返り番組や、とにかく極めて正月的な番組ばかりで、つまりは僕は退屈してこたつで寝てしまった。
またもやカリカリをねだるゴローちゃんの声で目が覚めると、もう部屋は暗かった。
期せずして、寝正月ってやつを初めて体験してしまったようだ。
一瞬、夕方なのか早朝なのか分からなくて混乱したが、テレビを点けたらかくし芸大会をやっていたので、二日の朝まで寝てしまった訳では無いと分かってホッとした。
ホッとしたのはいいが、お腹が空いている。
普段は料理好きを自負している僕だが、一人だと何も作る気がしない。
いつの間にか、「美味しいねー」を連発しながらほっぺたを膨らませて食べる舞子を見るために料理をするようになっていたことを自覚する。
結局、どん兵衛二連発に続いて、買い置きのUFOを食べ、物足りなくてカップヌードルシーフードも食べた。
元旦から何をしているんだろうと思いながら、さすがにお腹いっぱいになってひっくり返った。
本当に寝正月だ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルくんただいまー!」
パッと明るくなった部屋の眩しさと舞子の声に目を覚ます。
コタツで寝ると、起きた時に手足の先だけ妙に冷たい。
その感覚で「あ、長く寝てたな」と分かった。
時計を見ると十時を刺しているが、窓の外が暗いので夜だと分かった。
「あれ?舞子?なんで?」
「ハルくんがひとり寂しく過ごしてると思うと心配で、お雑煮とおせち食べて、お祖母ちゃんと近所の神社にお参りして、夜のすき焼き食べたら帰ってきたんだよー」
そう言って笑う舞子の顔を見たら、部屋の温度が一度上がった気がした。
なんだか涙が出てきて、慌ててティッシュで鼻を噛んでごまかした。
「こたつで寝てたら風邪ひくよー」
「大丈夫。頑丈やから」
「あ、言ってなかった!あけましておめでとうございます!」
「ほんまやな。あけましておめでとうございます!」
二人してかしこまって挨拶して、大笑いをした。
(これやこれ!)
心のなかでそう思いながら笑いを噛み殺す僕を不思議そうに見ながら、舞子が笑う。
「明日は朝から白髭神社?だっけ?連れてってね!」
もちろんだ。




