第52回 信州土産
やっとコツを掴んで、こなれてきて、今からノリにノる、というタイミングで、帰らないといけない時間になる。
これは、スキーだろうがウィンドサーフィンだろうが、そして今回のスノボーだろうが、変わることのない法則である。
栂池三日目、僕はすっかりこの新しいおもちゃを乗りこなし、リフトを停めることもなく、上から下まで一気に滑り降りてザッと雪を飛ばして減速し、その流れのまま後ろ足のビンディングを外してまたリフトの列に並ぶ、ということを繰り返せるようになった。
斜度のきつい上の方のコースも皆と一緒に上がって、置いていかれずに一緒に降りられる。
体はずっと谷を向いたままで、膝下だけで細かくバックとフロントを切り替えながら猛スピードで滑ることもできる。
リフトの列の前でザッと音を立てて止まると、
「え?あれ何?」「カッコいいなあれ」
という声が聞こえるようにもなった。
僕は得意満面だった。
とは言え、思い切って上がってみたチャンピオンコースでは、さすがの斜度とギャップに、ターンなどとてもできず、ずっとバックサイドのまま右に左に木の葉が舞い落ちるようにしか降りられなかったが。
それでも何度かチャレンジして、ギャップの攻略法 ─ ギャップを避けるように下を回るのではなく、膝を効かせて敢えて上を乗り越えていく ─ の糸口を掴みかけたところで、胸のトランシーバーから、
「ほなそろそろ昼やし、帰り支度しよかー」
というタツヤの声が響いた。ガガッ。
行き帰り徹夜という、さすがの強行軍はやめて夜までに京都に帰ろうという、当初からのプランだった。
(もうちょいやのになー)
心の中で呟きながらも、僕もそれに従った。
降りる前に、人の良さそうなお父さんを捕まえてカメラを渡して、鐘の鳴る丘のとんがり帽子の塔の前で並んで記念撮影。
「そのサーフィンみたいなのって、何?」
ここでもまた訊かれた。
「あー、雪の上でするサーフィンです」
二度と会うことはないだろうから、ものすごく適当に答える。
せっかく写真撮ってくれた人に、考えたら酷い話だ。まあ、間違ってはいないのだが。
ホテルのロビーで荷物を受け取り、車に積み込む。
四台の車のルーフキャリアには、カラフルな板が並び、ちょっとした神輿みたいだ。
「ほな、帰りは通れるみたいやから中央道で。ガガッ」
ヒロくんの通信を合図に、僕たちはスキー場を後にした。
ありがとう栂池。
ありがとうサキチ。…のお父さん。
ありがとう、びわこアドベンチャーの胡散臭いオヤジ。
本当に楽しい二日半だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「この辺で一回休憩しよかー」
バックミラーにぶら下げたトランシーバーのマイクからマサキの声がした。
ガガッ。
栂池を出て三時間、考えたら昼飯を食べてない。
フードコーナーの自販機のボタンを吟味する。
カツ丼。
これだ。これしかない。
ふわふわの卵で閉じられた、お出汁の染みたカツ。それを、これまたお出汁でしっとりと濡れた白ご飯が受け止めて、優しいのに攻撃力抜群のこの一品こそ、スキー帰りの空腹にふさわしい。
「二百五十三番、カツ丼でお待ちのお客様ー」
テーブルで待ちきれずカウンターの前で立って待っていた僕の券が呼ばれた。
受け取るとフワッとお出汁の香りが…
──しない。
「え!?」
思わず声を上げた僕のお盆を、タカトモが覗き込む。
「なんやそれ!?何頼んだん?」
「カツ丼やねんけど…」
戸惑いながら僕はテーブルに戻った。
確かにカツは乗っている。
白いご飯も下に見える。
丼に入っている。
が、カツを覆う金色の卵がない。
三つ葉も乗ってない。
香り高いお出汁で色っぽく濡れているはずのカツは、見たこともないくらいに分厚くて、濡れてはいるがそれは黒いソースによってだった。
カツとご飯の間には、山盛りの千切りキャベツ。
「またハルヒトが変なもん頼んでるやん?」
タツヤとマサキが笑う。
釣られて僕の隣にくっついて離れないサキチまで笑っている。
「なんなんやろこれ……?」
僕は恐る恐る、黒光りするカツの端を箸で持ち上げた。
いつもの卵とじのように"ふわっ"と崩れる感じではない。
重たい。
分厚い。
「それ、カツ丼ちごてトンカツ定食の縦積みやんけ!」
タカトモが腹抱えて笑う。
「いやいやいやいや!僕は確かにカツ丼のボタン押したし!呼び出しの人もカツ丼言うてたし!ていうか、カツ丼って言うたら卵でとじたアレやろ!?なんでキャベツ!?なんでソース!?なんで黒いねん!?」
「知らんがな。ここ長野やし」
タツヤが涼しい顔で言う。
マサキはもう笑いすぎて腹抱えている。
サキチなんか、僕の袖をクイクイ引っ張って
「ハルヒトさん、天丼頼んだらよかったのに〜」
と追い打ちをかけてくる。
「いや、天丼ちゃうねん。僕はカツ丼が食べたかったんや……」
独り言のようにつぶやきながら、
仕方なしに、その"分厚すぎるカツ"をひと口かじった。
──ザクッ。
衣が "音を立てて" 歯を受け止める。
次の瞬間、肉の重たい旨味がぶわっと広がる。
「……うまっ」
気づいたら声が漏れていた。
甘じょっぱい黒いソースは、見た目よりずっと軽い。
キャベツの千切りの上に落ちたソースが湯気を吸って、
なんとも言えない"ふわっと甘い匂い"を漂わせる。
「え、何これ……全然ちゃう食いもんやん……」
京都の卵とじの優しい世界とはベクトルが真逆だ。
だが、これはこれで強烈にうまい。
口の端にソースがつくのも気にならない。
むしろ白ご飯が止まらない。
「ハルヒト、どないや?」
タカトモがニヤつきながら訊く。
「……うまい。めっちゃうまいけど……カツ丼ちゃうなこれ……」
「そらそうやろ。どう見てもトンカツ定食丼や」
「言うてる意味が分からん……」
再びカツにかぶりつきながら、「舞子にも食べさせてみたいな」と考えた。
きっと目をまん丸にして驚いて、その後ほっぺたをパンパンに膨らませて一心不乱に食べるに違いない。
そう思うと、胸のあたりがきゅっとした。
理由は、たぶん分かっていた。
「おいハルヒト、キャベツ残すなや!」
「わかってるわ!」
ソースの染みたキャベツを口に放り込みながら、
僕は妙に笑いがこみ上げていた。
気づけば丼は空っぽだった。
美味かった。
求めていた味とは違う食べ物だったけど、大満足だ。
お腹がいっぱいになって、食後のタバコに火を点けたら、ふと、昨夜舞子にメリークリスマスの電話をせずに寝てしまったことを思い出した。
「ちょっと電話」
そう言って席をたった僕に、またもや
「まーた舞子ちゃんかー?十八歳なったから遠慮なしやなー」
と意味不明な声が飛んできた。
電話するのに何歳だろうと何の遠慮がいるんだ?
自販機で缶コーヒーを買って緑の電話の四角いボックスに咥えタバコで入る。
中山美穂のエスタックのテレフォンカードを入れて自分の部屋の番号をプッシュした。
二回鳴らして一回切って、また鳴らす。
「ハルくーん!」
今日は一回で舞子の元気な声が出た。
「舞子、メリークリスマス!」
「メリークリスマス、ハルくん!まだスキー場?」
「いや、もう帰りの高速。いまは駒ヶ岳のパーキングやな。七時か、混んでも八時までには帰れると思う」
「わーい!でも…私は今日もバイトだから会えるの十一時頃だね」
そういえばまだ二十五日だった。
厳密にはクリスマスは二十五日の日没までなのだが、レストラン的には今日の夜もクリスマスじゃないと売上に影響するのは間違いない。
「帰ったらハルくんにプレゼントあるから楽しみにしててね!」
舞子の言葉にハッと気づいた。
僕は舞子に何にもクリスマスプレゼントを買っていないことに。
「ありがとう!楽しみに帰るわ!」
動揺を出さないように答える。
「うん!じゃあ、運転気を付けてゆっくり帰ってきてね。眠くなったらパーキングで仮眠するんだよ?」
「分かったー。ほんじゃね」
「じゃあねー!」
──さてどうしたものか。
電話を切ってから考えあぐねた。
京都に帰り着く頃には、デパートの閉店時間とギリギリで確証がない。
新京極も京都BALも、間に合わないだろう。
「ハルヒトさーん!お土産見ましょうよー」
サキチがいつものように腕に絡みついてきた。
建物に戻る。
土産物コーナーには、信州の名産品が並んでいた。
あ。とりあえずはここで美味しいものを買って帰ろう。
食いしん坊の舞子は喜んでくれるはずだ。
その上で、明日改めて一緒に河原町に行って、舞子が欲しいプレゼントを探せばいいじゃないか。
名案だ。
おやき、野沢菜、真空パックの五平餅、あ、生の信州そばもあるじゃないか。
レジに持っていくと、予想外の高額になって驚いたが、とりあえずは僕だけ何も用意していないという状況は免れそうだ。
◇ ◇ ◇ ◇
京阪三条の駅でサキチを降ろすと、時間は予想通り七時半だった。
堀川を回って新福菜館で真っ黒な汁のラーメンと真っ黒な焼き飯を食べてアパートに戻る。
屋根のスノーボードを下ろし、荷物を運び込むと強烈な睡魔に襲われてそのまま眠り込んでしまった。
──「ただいまー!ハルくん!」
舞子が帰ってきた声で目を覚ます。
「僕もただいまー。そして改めてメリークリスマス!」
「メリークリスマス!」
「今日も忙しかった?」
「ううん。一昨日とか昨日ほどじゃないよー。あ、はいこれクリスマスプレゼント!」
舞子はそう言って押し入れから金と赤のリボンの付いた包みを僕に渡した。
「ありがとう。あけていい?」
「いいよー」
中からは紺色のニットキャップが出てきた。
「ハルくん、これからもスノーボード行くでしょ?そういうのあったほうがいいかなと思って」
「ありがとう!めっちゃ嬉しい!」
ウィンタースポーツが苦手な舞子は、自分は行かないのに、冬山に出かける僕のことを考えてプレゼントを選んでくれていた。
それに比べると僕のは…でも仕方ない。今はこれしかない。
本丸は明日の河原町だ。
「あ、これ僕から舞子に。珍しい食べ物!」
僕がパーキングのレジ袋から買ってきたものを出すと、舞子は一瞬きょとんとした顔で固まったあと、大きな声で笑い出した。
「ハルくん!これ!あはははは!信州の名産だよね?」
「そやで。見ただけでよく分かったな?」
「だって!だって!あははははは!」
何がそんなに面白いのか。
「クイズです!私がハルくんと初めて出会った場所はどこでしょう!?」
何を言ってるんだ。
そんなのクイズでもなんでもないじゃないか。
忘れるわけもない。
あれは、軽井沢の蕎麦屋…あ。
「私、長野県に何ヶ月も住んでたんだけど?」
舞子の笑いは、このあと銭湯に出かけるまで止まらなかった。
僕はその笑い声を聞きながら、信州土産の袋を、少しだけ情けない気持ちで見下ろしていた。




