第50回 王侯貴族の夜
スノーボード初挑戦は、散々な出だしだった。
琵琶湖アドベンチャーのオヤジがボードを買ったおまけで付けてくれたビデオを何度も観て、予習はバッチリだったのだが、いざ実際にやってみるとまるで勝手が違う。
当たり前だが。
最初は傾斜のない場所で前の足だけビンディングに固定して、後ろ足で雪を蹴ってスケーティング。
これはできる。
次に、少し進んだら後ろ足も板の上に乗っけて、踵を蹴り出すようにしてストップ。
が、これが加減が分からない。
どうしてもスキーの横にスライドさせてエッジを立てる感覚から抜け出せず、前に後ろにこけまくる。
こける時にはできるだけお尻から、接地の瞬間は頭を上げてお腹を見るようにして後頭部をぶつけないように。折れる可能性があるから手はつかない。
これはラグビーと同じだ。
雪を蹴る。
進む。
後ろ足を乗せる。
板の上で後ろ足が滑る。
こける。
立ってまた雪を蹴る。
進む。
ひっくり返る。
何十回繰り返しただろう?
「あ!これや!」という感覚をつかんだときには既に午前が終わっていた。
ひとりでレストハウスでカレーを食べる。
滋賀県のスキー場と違って、栂池のカレーは、ちゃんと美味しいカレーだった。
ご飯もしっかりしている。
トランシーバーからは、上のゲレンデのレストハウスの席が取れたのどうのとタツヤ達の騒がしい通信が入ってくる。
タバコを吸ったら練習再開。
今度は、板を持って少し斜面を登り、両足をビンディングに固定して滑り、すぐに踵側で止まる。いわゆるバックサイドだ。
これは、さっきよりも後ろ足が固定されてる分簡単にできた。
とはいえ、止まった後でバランスを崩して結局こけるのだが。
やがてなんとかこけずに滑る→止まる→滑るを繰り返して、登った斜面を下までいけるようになると、次はフロントサイド。
さっきと逆で、つま先を立てるようにして、谷に背を向けて止まる。
お。これは簡単だ。
何度かやればできるようになった。
汗だくになり、時計を見るとまた二時間が経過していた。
レストハウスでタバコを吸いながらアイスコーヒーを飲んでいると、胸元のトランシバーにタカトモの声が飛び込んできた。
「ハルヒト、どうや、スノボーとかいうの?ガガッ」
「おう!簡単やこれ!明日には一緒にリフト乗って上に滑りに行けるで!ガガッ」
僕は努力や苦労している姿を人に見られるのが嫌いで、いつも八割位の力で口笛を吹きながらこなしているように見えるよう、振る舞うクセがある。
いま咄嗟に出た言葉もまさにそれだった。
今までこの性格のせいで、なんとか辻褄を合わせるために、更なる努力を、それも人に気付かれないようにするハメになったことが何度あったことだろう。
今日もうっかりタカトモに軽口を叩いてしまったおかげで、リフトが止まる五時までの二時間のハードワークが決定した。
ゲレンデに戻ると、次はさっきのバックとフロントでエッジを立てて止まるのを完全に止まる前にまた滑り出してそれを連続して行う、ターンの練習を始めた。
バックサイドのターンはまだできる。
問題はフロントサイドだ。
踵に乗って滑っている状態から、フロントサイドターンに移ろうとすると、どうしたってその途中で完全にボードの先が谷に向く瞬間が存在する。
スキーでいうところの直滑降みたいになるのだ。
これがもう怖いのなんの。
ビビって腰が引けて当然ひっくり返る。
つま先立ちの状態で立ち上がってフロントで滑り、そこからバックに移るのはなぜか怖くない。
滑る。
曲がる。
こける。
立ち上がる。
また滑る。
またこける。
ラグビーでもこれほど地面に叩きつけられたことはないってくらいひっくり返って、
雪まみれになり、あちこちぶつけまくり、ついには立ち上がる動作を繰り返しすぎたせいで太ももが攣りそうになってきた頃、やっと「あ!」と声が出て、何かを掴んだ気がした。
それは、ウィンドサーフィンを始めて、初めて板の上に立ってセイルに風を受けることができたときと同じ感覚だった。
結局この日はここまで。
リフトが止まり、六時からのナイターに備えて点検とゲレンデの整備が始まると、僕はホテルに戻った。
板を乾燥室に立てかけ、ブーツを脱ぐ。
一日中ギュウギュウに締め付けられていた足が解放され、思わず「ああ~」と声が出た。
間もなくタツヤやヒロくん、サキチなんかのスキー組も乾燥室に戻ってきた。
「おー!ハルヒト、ええ感じなんやって!?」
「さすがやな!明日は一緒に滑れそうやな!」
「ハルヒトさん、明日は一緒にペアリフト乗れますねー」
ああ、口は災いの元。
引っ込みはつかない。
風呂に入って夕飯を食べたら、またナイターで特訓だ。
と思った。
──この時は。
◇ ◇ ◇ ◇
僕は、人一倍負けず嫌いなのに、それ以上に誘惑に弱い。
お風呂で足と体がジーンとほぐれていくのに身を任せ、ホカホカの体で夕食会場のテーブルにつく頃には、もうこの快適な空間から外の銀世界に戻って、またあの辛い昇り降りを繰り返す気は全く無くなってしまった。
それに輪をかけて、サキチのお父さんの経営するこのリゾートホテルの夕食は、今まで僕達が泊まってきたスキー民宿(長野県なのに無理やり刺身、しかもまだ凍ってる刺身が出てくる)とは雲泥の差と言えば雲にも泥にも失礼なくらいの豪華なもので、それがますますもう外には出たくないと気持ちを固めさせる。
食べ放題のビュッフェは、パテやテリーヌ、スモークサーモンに生ハム、スープバーにサラダバー、背の高い帽子を被った白衣の料理人が切り分けてくれるローストビーフ、パスタ、ピラフ、更には寿司や蕎麦、中華の点心コーナーまで、王侯貴族の夕食もかくや、という品揃えだった。
一体何種類のメニューが用意されているのかも定かじゃない。
薄く切られたローストビーフは、フォークを入れただけでじわっと肉汁が滲み、ソースの酸味と合わさって口の中でとろける。
スモークサーモンは、燻製の香りよりも先に脂の甘さが来て、噛むほどに旨味が広がる。
生ハムに至っては、塩気と香りのバランスが絶妙で、添えられたメロンに巻けば貴族の食べ物みたいだった。
向こうの鉄板ではシェフが白い湯気を上げながらパスタを和えていて、皿に盛られたそれは麺の表面がつるりと光って、ソースがしっとり絡んでいる。
ひと口食べると、もちっとしているのに歯に吸いつくような弾力があって、そこに濃厚なソースが絡み、
「え、パスタってこんな美味いもんなん……?」
と思わず顔を見合わせた。
こっちの角の点心は蒸籠を開けた瞬間に湯気とともにふわっと香りが広がり、頬張ると皮が薄くて具がぎゅっとつまっていた。
「なんやこれ、ほんまに民宿価格でええんか……?」
マサキがスパークリングワインのフルートグラスを傾けながら真顔でつぶやくと、
「ええんですよー、お父さん太っ腹なんで」
とサキチが笑う。
ワインが減るたびに誰かがボトルを抜き、皿が空くたびに新しい料理を取りに立つ。
テーブルの上は気がつけば、ちょっとした宴会ではなく"祝祭"みたいになっていた。
部屋に戻っても酒盛りは続いた。
タツヤが持ち込んだアーリータイムズの封が切られ、さっきまでとは打って変わってポテチやカルパスやチーたらや、ジャンクなつまみの袋が開かれる。
ふと時計を見ると、もう時間は十一時を回っていた。
「あれー?どこ行くねんハルヒト!」
「あー、ちょっと電話」
「なんやまた舞子ちゃんか!連れてきたら良かったのに!」
そんな皆のテンションに僕もハイテンションのまま、ロビーのピンク電話でアパートの番号を回した。
二回鳴らして、一回切ってかけ直す。
──なかなか出ない。
十回もベルが鳴り、銭湯でも行ってるのかと切りかけたところで、やっとガチャリと受話器の上がる音がした。
「舞子~!ヤッホ~!元気~!?」
アホみたいな僕の声とは裏腹に、舞子は死にそうな声で返事をした。
「あ…ハルくん…ハルくんだ…」
息も絶え絶えといった雰囲気の舞子とは裏腹に、僕のハイテンションは続く。
「どうした~ん!死にそうな声出して~!舞子~!」
「ハルくーん…ハルくーん…本当に死ぬ…クリスマスのレストラン、忙しすぎ…」
「ええや~ん!忙しいのはええことや~!商売繁盛!」
「…そうだね…ハルくん、酔っ払ってる?」
「もちろん酔ってま~す!」
「ハルくんの元気な声聞けてよかった…肩も大丈夫みたいだね」
「にじゅう!よじかん!たたか~えますよ!」
「良かった…安心したらもうダメ…寝る…死ぬ…おやすみ、ハルくん…声聞けて良かった…」
電話はそのまま切れて、僕は受話器からのツーツーという音が妙に面白くてひとりでロビーでゲラゲラ笑っていた。
受話器を置いたら急に胸が痛くなった。
多分、飲みすぎたせいだろう。
そう思うことにした。
◇ ◇ ◇ ◇
ものすごい筋肉痛と共に目覚めて、酒の抜けた頭で、昨夜の舞子が本当に疲れていたのだと、ようやく思い当たった。
反省したのは、次の朝だった。
スノーボード修行の二日めが始まる。




