第47回 カレーうどんとスノーボード
目を覚ますと、昼前だった。
「あ、ハルくん起きた。昨日バイト先でボロニヤのデニッシュ食パン貰ったんだけど、食べる?トーストするよ」
舞子がミルクティーを作りながら笑顔を向ける。
確かにお腹は空いてるし、デニッシュ食パンは美味しいのは知ってる。
でも。
「あー、ごめん、それはまた夜とか明日の朝とかに食べよう。今はめっちゃカレーうどんやねん」
「カレーうどん?あ、そういえば朝に寝る時にもそんなこと口走ってたね」
それは全く記憶にはないが、とにかく昨夜スキー場で食べた、あの忌まわしいカレーと、どうしようもないうどん、あれを上書きするためには、今の僕には美味しいカレーうどんが必要だった。
「そんなに不味かったの?」
舞子が笑いながら訊ねる。
「ホンマ酷かった。さ、すぐ着替えるから出かけよ」
そう言うと僕はミルクティーを飲み干し、いつもの501を履き、ヘインズの上から先週買ったノルディック模様の分厚いニットカーディガンを羽織った。
舞子は、黒いタイツの上にいつものデニムの短パン、そこに紺のダッフルコートという出で立ち。
車で川端を南に下る。
「どこ行くの?」
「南禅寺の近く」
「湯豆腐?」
「カレーうどんや言うてるやん。めちゃ美味い店あるねん」
丸太町で左へ折れて鹿ケ谷通に入ると、哲学の道の方から南禅寺へ向かう観光客の姿がぽつぽつ見えてきた。
冬の京都らしい澄んだ空気が漂う。
店が見えてきた。
白い暖簾が、
──揺れていない。
「あれ?」
僕は思わず前のめりになる。
暖簾は掛かっていなかった。
木の引き戸は閉じたまま。
横の貼り紙を見ると、墨字で“定休日”とある。
「え……今日休みなんだ?」
舞子が小さくつぶやいた。
「あー!日曜か今日!?」
自分の声が少しだけ情けなく響いた。
そのとき、
ガイドブックを持った外国人の男性が近づいてきて、扉を見て肩を落とした。
「Closed… What a shame…」
思わず目が合って、
僕は苦笑いしながら肩をすくめて返した。
「I know… It’s the best curry udon in Kyoto…」
「Such a pity…」
外国人はそう言って去っていった。
舞子がふっと笑う。
「どないしよ……この口、完全にカレーうどんの口やのに」
「じゃあさ……他に美味しいお店ないの?」
僕は舞子の言葉に気を取り直して、頭を巡らせた。
あ、あった。
「舞子、もうちょっと南行こ。京阪三条駅」
「駅?駅にカレーうどん屋さんあるの?」
「ある。駅のすぐ横にめっちゃ美味いとこ」
白川から動物園をかすめて東大路に抜けると、やがて八坂さんの楼門が見えてくる。
オレンジ色の楼門あたりには、眩しいような、胸の奥がすっと冷えるような独特の空気が漂ってきた。
「きれいだね……」
ハンドルを握りながら、舞子の横顔がちらっと視界に入る。
八坂さんを過ぎ三条に折れると、すぐに京都らしい、壁面に瓦屋根を貼り付けたような店構えが見えてきた。
「ここや」
そう言いながら僕は時間貸し駐車場を見つけて車を預け、道を渡った。
風格ある筆文字の木の看板。
店先には、えんじ色の暖簾が風に揺れていて、その横に小さな黒板のメニューが立て掛けられている。
カレーうどん、ねぎカレー、あげカレー…
「わ。カレーのメニューばっかり!」
舞子が声を上げた。
くすんだガラスのショーケースには、 カレーうどんやきつね、親子なんかの 食品サンプルの鉢がきちんと並べられている。
「なんか……懐かしい感じの店だね」
舞子が小さくつぶやいた。
茶色い格子の引き戸を開けると、ふわっと湧き上がる出汁の香りが鼻をくすぐった。
鰹と昆布の、甘みを帯びた香り。
店内も昔ながらの食堂然として、ひっきりなしに常連さんらしき人々が出入りする。
昼どきを少し過ぎていてなお、活気に溢れていた。
「カレーうどん、ふたつお願いします」
席につくと、ストーブの柔らかい暖かさが足元にじんわり広がる。
窓越しに、三条通を行き交う車がゆっくりと流れて見えた。
やがて、
「お待たせしました」
と湯気をたっぷりまとったカレーうどんが置かれる。
スパイスよりも先に、魚介の香りの出汁がふわっと香り、その奥に、どっしりしたカレーの匂いが混じって立ちのぼっていた。
底が見えないほど濃い茶色のルーが丼のふちまでたっぷりと張っている。
木のレンゲを入れると、とろり、と重たく持ち上がる。
中細の麺をひと口すすった瞬間、まず魚の節の香りがふわっと鼻に抜ける。
そのあとで、ピリッとした辛さがじわじわ追いかけてきて、口の中で出汁のやさしさとカレーの重みがきゅっと一緒になる。
麺はつるっとしているのに、噛むともちっとしてやわらかい、京都のうどんそのもの。濃いルーをしっかりまとって、すすったそばから喉と胃のあたりがじんわり温まっていく。
「あ〜……これや……」
思わず声が出た。
スキー場で食べたあの業務用の“なんちゃってカレー”と、ブチブチのうどんが、胸の奥で音を立てて消えていく。
たっぷり入った牛肉の旨味と、シャキッとした九条ネギの歯ざわりが、ねっとりしたルーの中で時々アクセントみたいに現れて、ひと口ごとに表情が変わった。
とろみの強いカレー出汁はいつまでも熱く、舌を灼く。
でも止まらない。
「……こんな美味しいカレーうどん、初めて」
舞子が小さく笑う。
窓の向こうでは冬の光が薄く三条通を照らし、店内の湯気と溶け合って、やけに温かく見えた。
「「ごちそうさま!!」」
二人で手を合わせる。
僕は食後のタバコに火を点けながら、舞子に言った。
「な、今から滋賀県ドライブ行かへん?」
「え?今から?いいけど何かあるの?肩は大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫!行けば分かる」
そう言って僕達は三条通を東に向かった。
京都東インターを過ぎたところでバイパスへ。
そこから湖岸に下りて、161を北に走る。
「なにあれ!?看板にでっかいワニがいる!」
舞子が道の左に現れた平和堂の看板を指さして笑った。
しまった。曲がるトコ行き過ぎた。
少し戻って和邇浜へ。
細い住宅地の間の道を抜けると、やがて視界が開けた。
水泳場の方に入っていくと、タイヤで作られた塔に手描きの粗末な看板が目に入る。
「びわこ…アドベンチャー?」
舞子が小さく呟いた。
「うん。僕とタツヤがウィンド買って教えてもらったベース」
車を停めてバラックなのかプレハブなのか分からない建物に声を掛ける。
「こんにちわ!マスターいます?」
「はーい!」
そう言ってオヤジが出てきた。
冬だというのに真っ黒に灼けた肌、チリチリの短いパーマ頭にサングラスと口ひげ、背は舞子より少し大きいくらいだが腹が出て、なぜかビーチサンダルだ。
「おー。中田くんやないか!どうしたん?冬に珍しい」
オヤジは相変わらず胡散臭い。
「お?なんやこのカワイコちゃんは?中田くんの彼女か?おっちゃんと遊ぶか?」
それに相変わらずスケベだ。
「まあ、こっち入りや。コーヒーでも入れるさかい」
そう言ってオヤジは僕達を納屋なのか事務所なのかわからないスペースに招き入れた。
椅子は木箱で、テーブルはロープを巻く木製ケーブルドラムだった。
「ほれ」
コーヒーサーバーからチタンのマグカップに注いで手渡してくる。
「ほんで、どないしたん?なんか用事か?」
そう言うオヤジに、僕は昨日の脱臼のこと、ストックを突いてバランスを崩しただけで肩が外れるのは怖いこと、でも、ウィンタースポーツは続けたいし、クリスマスには栂池に行くのが決まっていることなどを話した。
「え?ハルくんクリスマス栂池って?その怪我でまだ行くの?」
舞子が話題に反応した。
「あ、ごめんまだ言うてなかったな。サキチのお父さんが持ってるリゾートホテルが取れるらしくて、タツヤとかみんなで行こうて話になって。舞子も来るやろ?」
「だあから、私は足の下滑るスポーツは無理だし、だいたいクリスマスなんてバイト休めるわけ無いでしょ?特に今年は土日なんだし!本当は休みの日曜日も営業だよ!」
「ありゃ、そうか。残念。ほな、僕は行ってくるな」
「……どうぞ。楽しんできてね」
舞子は一瞬間を開けて拗ねたように言った。
「でも、本当に大丈夫なの?その肩で?」
心配そうに言う舞子に、オヤジが
「なんやなんや!夫婦喧嘩見せに来たんかキミら!?」
と大きな声で笑った。
「ちゃいますよー。それでね、なんとか肩を外さずにスキーできひんかと思って、マスターやったら、なんか知ってはるでしょ?」
「んー。ストック突いたら外れるねんな?それやったら、ストック突かへんかったらええんや!」
そりゃそうだが、ギャップ斜面のターンのきっかけにぜったい必要だろう…
そんな僕の心を読んだように、
「スキーちゃうで!あんなもんもう時代遅れや。ちょっと待っとき」
オヤジはそう言って倉庫の奥に行き、しばらくして手に妙な板を持って戻ってきた。
「これからは、これや!」
その板は、エッジは付いているがスキーにしてはやけに太く、だいたい一本しかない。
大きなスケボーみたいだが、タイヤは付いていない。
サーフィンボードみたいにも見えるが、それにしては小さいし、板の上に見たこともないビンディングのようなものも付いている。
「なんですかこれ?」
「これは、スノーボードや。スキーみたいに足に固定して、雪の上でサーフィンみたいに滑るんや。ちょっと前からアメリカで出てきて、コロラドとかタホではもう若い連中がハマっとる」
「スノー…ボード?」
「せや!中田くんやったら、ウィンドできるんやから、こんなんすぐ乗れるで。ちょっとビデオ見るか?」
そう言ってオヤジはデッキにVHSをセットしてスイッチを押した。
テレビに白銀の世界が映る。
その中で、背の高い外国人が今見せられたスノーボードを履いて、ヒラリヒラリと軽快に滑っていた。
それは本当にサーフィンみたいで、華麗で、優雅で、アグレッシブで、カッコよかった。
食い入るように画面を見る僕の顔色を見て、オヤジが
「それ、売りもんやで!今やったらすぐに持って帰って、クリスマスの栂池やったっけ?間に合うで!」
と売り込んできた。
ウィンドを買わされたときと同じパターンだ。
このオヤジは、アウトドアスポーツが好きな嬉しがりの人間の心をつかむのが天才的なのだ。
「なんぼです?」
「板と、ビンディングと、靴と、合わせて十五万」
「えー!?高っ!それ、家賃何か月分!?」
「いやいや、これで滑る気持ちよさと、カッコ良さと注目度考えたら安いもんや!」
オヤジが煽る。
「でもそんなお金…」
「ほい!ローン用紙!」
いつの間に用意していたのか、そんなものまで出てきた。
「月々二万の十回払い!これならバイト代でいけるやろ!?」
「う~ん…」
「ハルくん?」
舞子が不安げな顔で僕を見る。
「ただ、連帯保証人要るけどな。あとハンコと」
ああそうだ。まさかこんな展開になると思ってなかったらハンコなんてもちろん持ってない。
それに保証人って…舞子…は未成年だし。
「いま始めたら、日本で流行る頃には中田くんがベテランでめちゃめちゃカッコエエで!」
本当にこのオヤジは…
あ!そうだ!
「買います!今から守山の親のトコ行って連帯保証人のハンコと僕のハンコ突いてもらってきます!」
「ハルくん?」
舞子の顔が心配しているのか呆れているのか分からない表情になっている。
「ハルくんのそういうところ、ほんと止められないんだよね…」
「ほな、一時間くらいやな。待ってるわ!」
オヤジはそう言ってガラムに火を点けた。
甘い匂いが漂っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「結局買っちゃったね」
帰り道、ニコニコと笑顔が隠せない僕に舞子が言った。
「また新しいこと始めるんだ…怪我したからもう冬のスポーツはいいやーじゃなくて…」
「やめるかい!」
「はあ…」
ため息を吐く舞子の顔は、さっき急に顔を出していきなり「連帯保証人のハンコ押して!」と言われたときの、母親の呆れ顔にそっくりだった。
それでも、怒って帰るわけではなく、ちゃんと助手席に座っている。
そのことに、僕は少しだけ甘えているのかもしれない。




