第45回 構造主義と木星
「中田くん、現状ではこれは君の感想文の域を出ず、学術論文ではないね」
ゼミの担当教授にそう宣告されたのは、舞子と千本釈迦堂で大根を食べて烏丸今出川で僕は大学へ、舞子は出町柳のアパートへと分かれた後のことだった。
僕の卒論『ホイチョイ映画とユーミンに見るマーケティング及びプレゼン戦略』は、今のままでは理論的背景が無く、作品の魅力を述べただけだと。
僕は手元の原稿に目を落としたまま、言い返す言葉が見つからなかった。
書いているあいだは、好きなものを語る高揚感だけで筆が進んでいたけれど、冷静に突きつけられると、自分でもうすうす分かっていた弱さが一気に露わになる。
理論の裏付けも無ければ、作品が時代とどう呼応し、どう若者文化を形作っていったかという視点も弱い。
確かにこれでは、ただの映画評や音楽エッセイと大差ない。
「論文」と呼ぶには、土台になる考え方も、時代への射程も足りていない。
舞子と笑いながら歩いた帰り道の余韻が、まだ胸に少し残っていたが、今はその温かさがむしろ情けなさを際立たせた。
僕は深く息をついて、教授の次の言葉を待った。
「吉本隆明の『共同幻想論』や、レヴィ・ストロースの構造主義を調べてみては?作品の背景にある構造を掴むと、中田くんの視点はもっと強くなるよ」
教授の言葉は、叱責であると同時に、救いの綱のようにも聞こえた。
どちらも名前だけは聞いたことがある。
というかどちらの名前も、広研の後輩に「知的な先輩」と思わせたいという浅はかな思惑だけで、知った風に口に出したことのある名前だった。
「失礼します。ありがとうございました」
研究室を出ると僕はそのまま図書館に行き、吉本隆明の『共同幻想論』と、レヴィ・ストロースの『野生の思考』『構造人類学』を借りてアパートに戻った。
「ハルくん、すごい難しい顔してるよ?どうしたの?」
そういう舞子に、「ちょっと卒論で」と曖昧な返事をして僕はデスクに向かい、借りてきた本を広げた。
──どれくらい経ったのだろう、舞子が
「はい、ハルくん、コーヒー。じゃ私はバイト行ってくるね」
とデスクにマグカップを置いてくれた。
僕は少しだけ顔を上げて「ありがとう」と呟き、そのまままた吉本隆明に目を戻した。
◇ ◇ ◇ ◇
「ただいまー」
「え?もう帰ってきたの?お店暇だったの?」
「何言ってるの、いつもの時間だよ!十一時前!」
時計を見ると確かに短針と長針が十一の字の手前で重なっていた。
「もしかして晩ご飯も食べてないの?」
舞子が呆れるように言った。
うん。食べてない。そう言えば腹が減った。
共同幻想とは、みんなが同じものを見ていると思い込む、その見えない像のことらしい。
神話もまた、ばらばらの話ではなく、対立する要素の組み合わせで意味を作っているらしい。
分かったような、分からないような言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。
そんな抽象的な迷路に彷徨い込んで、僕は完全に時間の経過の外に放り出されていたようだ。
「とりあえずお風呂行って、帰ってきたらUFOあったからそれ食べるわ」
「野菜も食べなさい!」
「家に無いもんは食えん」
「もう!体壊しても知らないよ!」
舞子に叱られながら銭湯に向かって自転車を漕いだ。
いつものようにビートルズが流れる銭湯では、
ジョンの声が、考えすぎてほどけた頭の中を、そのまま空へ流していくように響いた。
レヴィ・ストロースの言葉を追いかけて漂い続けた僕の思考そのものを歌っているようで、湯につかった途端、胸の奥の緊張がふっとゆるんだ。
ゆっくりと頭を洗って髭も剃ると、気負っていた自分が滑稽に思えてきて、肩の力が抜けた。
脱衣所に出ると、今度はポールの声が、もう考えすぎるなと笑いかけてくるようだった。
あるがままに。
それでいいんだ。焦ったって仕方ない。
銭湯の外に出ると、舞子とタイミングぴったりだった。
十二月の夜気がすっと肌を刺した。
と、ふと隣のお店からなんとも心くすぐる優しい香りが漂ってきた。
「こんなとこにお店あったっけ?」
「いや、気付かんかったけど、最近できたんかな?……前からあったんかもしれん。京都って、気づかんうちに小さい店できたりするし」
舞子が店の前に出されたメニューボードを覗き込む。
───────
おかずセット(三鉢) \600
筍のたいたん(季節もの) \350
なっぱたいたん \260
山菜天 \480
豆腐サラダ \320
麦ごはん \120
たまごかけごはん \250
とろゆばごはん \400
オムライス \500
味噌汁 \180
───────
「ね、ハルくん、UFOとかじゃなくてここで食べたほうがいいよ。バランスよく」
舞子が言う。
「でも舞子、まかない食べてきたんちゃうん?」
「食べてきたけど、安いからいくつか頼んで、ハルくんはちゃんと食べて私は横からつまんでたら、お店にも失礼じゃないでしょ?」
確かにその通りだ。
「すみません、まだいけますか?」
「はーい!注文は十二時までやけど、お店は一時まで開けてますえー」
中に入ると、いきなり羽釜の乗った大きなかまどが目に入る。
居酒屋も兼ねているらしく、ご機嫌顔のサラリーマンが何組か。
京大生っぽいグループもいる。
僕と舞子はカウンターの端に腰を下ろした。
大きなガラスの下灯に照らされて、大鉢に入った煮物や炒め物が、湯気の向こうでほわっと光って見える。
カウンターには、おばんざいの大鉢がどんと並んでいた。
表のメニュー以外にもいろいろありそうだ。
「お飲み物は何しましょ!?」
「あ、すんません、ウーロン茶でもいいですか?食事したくて」
「全然問題ありません!食べてってください」
「じゃあ、とりあえず"おかずセット"ひとつと……ハルくん、何食べたい?」
「うーん……唐揚げと、あと豚生姜焼きと──」
「はいストップ」
舞子が指で×を作った。
「肉ばっかり。絶対こうなると思った」
「いや、寒いしな。体力つけんと」
「体力は野菜も食べないとつかないの。ほら、これ美味しそうだよ」
舞子が大鉢を指さす。
ふくふくと炊かれた"なっぱ"と厚揚げの炊いたん。
出汁の香りがふわっと広がる。
「じゃあ生姜焼きと"なっぱ"と……あと、卵焼き」
「うん。それならバランスとれるね」
店のおかみさんが、小皿にぽんぽんと取り分けてくれる。
湯気の上がるその皿が並ぶと、急に「食べたい」というより「救われる」ような安心感が胸の奥に広がった。
「はい、ウーロン茶ね」
置かれたコップには薄い氷が二つ浮かんでいる。
僕は麦ごはんを頼んで、湯気の立つ味噌汁を受け取った。
「じゃ、食べよっか」
箸をつけると、体の芯までじんわり温かくなるような味がした。
なっぱの炊いたんは、噛むたびにやさしい甘さが広がって、
生姜焼きの脂っぽさをふっと受け止めてくれる。
「……うまいなあこれ」
「でしょ?こういうの食べないとだめなの。頭も動かなくなるよ?」
確かにその通りだった。
銭湯の湯で少しほどけた心が、今度はさらに深いところから緩んでいく。
さっきまで胸の奥にあった、共同幻想論だの、構造主義だの、難しい言葉のガレキみたいなものが、湯気の向こうに溶けていくようだった。
「ね、表情も戻ってきたよ」
舞子が笑う。
その笑顔を見るだけで、どこかで勝手に気負っていた何かが、ストンと落ちた気がした。
「……なんか、焦ってたんやろな。卒論」
「うん。わかるよ。でも、焦って早くやろうとすると、逆に書けなくなっちゃうんだよね」
「そうやな……」
生姜焼きをもう一切れ口に入れる。噛みながら、ふっと肩の力が抜けた。
「はぁ……なんか、救われるわ。飯って大事やな」
「ご飯は魔法だよ。ほら、味噌汁も飲んで」
舞子が笑う。
その笑顔に、また胸の奥が軽くなる。
こんな夜があってよかった、と心から思った。
「ごちそうさまでした」
店を出ると、東の空には、満月に向かってふくらみかけた大きな月が輝いていた。
それに負けないくらい輝いているオリオンの三ツ星、その右肩の上の方にはプレアデスがボヤッと光っている。
「わ、ハルくん、すごい明るい星があるよ!帰る方!」
舞子が西の空を指さした。
「ああ、木星ちゃうかな」
僕達はその大きな星に導かれるように、アパートへの道をペダルを漕いだ。
舞子と僕の息が、白く弾んだ。




