第44回 しおりのボサノバと大根焚き
それは、十二月に入ってすぐのバンドのリハの日の事だった。
営業が始まるまでの時間を練習に使わせて貰っているいつもの木屋町のライブハウス、その日は舞子がしおりも誘って遊びに来ていた。
新曲の合わせが一段落ついた後の休憩、思い思いにコーヒーを飲んだりタバコを吸ったりしていると、ふと、ギターのコウジが手慰みにボサノバを弾き出した。
と、そのゆったりとしたシンコペーションに後ろから歌声が乗った。
ポルトガル語の歌が、ギターの上にそっと重なった。
細く、ほどけるような囁き。
少し鼻にかかった声は柔らかいのに、芯のところだけ澄んでいた。
「え?」
ギターが止まり、僕達三人が同時に声の方に顔を向ける。
しおりだった。
「今の、自分が歌ってたん?」
タカトモがしおりに訊く。
「あ、ごめんなさい。好きな曲やからつい」
「続きいける?」
そう言ってコウジがギターを続ける。
しおりはそのまま、静かに続きを歌った。
かすかにハスキーで、でもどこまでもまっすぐ伸びていく音色。
遠くの季節の影を、ふっと連れてくるような声だった。
「おいハルヒト、お前の友達にこんな歌える子ぉいるて聞いてへんぞ?」
タカトモはそう言うが、僕だってしおりがボサノバを歌えるなんて知らなかった。
『恋のバカンス』なら何度も一緒に散歩しながらハモったけど。
「しおり、音楽やってたん?」
「うん。高校のときに文化祭バンドで少し。あと、四国にいたときにギタリストの人と知り合って、地元のライブハウスでたまに歌ってた」
タカトモとコウジの目が輝いた。
「今ってどっかのバンドで歌ってるん?」
「ううん。今は何にも」
タカトモが顎に手を当てて"シメシメ"という顔をした。
◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあ、しおりさん今度のライブで歌うことになったんだ?」
五辻通に面した山門の前まで行くと、すでに境内の外まで行列がのびていた。
「うん、タカトモとコウジがエラい惚れ込みようでな」
丼を両手で包みながら帰っていくおばちゃんたちとすれ違う。湯気を立てた汁の匂いが、冬の冷たい空気に混ざって漂ってくる。
山門の横には「大根焚き」の白い立て看板が立っていて、その奥に石畳の細い参道が伸びていた。
山門をくぐると、境内の土は乾いていて、冬の匂いがした。
参道の両脇には漬物屋や和菓子屋のテントがずらりと並び、人いきれで暖かい。
その延長の先、正面には応仁の乱でも焼け残った本堂が、重たく立っていて、線香の煙がゆらゆらと揺れている。
本堂の右手には、「祈願済 生大根」と大書きされた白い幕のテントがあり、梵字の書かれた丸い大根が山積みになっていた。
近所のおばあさんが「今年はこれで炊くわ」と嬉しそうに抱えていく。
行列は境内の右手へ折れ、仮設の「券売所」へ続いていた。
大根と油揚げの甘い匂いが境内いっぱいに漂っている。
屋根付きのプレハブ小屋の窓から、寺の方が次々と大根だきの券を手渡している。その前にも小さな渋滞ができていて、舞子と僕もそこへ吸い込まれるように進んだ。
「二枚お願いします」
と僕が言ってお金を渡すと、係の女性が紙の券を二枚渡してくれた。
券を受け取って、隣の引き換え所に進む。
そこで券を見せると、女性が割り箸を二膳、紙に包んで手渡してくれた。
大鍋のある厨房のテントが近づいてくるにつれ、だしと煮えた大根の甘い匂いが濃くなる。ずらりと並ぶ巨大な寸胴では、輪切りにされた大根と油揚げがぐらぐらと煮えていて、前掛け姿の女性たちが長い柄杓で休む間もなくよそっている。
列の先では、積み上げられた黒塗り風の使い捨て椀が参拝客の手に渡され、その椀を持って鍋の前に差し出すと、大根三切れと油揚げ一枚が次々に盛られていく。
湯気が絶えず立ち上り、境内全体が少し霞んで見えるほどだった。
僕と舞子も椀を受け取り、鍋の前へ進む。
柄杓が椀に触れた瞬間、熱気が顔に押し寄せてきた。
丼を両手に持つと、手がじんわり温まる。
大根は、中央に出汁がしっかり染みていることが分かる濃い色。
透き通った出汁が控えめに張られている。
箸を入れると、大根は表面はうっすら透明がかっていて、煮崩れしないギリギリの柔らかさで、ほろっと切れる。
油揚げはかなり大きめで、出汁を吸ってふくふく。
一口目で湯気が立ちのぼり、鼻に昆布だしと揚げの甘みが先に来る。
「あつ、あつ……」
「ハルくん、気を付けて。いっつも熱いものそのまま食べて、後から口の中ベロベロとか言うんだから」
「そう言うても、この匂いたまらんやろ」
舞子は箸で切って持ち上げた大根にふうふうと息をかけてぱくっと口に運んだ。
「うわ。確かにこれはヤケドしてでも食べたくなるね!」
「やろ? ああ、温まる」
僕も大根を頬張る。
熱さと出汁が、体の芯までゆっくり降りていった。
「さて、お次は揚げさん…」
揚げに歯を立てると、これぞ「ほとばしる」という言葉が似合う勢いでお出汁がじゅわっと溢れた。
「うわ。舞子も揚げさん食べてみ?」
「うん。…わ!!!すごい!」
口の中がお出汁と甘さでいっぱいになる。
大根、大根、揚げさん、お出汁をくいっと、また大根。
「ふわ~!美味しかった!温まった!」
「行列に並んでる時は、足元から冷えてきてたまらんかったけどな」
「その分何杯も温かくて美味しかったね」
舞子が笑顔を向けた。
師走の千本釈迦堂。
寒い中を自転車で今出川を走ってきた甲斐があった。
帰り道、僕らはまた今出川を東へ戻った。
指先は冷たいのに、体の奥だけはまだぽかぽかしていた。




