第43回 藁の火と湖の風
十一月も後半に入り、山越えの峠道はすっかり晩秋の色に染まっていた。
朝の冷気をひと筋まとった空気の中、木々を渡る風の音だけが静かに響く。
道の両側には、赤や黄や橙がゆっくりと層をなし、陽に透けた葉がひらひらと舞い落ちていく。
カーブを曲がるたび、山肌を染める色がぱっと視界に広がった。
深い緋色のモミジに、琥珀みたいなナラやクヌギ。
そこへ杉の深緑が混じり、山全体が晩秋の色で息をしていた。
路肩には落ち葉がふわりと積もり、タイヤが踏むたび、かすかな乾いた音がついてくる。
冷たい空気の底にほんのり焦げた葉の匂いがまじり、胸の奥まで吸い込むと、それだけで季節が体に染みこむようだった。
「京都~大原、三千院♪」
いつものようにハモる僕と舞子に、後席のしおりがくすりと笑った。
「この道よく通るの?」
「うん。琵琶湖とか、ハルくんのラグビーとか、叔父さんの家とか、よく滋賀県行くから」
舞子が答える。
「そっか。私は初めてやな、この道」
「しおりさんは、大阪だっけ?」
「そう。フェリー埠頭のある埋め立て島の住宅地。海の見える街」
「そうなんだ。私も大阪の南の方だけど、山でも海でもない中途半端な場所なんだよね」
「え?舞子ちゃん大阪なん?言葉が違うからてっきり東の方かと思ってた」
「えへへ」
「どうして大阪弁じゃないの?」
僕も前から訊こうと思って別にまあいいかと特にはしなかった質問をしおりが投げかけた。
「うん。あんまり人に言ったことないけど、しおりさんにならいいかな…」
そう言って舞子は、僕も初めて聞く話をぽつりとこぼし始めた。
高校を中退して大検を取ったことは聞いていたが、それ以前、中学の頃から家では揉めてばかりだったという。
夢も希望もあったはずなのに、高校を中退したことで、全部が一度ばらばらになってしまった気がした。
でも、諦めたくなかった。
同い年のみんなより遅れるのも嫌だった。
それなら、まったく新しい場所からもう一度やり直した方がいい。
そう思って家を出て大阪を離れようと住み込みの仕事を探し、「十六歳でも親の許可があれば来ていいよ」と言ってくれた軽井沢のお蕎麦屋さんを見つけて、十六歳の誕生日にあの軽井沢へ向かった。
大阪弁は、その時に置いてきた。
新しい人生のために。
離れたことでお互い冷静になれたのか、今はむしろ一緒に住んでいた頃より心の絆は深まった気がすると、舞子は言った。
「へー、そうやったんや」
「ハルくん?私、初めて京都に来た日にハルくんに訊かれてこの話したと思うけど?」
舞子が憤慨した顔で助手席からこちらを睨む。
後ろからしおりの笑う声がした。
「いや、大阪から軽井沢行ったことと、親とはええ関係で家出とかじゃないってことは聞いたけど、仲悪かったとか、その時に大阪弁捨てたとかは初めて聞いたし」
「あれ?そうだっけ?言ってなかった?」
「うん。言ってなかった」
「ごめーん。言ったつもりだった」
舞子が笑うと、しおりが後ろから
「まあええやん、今分かったんやし」
と柔らかく言った。
まあ確かに。
「舞子ちゃんも、いろいろあったんやね」
「しおりさんほどじゃないけどね」
「コラ!」
本当に二人は仲良くなった。本物の姉妹みたいだ。
僕はどこかホッとしながら、峠の先へとハンドルを切り続けた。
◇ ◇ ◇ ◇
「あら舞子ちゃん、こんにちは。…えっとこちらのべっぴんさんは?」
藁の束を抱えながら母親が言った。
そういえば舞子は何度も実家に連れてきているが、しおりは初めてだった。
「はじめまして。ハルヒトさんの友達で、しおりといいます」
しおりがあの甘い声で頭を下げた。
「なんでこんな子が、こんな可愛らしいお嬢さん二人も連れてるんやろな」
父親も出てきて、余計なことを言って笑う。
話し始めると止まらなくなって何を言い出すかわからないから、さっさと藁を車に積み込んで、礼を言って実家を出た。
「なんやまた愛想なしで、いつも!」
母親は不満そうだったが。
琵琶湖畔に着くと、しおりが
「琵琶湖、本当におっきいねー。さっき橋渡ったときも驚いたけど」
と大きく伸びをしながら言った。
「あれ?しおり、琵琶湖初めて?」
「そうだよ」
「ハルくん、付き合ってる時連れてきてあげなかったの?いつも琵琶湖の自慢してるのに」
そんな事を言いながら、車から道具を運んだ。
秋の琵琶湖は、九月に舞子とキャンプに来た時以上に閑散として、波打ち際で犬の散歩をしている人が一人いるだけで他は誰もいない。
湖から吹いてくる風が冷たかった。
「さむ!とりあえず焚き火熾すな」
僕はそう言ってスコップで地面に穴を掘り始めた。
舞子は何も言わなくても、ちょうどいい大きさの石を集めてきて、穴の底と周りに並べていく。
もう完全に手順を覚えている。
しおりもそれに倣った。
「あ、しおりは松ぼっくり拾ってきてくれる?その辺にいっぱい落ちてるの」
「はーい」
しおりが拾ってきた松ぼっくりを穴の中に入れると、これまた何も言わずとも小枝を拾い集めてきた舞子がその上に三角に組み始めた。
チャッカマンで松ぼっくりに火を付けると、すぐにポッと燃え上がり、小枝にも火が移る。
僕はその周りに少しずつ細いものから薪を並べていった。
細い薪から太い薪へ、あっというまに焚き火が育っていく間に、舞子がしおりに指示を出してキャンプテーブルとチェアを組み立て、その上にまな板や食材を並べていく。
「舞子ちゃんと中田、息ぴったりやね。……びっくりするわ」
しおりが火に当たりながら言った。
「ほな、カツオお願いな。言われた鉄串は持ってきたで」
しおりがカツオの真空パックをナイフで切り開け、半身ずつのカツオに鉄串を差していく。
扇の広がった部分にカツオが横たわったような形ができた。
「じゃこれ、藁で炙って。私が焚き火に藁入れていくから、上った炎の上でお願い」
しおりがそう言って、軍手をした僕にカツオの串を渡す。
「いくよー」
藁が放り込まれると、ぼわっと大きな炎が立ち上がり、僕は思わずのけぞった。
「ハルくん、気をつけてねー」
その様子を見ていた舞子が、飯盒に米と水を入れながら笑って声を掛ける。
藁なんか燃やしても大した火力じゃないと思っていたのに、かなり熱いことに驚きながら、僕はカツオの刺さった串を炎の上に差し出した。
「ひっくり返しながら両面焼いて。表面だけね」
しおりはそう言いながら、テーブルの上でボウルにジャグから水を張っている。
「こんなもん?」
「もうちょっとまんべんなく、表面は全部、中は生でね」
「ほい。できた」
こんがりと表面が焼け、プツプツと泡立つように皮の浮いたカツオをしおりに渡す。
しおりがそれをボウルの水に浸ける。
じゅうと音がして瞬間湯気が上がり、水面に脂が浮いた。
しおりが水から上げたカツオを手早くキッチンペーパーでくるんで水気を取り、バットに置いた。
「じゃ、カニお願い」
今度は僕の番だ。
「舞子、トライポッドとダッチオーブンお願い。今回は予熱なしでいいから、お水入れてお湯沸かして」
「はーい。あれ?出汁パックは?」
「要らん。カニから出汁出るから」
僕は発泡スチロールから香箱ガニをまな板の上に出し、包丁を取り出した。
「あれ?ハルくんご自慢のキャンプナイフ使わないの?」
「うん。それではこいつは無理や。そりゃ!」
そう言って僕は、カニの胴体の真ん中めがけて思い切り包丁を振り下ろした。
「バン!」という音を立てて小さなカニが真っ二つになる。
「きゃ!かわいそう!」
舞子が思わず叫ぶ。しおりはその様子をニコニコ見ていた。
「これはな、こうやって豪快にぶった切って鍋に入れるねん」
僕は次々とカニを真っ二つにしてはダッチオーブンに放り込んでいく。
茶色がかっていたカニがみるみる真っ赤になっていった。
やがて、何ともいえない海の香りの湯気があたりに立ち込めていく。
その横では、網の上で飯盒がふつふつと粘り気のある汁を吹き出していた。
「舞子、しおりと一緒に玉ねぎとか野菜刻むのお願い」
味噌を溶きながらそう言って顔を上げると、もう二人は並んで野菜を刻んでいた。
舞子が玉ねぎを押さえ、しおりがワケギを刻む。
そっちも、いつの間にか息ぴったりじゃないか。
しおりが厚めにスライスしたカツオをまな板の上に並べていき、塩を振りかけた。
舞子がその上に刻んだ野菜を乗せる。
昨日僕が仕込んできた柚子酢を振りかけたら、舞子としおりが二人でバンバンと叩いた。
コールマンのキャンプテーブルの細い脚がグラグラ揺れた。
「できたよー」
文字通りたたいて完成したカツオのたたきをしおりと舞子が盛り付けてテーブルに並べた。
たっぷり二皿ある。
香箱ガニの味噌汁もできた。
シエラカップに注いで小ねぎを散らす。
「あ、中田、柚子果汁だけって持ってきた?」
「あるよ、ほれ」
「たたき食べるときに、そのままでも美味しいけど、柚子果汁にちょっと付けて食べると美味しいねん」
舞子が飯盒のご飯をかき混ぜてもうひとつのシエラカップに盛ってくれた。
カツオの塩たたき、香箱ガニの味噌汁、炊きたてのご飯。
土佐から来たカツオと、氷見から来た香箱ガニが、
琵琶湖の風の中で湯気を立てていた。
「「「いっただっきまーす!!!」」」
三人の味噌汁から、湯気がふわっと立ち上った。
カニの殻から染み出した香りが、焚き火の煙と混ざって鼻をくすぐる。
「まずは味噌汁から、だね」
舞子が手を合わせる。
僕もしおりも、同じようにカップを持ち上げた。
「……あ……これ……すごく美味しい……」
最初に小さく声を漏らしたのはしおりだった。
前髪が揺れるほど、ふうっと息を吐く。
「やさしいのに、ちゃんと旨味があって……。カニの味噌汁って、こんな味なんや……」
「せやろ。香箱はな、出汁がよう出るねん」
しおりに続いて、舞子もシエラカップを口に運んだ。
「……なにこれ……すっごい……。香りが全然違う……」
舞子は思わず目を丸くした。
「ふわっと甘いのに、すぐ後から深い味がくる……。寒いところで飲むと、余計に染みるね」
そう言って、ゆっくり息を吐いた。
味噌汁をひと通り味わい、三人ともほっと息をついたころ、しおりが箸を置いて、ふっと微笑んだ。
「……よし。じゃあ次は、こっちね」
しおりは真ん中の皿からカツオを一切れとり、柚子をほんの少しつけて口に運んだ。
「……ああ……うん、これこれ。ちゃんと炙れてる。ええ香り」
本場を知る人間の落ち着いた言い方。
僕と舞子は、少し緊張しながら見守っていた。
「あの……大丈夫?ちゃんと出来てる?」
舞子が恐る恐る訊く。
しおりは笑って、コクリと頷いた。
「うん。初めてでこれなら、めっちゃ上出来。藁で炙ったときの香り、ちゃんと出てるよ」
その声に舞子がようやく箸を伸ばし、
僕も続いて一切れつまんで、柚子を軽くつけて口に入れた。
……瞬間、ふわっと香りが抜けた。
「……うわ……なにこれ……」
舞子の声が、ごく小さく漏れる。
初めての味に、完全に心をもっていかれた顔だ。
「ほんとだ……めっちゃ香ばしい……。でも中、すごい柔らかい……」
僕もゆっくり噛む。
藁で炙った香りが先に立って、
次にカツオの甘みがじわっと広がる。
塩だけなのに、いや、塩だけだからこそ、ごまかしがきかない味だ。
「これ、ほんまに……ポン酢も何もいらんのやな」
しおりがくすっと笑う。
「でしょ? 塩と柚子と玉ねぎ、ワケギだけでええんよ。藁の香りが強いから、他の味はいらない」
舞子は次の一切れを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……こんな食べ方、知らなかった……。本場ってすごい……」
しおりは少し誇らしげに言う。
「現地の人らは、わざわざ"本場"とか思ってないけどな。普通にこうやって食べるだけ。でも、二人に食べてもらえてよかった」
カツオをもう一口味わったあと、
舞子がふと思い出したように飯盒のふたを開け、
しゃもじでふんわりと混ぜて湯気を立たせた。
「……はい、ご飯。熱いうちにどうぞ」
シエラカップに白いご飯を盛ってくれる。
しおりは受け取るなり、まず一口だけ、そっと。
「……あ、やば……。これ……めっちゃ合う……」
そのままカツオを軽くのせて、また一口。
「ご飯と合わせると、香りがまた広がる……。この食べ方、ほんま好き……」
舞子も続いて試してみる。
「……ほんとだ……。さっきの香りが、ご飯でまた変わるんだ……」
僕も同じように口に運ぶ。
藁の香りと塩と柚子の軽さが、炊きたての粒にすっとなじんでいく。
「これは……あかんわ……止まらへんやつや」
三人でしばらく黙って食べる時間が続いた。
琵琶湖から吹く冷たい風の中、
藁焼きの香りと炊きたての白いご飯を囲んで食べるたたきは、
きっと一生忘れない味だった。
「ゴローちゃん連れてきてたらエラいことになったね」
舞子がそう言って笑う。
「戦争や」
僕の言葉に、舞子としおりが大笑いした。
琵琶湖には、のんびりとカイツブリが浮かんでいた。
藁の匂いと、カニの湯気と、二人の笑い声が、
冷たい湖畔の風の中にしばらく残っていた。




