表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/65

第38回 邂逅

十月の終わりになると、京都の朝は急に輪郭を引き締める。


「すっかり秋だね」


アパートの駐輪場で自転車の鍵を外した時、指先のひやりとした感触に、舞子が小さく言った。


今出川通に出て、東へ向かってペダルを踏む。

陽ざしはもう高く、正面から差す光が視界を白くしていた。

僕らの影は後ろへ短く伸び、落ち葉を踏む音だけが通りに残った。


百万遍の交差点を越えると、左手に知恩寺の山門が見えてきた。

屋根が午前の陽を受けて、はっきりと輪郭を浮かび上がらせている。


山門の前で自転車を降り、置き場の隅に寄せる。

境内の奥からは、店主たちが棚を動かすような音がときどき聞こえた。


山門をくぐると、参道の奥に白いテントの列が見えた。

テントの手前にはロープが張られ、「古本供養終了後開場」と書かれた札が立てられている。

客はまだまばらだったが、ロープの前には、古本好きらしい人たちが静かに並び始めていた。

舞子はロープの向こう、整えられつつある本の山を眺めて言った。


「なんか、もうちょっとで始まる感じだね」


紅葉にはまだ少し早い境内、テントの列は確かに動き出す寸前の空気をまとっていた。


「秋は来られてよかったね」


舞子が笑う。

夏は糺の森で開催される古本市、数十万冊の古書が集まるこの催しには毎年何万人もの人が集まる。

春頃から、本好きの舞子と「行きたいね」と話していたのだが、今年の夏は天橋立にキャンプに出かけたりしてバタバタしてて、すっかりタイミングを逃してしまったのだ。


境内にしばらく立っていると、参道の奥で人の影がそろいはじめた。

白い法衣の僧侶たちがゆっくりと列を組み、御影堂の方へ向かって歩いていく。

その静かな足どりだけで、境内の空気が変わる。


「供養、もう始まるんやな」


僕が言うと、舞子も横で息をひそめるように見つめていた。


御影堂の扉は大きく開かれ、内部の金色の荘厳が朝の光を受けて暗がりの中に浮かんでいる。

すでに何人も畳に座り、僧侶を正面にして静かに待っていた。

僕らも靴を脱いで畳に上がり、後ろの席にそっと腰を下ろした。


やがて、読経が始まった。

低く重なる声が御影堂の柱や梁に反響して、建物そのものが呼吸しているように揺らいでいく。

柱の彫刻にかかった古い埃まで震わせるような、深い響きだった。


舞子は背筋を伸ばして、真剣な顔で手を合わせていた。

その横顔を見ていると、時間がゆっくりと均されていくような感覚になった。


読経が一区切りすると、今度は堂内に巨大な数珠が運び込まれた。

子どもの腰ほどもある木玉が何十個も連なっていて、両側に座った参加者たちがそれを両手で受け取る。


僕と舞子の前にも、やがてその数珠の一部が回ってきた。

木玉はひんやりとして重く、手に乗せるとずしりとした感触があった。


「すごい……」


舞子が小さくつぶやく。

その瞬間、全員が一斉に数珠を前へ送り出し始めた。

木玉同士がぶつかり合う乾いた音が、堂内でひとつのリズムになる。

子どもも大人も、出店者も、近所の人も、ひとつの輪の中で同じ動きを繰り返す。

"百万遍"という地名の由来になった念仏の回数が、この空気の中では何となく実感として迫ってくる。


数珠が何巡かしたあと、僧侶が最後に深く頭を下げて儀式は終わった。

堂内の空気がゆっくりほどけ、参加者たちの肩の力も自然に抜けていく。

供養と念珠繰りに参加した人には、古本市で使える金券もプレゼントされた。


「なんか……よかったね」


舞子が少し息をつくように笑った。

御影堂を出ると、ちょうど十時の鐘が境内に響いた。

朝の光が強くなって、参道の白いテントがいっせいに明るく見える。


係の人がロープを外し、短く声を張った。


「どうぞ、お入りください」


テントの前に並んでいた人たちがゆっくりと歩き出す。

本の棚が陽の光を反射して、まるで何かを待っていたかのように輝いて見えた。


「ほな、行こか」


僕が言うと、舞子はうれしそうに頷いた。


白いテントの下に入ると、背表紙の色が一気に増えた。

文庫の棚がぎっしり並んでいて、早川だの創元だの、見慣れた背が縦に長く続いている。


「うわあ、すごいね」


舞子が思わず声を漏らす。

文庫コーナーの前で立ち止まると、指先で背表紙を一本ずつ押さえながら目を走らせていく。


「クリスティは家にあるからいいとして……」


「まだ持ってへんやつ、決め打ちで探したほうがええで」


「うん。今日はイギリスものだけに絞ろうかな」


舞子は棚の背表紙を一本ずつ指でなぞりながら、

気になるものだけを抜き出しては、

しばらく表紙を眺め、

また静かに戻していく。


ロンドンの霧や、石畳の街角や、

古いパブの写真が、

舞子の視線をきれいに引き留めていた。


僕は少し離れたところにある大型本の棚へ向かった。

平積みになった写真集の山を前にしゃがみ込むと、背の太い函入りの本に混じって、カラフルなカバーのシリーズものがいくつか見つかった。


ラテンアメリカの写真集が何冊も並んでいた。


強い陽射しの広場。

色の濃い民族衣装。

土煙の中を走る古いバス。


ページをめくるたび、

まだ見たことのない空気が立ち上がってくる。


「キューバ、ないかな」


小さくつぶやきながら、奥の方まで背表紙を追っていく。

ハバナの古い街並みや、海辺の防波堤を歩く人たちの写真が、頭の中ではもう勝手に組み上がっていた。


一冊、ペルーとボリビアを特集した写真集が目に留まる。

表紙には、チチカカ湖の青と、葦船と、膝まであるポンチョの背中が写っている。

ぱらぱらとめくると、山の稜線がやけに近い村の市場や、土煙の中を走るバスが次々と出てきた。


「これ、ええな」


思わず声が出る。

紙は少し波打っていて、角も丸くなっているが、色の抜け方がむしろ気持ちよかった。


振り返ると、舞子も文庫コーナーの前で、何冊かを腕に抱えてこちらを探しているところだった。


「ねえ見て。ロンドンの下町が舞台のシリーズ、まとめて出てる」


舞子が小走りで近づいてきて、カバーをこちらに向けてくる。

古いパブの写真と、霧の橋のイラストが並んでいた。


「おお、よう見つけたな」


「こういうのは、背の並び見てると分かるんだよ」


舞子は少し得意そうに笑った。


「こっちはペルーの写真集。アンデス行ってみたいわ」


「ほんとだ。空が全然違うね」


ページを開いて見せると、舞子はしばらく黙って写真を追っていた。


テントの外からは、別の店の前で誰かが値札をめくる音や、子どものはしゃぐ声がかすかに流れてくる。

そのざわめきの中で、背表紙と写真を前に、僕らはそれぞれの「行きたい場所」を選んでいるような気がした。


◇    ◇    ◇    ◇


その声は、人混みの中からすっと僕の胸に入ってきた。


ほんのかすかにハスキーで、少しだけ鼻にかかった、澄んだ声。

耳に届いた瞬間、胸の奥にしまい込んでいた引き出しが、音もなく開いた。


いや、まさかこんなところにいるはずがない。


「これ、"キャッチャー・イン・ザ・ライ"の初版本ですか?」


サリンジャー。

間違いない。

鼻の奥に、バニラの香りが広がった。


その瞬間、僕は舞子と一緒にいることを忘れた。


忘れてはいけないはずなのに、忘れた。

足が勝手に、その声の方へ向かっていた。


「しおり…?」


折れそうなほど細い腰。透き通るかのような白い肌。茶色がかった瞳と、同じ色の、腰まで伸びた細くてサラサラの髪。

懐かしく切ない想いが、一瞬で僕を覆い尽くした。


「あ、やっぱり来てた」


そんな僕の感傷とは裏腹に、しおりはあっさりと笑顔を向けた。

あの声だ。

僕は、そこに固まってしまった。


「ハルくん!ハルくん!どうしたの?急にいなくなってびっくりしたよー」


僕の硬直を解いたのは、舞子の声だった。


「こんにちは」


しおりが舞子に微笑みかけた。

ほんの少し鼻にかかった、かすかなハスキー。


「あ、こんにちは」


舞子が応えて、ペコリと頭を下げる。

まっすぐで、明るくて、こちらに疑いなく届く声だった。


「こちらが、いま一緒に暮らしてる彼女さん?」


玉砂利から鳩が一斉に飛び立った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ