第37回 春庭良と時の記憶
舞子が突然「カステラが食べたい」と言い出した。
今まで特にカステラが好きだなんて聞いたこともないし、どうしたのか訊くと、
バイト先のオーナーシェフに「これは食べとかなあかん」というカステラを教えてもらったらしい。
「京都で初めて作られたカステラって、ハルくん知ってる?」
「え? いや、知らんなあ。カステラって長崎のイメージしかないけど」
「うん。明治時代にできたお店で、長崎でカステラ作りを習ってきて京都で広めたんだって。すごいどっしりしてるのに、甘さがしつこくなくて、いくらでも食べられるってオーナーが言っててね」
「へー、美味しそうやな」
「でしょ? それでどうしても食べたくなっちゃって。四条の大丸の近くらしいから、日曜日に買いに行こうよ!」
うん。悪くない。
そんなに美味しいカステラなら僕も食べてみたい。
それに、そんな有名なカステラを今まで知らなかったのも悔しいし、食べておかなければなるまい。
「明治十八年って言ってたから…創業何年?」
「明治十八年やったら……千八百八十五年やから、今年で百四年やな」
「うひゃー! 百年! さすが京都だねー」
「いや、舞子。京都で創業百年やと、そんなに老舗やないねん。創業が江戸時代とか戦国時代とか普通にあるし、あ、この前あぶり餅食べた店なんか、長保二年とか書いたったから千年やで。まあ、百年やと"老舗の中の若造"くらいやな」
「どっひゃー! 京都恐るべし! だね」
舞子が笑う。
「よし。とりあえず次の日曜はそこ行こか」
「はーい!」
◇ ◇ ◇ ◇
日曜日は朝からすっきりとした秋晴れだった。
僕達は朝からのんびりと鴨川デルタから糺の森を散歩し、柳月堂でクルミのパンを買って帰ってコーヒーと紅茶を淹れ、ゴローちゃんに誘われて二度寝をし、ダラダラと午前中を過ごしてしまい、お昼すぎになってやっとカステラを買いに行くつもりだった事を思い出した。
「舞子ー、四条行くでー」
「はーい。電車?自転車?」
京阪で行くか自転車で行くかと言えば、今日は断然自転車だ。
空は高く青く、風は涼しく、カンバスの端にサッと刷毛を走らせたような白がかすかにかかっている。
川端通を下っていく。
右手に流れる鴨川には、白鷺がいるのが見えた。
丸太町を過ぎ、二条通を越え、自転車はすいすい進む。
──はずだった。
「あれ?ハルくん、河原町の方に行けないよ?」
舞子の声にふと見ると、"車両通行止め"の白い立て看板と、赤い棒を持った警察官の姿。
「あー!そうや!!!」
「え?どうしたの?ハルくん!?」
すっかり忘れていたが、今日は時代祭。
御池通から四条通にかけて広い範囲が交通規制になる日だ。
車も自転車も自由には動けない。
歩道にはもう見物客がどんどん溢れ始めていた。
地図を見ると、三条通まで押して歩けば、そこから四条までは規制なし、まだ大極殿のある高倉通までは行けるらしい。
「とりあえず真っ直ぐ行こ。三条まで押して行ったら、そこから何とかなるわ」
しかし、進むほどに人は増えていき、
とても自転車に乗って走れる状況ではなくなった。
「押して歩くしかないね。でも、気持ちいい天気だからそれもいいじゃん」
舞子はそう言って明るく笑う。
確かにその通りだ。
押して歩くのも悪くない。
それに、この調子なら買い終わって戻ってきた頃に、ちょうど三条大橋あたりを行列が渡っていくはずだ。
やがて四条通に差し掛かる。
そこはすでに、黒山の人だかりだった。
四条大橋のほうを見れば、橋の上まで人がみっしり埋まっている。
「え? 行列って三条でしょ?」
舞子が首をかしげる。
「なんで四条までこんなに混んでるの?」
「そら四条河原町やしな。 今日みたいな祭ん時は、三条で見られへんかった人らも流れてくるし、普段からここ一帯は人多いねん」
「へぇ……そうなんだ……京都って、街全体でお祭りになるんだね」
舞子は嬉しそうに周りを見渡す。
僕らは波に押されるように四条通から高倉通を北へ折れ、突然、喧騒の糸がぷつりと切れたように静かな空気の中へ入った。
そこに、あった。
飴色に古びた深い木の看板に、堂々と"大極殿"の文字。
紺色の暖簾が揺れ、丸に「殿」の意匠が白く抜かれている。
四条の雑踏から一歩離れただけで、こんなにも空気が変わるものなのかと思うほどの風格だった。
「……わぁ。すごい雰囲気」
「さすが老舗って感じやな」
「でも、『まだたった百年』なんでしょ?」
暖簾をくぐると、甘い香りとお茶のようなやわらかな匂いが混ざり合った空気が迎えてくれる。
正面のガラスケースには季節の生菓子が並び、
その横には、黄色がかったレトロな包装紙に包まれた"春庭良"の棚。
「はる…にわ…よし…?」
舞子が小さく声を出す。
「"かすてーら"って読むみたいやな。当て字やな」
「かわいいねぇ。なんか、昔の絵葉書みたい」
包装紙は大正時代の図案を復刻したものらしく、素朴で上品。
舞子はハーフサイズを手に取り、そっと重さを確かめたあと、値札を見て目を丸くした。
「えっ……思ったより安い」
「な。もっと高いもんかと思てたわ」
「じゃあ、ハーフにしよっか。食べてみて美味しかったら、また来ようよ」
「うん。まずはそれがええな。どんな味か楽しみやし」
会計を済ませ、白い紙袋を受け取る。
墨文字で「大極殿」と書かれた袋は、持つだけでなんとなく背筋が伸びる。
店を出て、自転車の前カゴにそっと載せる。
舞子が飛ばされないように、袋の口をきゅっと折り込んでくれる。
「よし、これで大丈夫」
「ほな戻ろか。三条まで行ったら、行列ちょうど見られるで」
人混みはさらに増え、
四条通はまるでひとつの大きな流れのように揺れていた。
前カゴの白い袋が陽に透けて、金色のように光る。
その横で、舞子がうれしそうに僕の袖を引いた。
やがて、三条大橋の欄干と、その向こうに広がる賑わいが見えてくる。
「間に合ったね!」
「そやな。ええタイミングや」
そして僕らは、秋晴れの光と、時代祭のざわめきと、老舗のカステラの甘い香りを胸に、ちょっと特別な日曜日の午後へと歩いていった。
三条大橋の西詰に近い歩道の端に、なんとか二人分のスペースを見つけて、自転車をガードレールに立てかける。
橋の上も欄干ぎりぎりまで人で埋まっていて、みんな川面と東山の稜線を背景に、行列の来る方向を食い入るように見つめていた。
やがて、遠くから笛と太鼓の音が風に乗って届き始める。
ざわざわしていた人波が、少しずつ静まり返っていった。
「来たね……!」
最初に橋を渡ってきた山国隊は、
濃紺の羽織に白脚絆姿で、太鼓を鳴らしながら堂々と進んでいた。
「かっこええなあ」
「なんか、“始まる”って感じするね」
舞子が小さく息を漏らす。
その後も、
幕末の志士たち、
華やかな戦国武将、
ゆったりと袖を揺らす平安の女人列──
時代ごとに、橋の上の空気まで変わっていくみたいだった。
「すごいな……」
舞子がぽつりと言う。
「京都って、ほんまに千年積み重なってる街なんやな」
金の装飾が陽を返し、
狩衣の袖が風に揺れ、
雅楽の音が川面に流れていく。
僕らは、
流れていく時代を、
ただ並んで眺めていた。
舞子の肩が、ほんの少し僕の腕に触れている。
人混みに押されたせいなのか、そうしたかったのかは分からない。
でも、離れようとはしなかった。
笛と太鼓の音が次第に小さくなり、人の流れがゆるやかに動き始める。
橋を塞いでいた規制柵が開かれ、ようやく三条通が渡れるようになる。
「ふぅ……すごかったね」
「な。しばらく動かれへんかったけど、見応えあったわ」
「帰って、カステラ食べよ」
舞子がにっこり笑う。
「うん。ええお茶淹れてな」
三条通を、自転車を押しながらゆっくりと鴨川のほうへ。
さっき見た千年の行列の余韻が、まだ胸の奥にじんわり残っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
アパートに戻ると、いつものようにゴローちゃんが部屋の真ん中で伸びられるだけ伸びて爆睡していた。
一応ひっくり返してみるが、一瞬だけ片目を開けて、
「……んにゃ?」
という顔をしただけで、またすぐ夢の世界に戻っていった。
「帰ってきたのに、完全に無視だね」
舞子がクスクス笑う。
「ええねん。あいつはいつもあれやし」
紙袋をテーブルに置くと、部屋の空気がなんとなく甘くなる気がした。
包装紙のレトロな図案が、薄い午後の光にほんのり浮かび上がっている。
「お茶、淹れるで。紅茶と緑茶、どっちがええ?」
「んー……今日は緑茶かな。ほら、カステラって和菓子寄りでしょ?」
「そやな。ほな急須出すわ」
棚から信楽焼の小さな急須を取り出し、お湯を少し冷ましてから茶葉を入れる。
湯気がふわっと立ち上がり、部屋の中に"帰ってきた感じ"が戻ってくる。
舞子はそのあいだに、大極殿の包装紙を丁寧にほどいた。
薄い黄色の紙に包まれたハーフサイズの春庭良が、静かに姿を現した。
「……きれいだね。なんか、この色だけで美味しいって分かる」
「きめ細かいなあ。ええ匂いや」
包丁を入れると、
すっと抵抗なく切れるのに、ちゃんと弾力がある。
断面は明るい山吹色で、きめが細かく、思っていたよりもしっとりとして見えた。
「はい、舞子。先どうぞ」
「ありがと」
舞子は小さく一切れを口に入れた。
噛んだ途端、目をぱっと丸くする。
「……えっ、なにこれ……すごい……」
「美味しい?」
「うん……しっとりしてるのに、重くなくて……卵の香りがふわって来て……え、これ何個でも食べられるやつだよ」
その顔を見て、僕も一切れつまんで口に入れる。
……これは、百年以上残る味だった。
しっとり、ふわっとしているのに、
奥にじんわり甘さが広がって、でも全然しつこくない。
卵の香りがほんのり立って、噛むたびに優しい甘みがほどけていく。
「うわ……これは確かに、オーナーさんがおすすめするわけや」
「ね? 美味しいよね。なんか、昔のお菓子って感じがするのに、古くさくなくて」
「ほんまやな。ずっと食べてられるわ、これ」
二人でしばらく黙って味わうと、ゴローちゃんがむくりと頭を上げて、
「にゃあ……」
とだけ言って、こちらをじっと見つめてきた。
「……え? ゴローちゃん、今の声、"何それ食わせろ"って言ってるよね?」
「たぶん言うてるな。けどこれはあかん。甘いし」
「だよねぇ。じゃあ匂いだけね」
舞子がカステラをほんの少し近づけると、ゴローちゃんは鼻をひくひくさせ、
「……ふん」
とだけ言って、また寝転がってしまった。
「なんやねんその態度」
「さすがゴローちゃんだね。ぶれない」
笑っている舞子の横で、僕はカップに口をつけながら、
"ああ、こういう時間って、ほんまええな"
と思った。
窓の外は、まだ時代祭の余韻が残っているような夕方の光で、部屋の中には、お茶と春庭良の甘い香りが静かに漂っていた。
時代祭。
色褪せない『時の記憶』の行列。
その余韻は、十日後の僕を、
思いがけない場所へ連れていくことになる。




