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第39回 如月の栞

しおりと出会ったのは、春のように穏やかな二月の宮崎だった。

1986年、高校を卒業し、京都での新生活を目前に控えた十八歳の僕は、ただ免許を取りに来ただけのはずの合宿で、思いがけず"人生の栞"のような女の子と出会った。

色白で茶色がかった瞳と、同じ色の長いサラサラの髪。


ほんのかすかにハスキーで、少しだけ鼻にかかった、澄んだ声。

その響きは、ただ耳に届くだけではなく、胸の奥の、忘れかけていた感情の引き出しをそっと開けるような不思議な力を持っていた。


その声を初めて聞いた瞬間、僕は彼女を忘れられない予感だけを、もう胸の奥に抱えていた。


最初はぎこちなく、どんな距離で話せばいいのか手探りだったけれど、同じ机で授業を受け、合間の休憩で缶コーヒーを飲みタバコを吸いながら少しずつ言葉を交わし、いつしか彼女は僕の隣が"定位置"のようになっていった。

午後の空き時間には二人で教習所の近くを散歩した。

少し古い歌をよく知るしおりと「恋のバカンス」をハモりながら歩いた道は、いま思い返しても胸がきゅっとするほど静かで、眩しくて、やさしかった。


けれど、そんな時間の中に、不意に落ちた"氷の欠片"のような言葉があった。

彼女には大阪に彼氏がいた。それでも彼女は、僕の横を歩くときだけは、少しだけ表情が柔らかかった。

僕はといえば、十八歳らしく浅はかで、他の女の子の誘惑にふらりと乗ってしまった夜もあった。

そのあとでしおりの悲しげな瞳を見るたび、胸の奥がじわりと痛んだ。


喧嘩のようなすれ違いも何度かあった。

酔った勢いのキスを「嫌い」と突き放された晩もあった。

でも次の日には、「佳きに計らえ」と少し照れたように笑い、また僕の隣を歩いてくれる。

あの二週間は、まるで季節外れの春がそのまま僕の胸の中に宿ったようだった。


やがて合宿の終わりが近づくにつれ、彼女の迷いも深くなっていった。

大阪の彼氏か、僕か。

しおりは最後まで決められなかった。

僕もまた、彼女を責められるほど強い人間じゃなかった。


結局、僕は彼女に別れを告げた。

選べないなら終わらせるしかない、と。

そう言いながらも、未練がましく自分の連絡先を書いた紙を渡していた。

しおりは泣きそうな顔で頷き、何も言わずにそれを受け取った。


京都に戻ったある夜、突然電話が鳴った。

受話器の向こうで、あの声がふるえていた。


「私、やっぱり…君がいない生活は、考えられない。」

「私のそばにいて。私の横にいて。一緒に笑って、一緒に歌って…どうでもいい話をしていたい。」


たった二週間。

でも、僕が十八歳で初めて"誰かと深くつながった"時間だった。


◇    ◇    ◇    ◇


「そうなんだね。やっと話が繋がったよ」


百万遍から出町柳のアパートに戻る道すがら、並んで自転車のペダルを漕ぎながら舞子がそう言った。


「あの人、あんなに綺麗なのに、とても寂しそうに見えたから」


「うん。色々あったんや──」


◇    ◇    ◇    ◇


知恩寺の古本市で、こんなところにいるはずのないしおりと出会った僕は、正直何を話していいのか分からなかった。

でも、しおりはあっけらかんと、少なくともそう見えるように明るく振る舞って僕と舞子に笑いかけた。



──僕と一緒にいたい、そう言って電話をかけてきたしおりとの蜜月は、しかし、二ヶ月ほどしか続かなかった。

僕は京都の大学、しおりは就職した大阪のアパレル会社、それぞれの新しい生活が始まると、徐々に二人の時間はすれ違い、四月が終わる頃には合う回数だけではなく電話の回数も少なくなっていた。

ゴールデンウィークももちろんしおりは仕事で、僕はそれについて結構な不満をぶつけてしまった。

電話をしても話が続かなくなり、やがてしおりが、やはり元の彼氏のところに戻ると言い出すのにそんなに時間はかからなかった。



「結婚します」


そんな電話がかかってきたのは、一回生の秋だった。


それからも、しおりは何度か僕の前に現れては、またどこかへ行った。


一度目の結婚がだめになったあと、祇園のラウンジで働いていたしおりと、夜のネオンの前で再会したことがある。

彼女は、昔から行きたいと言っていたオーストラリアに渡るため、手っ取り早くお金を貯めるのだと言っていた。


しばらくのあいだ、僕らはまた短い蜜月を過ごした。

朝の鴨川デルタを「恋のバカンス」を歌いながら歩き、夜は僕の部屋でバックギャモンをして、お揃いのマグカップでコーヒーを飲んだ。


けれど春になると、しおりはオーストラリアへ旅立った。

帰ってきたときには、長かった髪を肩で切り、青いアイシャドーと大きなイヤリングをつけ、以前とは少し違う空気をまとっていた。


そのあとも、しおりは誰かと付き合い、結婚し、別れて、また別の場所へ行った。

僕らはそのたびに短い時間だけ寄り添ったけれど、結局、どちらも相手の「最後の場所」にはなれなかった。


それでも、どんな恋愛をしていても、心の一番深い場所には、ずっとしおりがいた。


ただ不思議なことに、去年の冬、舞子が突然信州の蕎麦屋から僕のアパートに舞い込んできてそのまま住み着いてしまった頃から、しおりのことはほとんど思い出さなくなった。

舞子の無邪気なパワーに振り回され始め、それが楽しく楽しくて、しおりは、過ぎ去った季節、宮崎の如月のページに挟まれた栞みたいに、そこに残っているだけの存在になっていた。


◇    ◇    ◇    ◇


「それで、しおりさんはまた結婚ダメになって、ハルくんのところに戻ってきたんだ…」


舞子が遠くを見ながら呟いた。


「いや、戻ってきた訳ちゃうとは思うけど」


「でも、ハルくんが出町柳に住んでる事知ってて、わざわざ百万遍にアパート借りたんでしょ、しおりさん?」


◇    ◇    ◇    ◇


──古本市で出会った後、しおりが近くでお昼を一緒に食べようと言ってきた。

別に断る理由もなかったし、京大近くの喫茶店風の店に三人で向かった。

ここは、元々は見た目の通り喫茶店なのだが、学生向けのランチを色々やっている内にメニューがどんどん増えて気が付けば完全に定食屋になってしまったという、京大生のオアシスのような店だ。


「しおり、しゅうまい定食あるで?」


メニューを見ながら僕が言うと、しおりは思わず吹き出した。


「え?何?しゅうまいがどうしてそんなに面白いの?」


舞子がしおりと僕の顔を交互に見ながら不思議そうな顔で尋ねる。

合宿所のホテルで、初日と最終日に出てきた、世界中の物悲しさを集めて蒸したような、味のしないしゅうまい定食。

とにかくあのホテルの飯はどれもこれも不味かった。


話を聞いた舞子も大笑いをしながら、


「じゃ、私しゅうまい定食!」


と注文を決めた。

僕はカツカレー、しおりは煮魚定食。


もちろんこの店の定食はどれもとても美味しい。


「このしゅうまい美味しい!でも、上のグリーンピースさえなかったら完璧なのに!」


舞子はグリーンピースを避けながらしゅうまいを美味しそうに食べている。

そんないつもの舞子を見ながら、僕はしおりに訊いた。


「何で京都にいるん?結婚して四国に住んでるんちゃうん?」


「ははは、また別れちゃった。私、結婚に向いてないみたい」


しおりが笑いながら答えた。


「でも今回は二年もったよ?」


「確かに」


僕も笑う。

舞子は笑って良いのかどうか困った顔をしていた。


「で、二人はいつから一緒に住んでるの?」


しおりはあの不思議なミルキーボイスで尋ねた。


「百万遍に越して来てすぐ、懐かしいなーと思って夜に散歩がてら中田のアパートの辺りまで歩いて行ったら、二人で洗面器にシャンプー入れて自転車で仲良く出かけていくところで、声かけそびれたの」


「一年と…途中半年くらいいなかったから、四ヶ月?くらいかな」


「へー、舞子ちゃん?やったっけ?すごく若く見えるけど、いくつ?」


「もうすぐ十八」


僕が答えると、しおりは笑った。


「犯罪やん!?」


「いや、そういう関係ではないけどな」


「そうなの?」


しおりには別に親戚がどうこうとややこしい言い訳をする必要もないので、僕は正直にこれまでのいきさつを話した。


「へー、"純愛"ってやつだ」


いつもなら「そういうんじゃない」と即座に否定するところなのだが、

心の奥底を見透かすようなところがあって、しかも誤魔化す必要のないしおりに言われて、僕ははたと考えてしまった。


僕にとって舞子は、どういう存在なんだろう?


今まで僕の中で、誰と出会って誰と寝て誰と付き合っても、一番、いや、順位をつけるまでもなく絶対的不動の存在はしおりだった。

でも、舞子と住むようになって、今日しおりに会うまですっかり忘れていたのは事実だ。


だからといって、舞子はそういう恋愛の対象なのか?と言われたら、はっきりとそう意識したことはない。

ただ、いつの間にか一緒にいるのが当たり前の存在になって、いろんな風景を一緒に見て、いろんな美味しいものを一緒に食べて、一緒に笑って、一緒に感動して、心が動くシーンに出会ったときに隣りにいるのは絶対に舞子しか考えられない。


「……そうなんかもな」


口に出してから、自分でも少し驚いた。


そう答えた僕を、舞子が驚いた顔で見上げた。

しおりも、少し驚いた顔をして、でもすぐにいつもの穏やかな憂いをたたえた顔に戻って


「そう…」


と小さく呟いた。


◇    ◇    ◇    ◇


「しおりは僕のとこに戻ってきたんちゃう。僕はいつも、とまり木みたいなもんや」


「そうなの?」


「うん。最後に戻るのは、多分僕ちゃうねん」


「そうなんだ」


「それに今はそのとまり木には、ずっーっと舞子がとまってるしな」


「なにそれー!」


自転車を漕ぎながら、舞子と僕は顔を見合わせて大声で笑った。


心の一番深い部分を占領していたはずのしおりとの再会がきっかけで、今の自分の心の深い部分を覗き込んだ、そんな気分だった。


「ね、今度ご飯とか呼んであげようよ、しおりさん」


舞子が無邪気に笑った。

その無邪気さが、少しだけ怖いくらい強く見えた。


部屋に戻ると、ゴローちゃんが小さく「にゃ」と出迎えてくれた。

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