第34回 明太スパと夜の蝶
今日も舞子は欧風レストランにバイトに出かけた。
僕はと言えば、最近は卒論に取り掛かっていることもあり、二十四時間カフェのシフトはあまり入れていない。
舞子が出かけたあと、卒論テーマのホイチョイ映画とユーミンについて考えるために「私をスキーに連れてって」を観ていた。
……はずだったのだが、気がつけば原田知世の可愛さに夢中になって、普通に映画を楽しんでいただけになっていた。
ゴローちゃんが横でずっとゴロゴロ言っていた。
と、唐突に、スキーともトヨタ・セリカとも何の脈絡もなく、猛烈に明太子スパゲッティが食べたくなった。
もちろん冷蔵庫に明太子なんて常備してない。
時計を見ると、ダッシュすればまだ商店街のスーパーは開いている時間、僕は自転車に飛び乗った。
スーパー独特の、どこか切なくなる「別れのワルツ」が流れる中、明太子と大葉と刻み海苔とレモンをかごに入れた。玉ねぎとバターと白ワイン、そしてもちろんスパゲッティは部屋にある。
部屋に戻ると、一番大きな鍋にたっぷりの湯を沸かす。
その間に、玉ねぎを薄切りに…んー、スパゲッティどれだけ茹でよう?
ほんの少しだけ考えて、三百五十グラム一袋いくことにした。ということは玉ねぎも丸ごと一個分スライスだ。
ボウルに明太子を一パック全部入れて、包丁で皮に切れ目を入れて中身をしごき出し、それを白ワインで溶く。大葉は千切りに。
そうこうしてる間にお湯が沸騰したので、塩を多めに入れて海水より少し薄いくらいにし、スパゲッティを一袋。キッチンタイマーの時間は七分だ。
フライパンにバターを溶かし、焦がさないように玉ねぎを炒める。
バターの匂いが部屋中に広がり、空腹に拍車をかけた。
ゴローちゃんも鼻をヒクヒクさせながら台所にやってきて「にゃー」と鳴いた。
玉ねぎが透き通ってきたら大鍋の茹で汁をお玉で一杯、フライパンに注いで揺する。
茹で上がった麺をフライパンに移して和えて、いい感じに馴染んだら醤油を一回し。
ワインで溶いた明太子は火を止めてから予熱で麺と和える。
千切りの大葉と刻み海苔を乗せ、レモンスライスを添えたら出来上がりだ。
分かっていたが、この部屋にある一番大きな皿からも溢れそうなくらいの山盛りになった。フォークでレモンスライスを押さえて酸味を散らす。
明太子スパゲッティは、お上品に食べてはいけない。
野球のボールに近いくらいフォークに巻き付けたら一気に口に運んでバクリといく。
または、巻くこともせずにズゾゾゾゾと食べてこその明太子スパゲッティだ。
バター醤油の香ばしい甘さと、明太子のピリッとした辛味、魚卵の旨味。海苔が磯の香りを補強し、大葉の爽やかさが次のひとくちを誘う。
美味い。
めちゃくちゃに美味い。
山盛りのスパゲッティがみるみる減っていく。
あっという間に一皿平らげた。
が、やはりちょっと多かった。
食べ終えてタバコに火を付けると、強烈な眠気に襲われて、すぐにタバコを灰皿に押し付けて火を消し、そのままソファに倒れ込んで寝てしまった。
幸せだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルくん、ハルくーん!大丈夫?」
舞子の声で目が覚めた。
「どうしたの?死んだように寝てたよ?」
「明太子スパゲッティ食べすぎた…」
「どんだけ食べたの?」
「一袋…」
舞子が大笑いする。
時計を見ると、いつも帰って来るよりもかなり早い時間だった。
今日はお店がとても暇で、早仕舞になったらしい。
「ほな、銭湯行こか。腹ごなしに自転車漕ぐ」
舞子はまだ笑っている。
銭湯までの道のり程度では到底こなれない満腹感。
髪と体を洗い、ヒゲを剃り、ゆっくりと湯に浸かって出てくると、やっとちょっとお腹が楽になった。
「ハルくん、なんか毎回食べすぎて死んでない?」
舞子がまた笑った。
「アパート戻ってコーヒー淹れたら落ち着くはずや」
「あ、じゃあ私もミルクティ!」
部屋に戻って灯りをつけると、伸び切って寝ていたゴローちゃんが目を覚まして大きな伸びをした。
とりあえず湯を沸かす。
♪シャバダバシャバダバ~
テレビをつけると、11PMの曲が流れてきた。
「今夜は、新地と祇園、夜の蝶が舞うクラブの特集です~」
タージンのけたたましいレポートVTRが始まり、スタジオでは藤本義一が落ち着いた声で進行をつとめている。
画面には、大きなひさしのついた巻き髪のホステスさんが映っていた。
煙草の煙とネオンの色が、ブラウン管の中で滲んでいる。
「なんかすごいねー。こんな世界があるんだねー」
そういう舞子の前にミルクティを置き、僕も淹れたてのコーヒーのマグカップを持って隣りに座った。
「久しぶりに観たな、イレブンピーエム」
「いつもちょうどお風呂に行ってる時間だもんね」
「中学生の頃、親の目を盗んでこっそり観たなあ」
「男の子って好きだよね、この番組」
「でな、エッチなコーナー始まるか思てワクワクして待ってたら、その日に限って釣り特集とか始まるねん」
「あはははは!」
「あのがっかりは、思春期の男の子にしか分からへん…」
「あ、そう言えばさ」
舞子が目線をテレビのホステスさんに戻して言った。
「この前ハルくん、こういうとこ会社から連れてってもらったんでしょ?」
「ああ、そういや連れて行かれたな……」
──そうだった。十月の二週目、会社から呼び出されて大阪へ行った。
今年は内定解禁日の十月一日が日曜日だった事もあって僕の内定先ではその日のいわゆる「拘束」はなかった。
代わりに翌日の月曜日に郵送で届いた正式な『内定通知書』に添えられた手紙には、
「来週火曜日、懇親会を開催するので参加されたし」
とあった。
集合場所は会社ではなく、北新地のお寿司屋さんに現地集合。
タクシーの列と、出勤するお姉さん方に圧倒されつつ、少し早めに指定の店の前に行くと編集長が先に来ていて、僕を見つけると「よう」と手を上げた。
編集長の話によると、どうやら今日は、イベント事業部の担当役員も参加するらしい。
「あのおっさんな、親会社からの出向で来とって、ウチの雑誌で紹介するようなホンマに値打ちのあるうまい店やのうて、高いだけの店とか、女の子がおる店とが好きでな」
こっそりと耳打ちするように編集長が言う。
「せやから今日も、編集部的には不本意な流れにされるかも知れんけど、君は企画部やけど、イベント部いく子ぉもおるから、まあ上手いこと立ち回っといて」
その言葉に不安になってはいたのだが、一軒目のお寿司屋さんはいい意味で期待を裏切って、食べたこともない美味しいお寿司が食べられた。
北新地の裏通りにある寿司屋、名前は忘れたけれど、とにかく高級感がすごかった。
一貫一貫が驚くほど上品で、口の中で酢飯がはらりとほどけてネタと一体になって…でも僕は初めての「新地の寿司屋」というものに気圧されて、味よりも、上座の編集長たちの笑い声のほうが記憶に残っている。
食事の後、件のイベント事業部の役員が、
「せっかくやから二次会いこか」
と言い出し、初めて"新地のクラブ"という場所に足を踏み入れた。
そこは、確かに店は高級感に溢れて、ママもホステスさんも綺麗で上品で、他の席のお客さん達も金持ちそうな紳士ばかりで、"ええとこ"なのは間違いなかったんだけど、僕はちっとも楽しめなかった。
ホステスさんの話はウィットに富んで馬鹿な下ネタから難しい経済の話まで幅広く何でも対応しながら、こちらを持ち上げることは忘れない、まさにプロの話術だった。
絨毯の深い赤と、氷の音。隣の席の同期が妙に背筋を伸ばしていた。
でも僕は、
(この人は、僕と話してるんじゃなくて、お金と話してるんやなあ……)
という感情が先に出てしまい、曖昧な笑みを浮かべながら、ホステスさんの服の大きな襟に施された派手なステッチばかり見ていた。
それに、「チャーム」という名前でテーブルに出てきたのは、氷水のグラスに浸かったポッキーと、カクテルグラスに盛られたツナピコ。
「水割りでいいですか?」と出されたお酒は、一体何の水割りなんだ?という説明もなく、「ミネ」と呼ばれる割り水からは水道水のカルキの味がした。
氷の角がグラスの内側で鳴る音だけが、やけに耳に残った。
なんでこんなものに、大人たちは何万も払ってありがたがっているんだ?
全然理解できないままに、盛り上がってホステスさんの手の甲を撫でている役員のおっさんを眺めていると、なんだか途轍もない時間の無駄遣いをさせられている気がして腹すら立ってきた。
「この店はこれが名物やからな、みんな食べ!滅多なことでは食べられへんで!」
下卑た笑みを浮かべながらおっさんが皆に注文してくれた、血の滴るような和牛のカツサンドは確かにびっくりするくらい美味しかったけれど、
「これな、一人前八千円やぞ!お前ら!」
というおっさんの声で、その美味しさはどこかへ飛んでいった。
値段を叫ばれた瞬間、食べ物じゃなくて、自慢話になってしまった気がした。
全く以て馬鹿げている。
◇ ◇ ◇ ◇
「で、どうだったのハルくん?ホステスさんのお店」
舞子が興味津々な顔で訊く。
「いや、もし僕が将来エライさんになって会社の金でこういうとこ行ける身分になったとしても、僕は行かへんし、若い子ぉら連れて行くこともせえへんと思うわ」
僕の表情を見て何かを察したのか、舞子は
「ふ~ん」
と言ったきりこの話題は終了した。
『さてお次は、丹波の栗と黒枝豆です!』
11PMも次の特集に切り変わった。
丹波篠山、のどかな"ザ・里山"という風景が映り、丹波栗と丹波黒豆の枝豆が旬だというレポートが流れる。
うん。
ネオンの街の綺麗なお姉さんより、断然こういう方がいい。
「な、舞子…」
「私を丹波に連れてって!日曜日ね!」
僕が口に出すより早く、舞子がそう言った。
当意即妙。
高い酒も、派手なネオンも、ホステスさんの話術も敵わない。
やっぱり僕は、舞子とこういう話をしている時間のほうが好きだった。
「枝豆と栗ご飯やな。どっかで秋刀魚も買ってきて焼こ」
「うん!」
──こうして僕は、11PMのエッチなコーナーを待つ中学生みたいな気分で、日曜日を指折り数えた。




