第35回 私を丹波に連れてって
グラスと皿の触れ合う音が遠くに聞こえた。
お客さんの流れが一段落したとき、いつものようにサキチが僕の横にやってきて猫のように体を擦り寄せ、囁いた。
「ね、中田さん。次の日曜日、車でどっか連れてって下さいよぉ?」
サキチは舞子よりも更に背が低いから、話しかけてくると自然と甘えたような上目遣いになる。
いや、自然にではなく明らかにわざと挑発するような態度で話しかけているのだろう。語尾がそれを裏付けていた。
「あー、ごめん。日曜日はもう出かける約束があって」
「また舞子ちゃんですかぁ?絶対に親戚じゃ…」
「あ、五番テーブル、お水注いで空いたお皿下げてきて」
「…はーい」
仕事の指示の形を借りて、サキチの言葉の先を遮った。
この子の意図は何なんだろう?
僕に興味を持っているらしきことは分かるんだけど、舞子が親戚なんかじゃないと感づいているのならば、そして自分のライバルだと思っているのならばあんなに舞子と仲良くする理由がわからないし、逆に友だちになった女の子の応援をしようと思っているのならば、最近の思わせぶりを越えて露骨なアプローチの理由がわからない。
ユリカみたいに、親しげなふりをしながら、自分の優位を誇示するために上から目線の毒を振りまくタイプではないし、かと言って健気に僕を想ってくれているようにも見えない。
まあ、悪いのは僕なのだろう。
可愛い女の子に好かれて、連れ歩いて、楽しくないわけがない。
用事がない日は、ついデートに応じてしまう。
「じゃあまた今度、舞子ちゃんバイト行ってる日に晩ご飯デートして下さいね!」
サキチはわざとふくれっ面を作って、笑顔で手を振ってバイト先から帰っていった。
「お前、絶対サキチに手ぇ出してるよな?」
タツヤがニヤニヤしながら交代の深夜シフトに入った。
◇ ◇ ◇ ◇
「朝ごはんのサンドイッチも作ったし、コーヒーと紅茶も淹れたし、さ!出発しようハルくん!」
日曜日、舞子は僕が寝ているうちから起き出してドライブに出かける用意をしてくれていた。
「ふみゃー」
ゴローちゃんが、朝の気配を察して不満げに鳴いた。
「今日はゴローちゃんも一緒に行くか?久しぶりにマジソンバッグに入ってドライブ」
「にゃーん」
冬に、ずっと車に乗せて舞子を探し回った時以来に取り出したバッグに、ゴローちゃんは嬉しそうだ。
バスケットにサンドイッチとコーヒーの入ったスタンレー、あと最近好日山荘で買ったテルモスにはミルクティ、そしてゴローちゃんのカリカリと水と深めの紙皿を放り込んで、僕達は出町柳から丹波に向けてスプリンター・カリブで出発した。
朝の鴨川デルタには、犬の散歩をしている人が見えた。
五条通まで下って、国道1号線を西に向かう。
まだ朝の冷気が残る市内の空気は澄んでいて、窓を開けると、どこか金木犀の甘い匂いが混じっていた。
西京極の競技場を横目に見ながら国道9号を進む。
前を走るトラックのテールランプが赤く滲んでいた。
舞子の作ってくれたサンドイッチを食べながらハンドルを切る。
「はい、コーヒー」
スタンレーの蓋にコーヒーをついでくれた舞子も、ミルクティとサンドイッチで朝食だ。
「なんか、すっごい楽しい!」
舞子が笑う。
老ノ坂峠へ入る手前で、道路がゆるやかに登り坂になる。
去年開通したばかりの老ノ坂亀岡道路は、舗装がまだ新しくて滑らかだった。
舞子が助手席から窓の外を覗きながら、
「ここ、昔はもっと狭かったんでしょ?」
と訊く。
「ああ、トンネルができる前は峠道やった」
と僕が言うと、
「今の道、綺麗だね。なんか新しい匂いがする」
と舞子は笑った。
トンネルを抜けた瞬間、ぱっと視界が開ける。
霧の残る谷間の向こうに、亀岡の盆地が広がっていた。
あの、やわらかい光の広がりを見ると、京都から外へ出た実感が湧く。
峠を下って、9号線を少し南へ。
亀岡の街並みを抜け、加塚の交差点でハンドルを左に切る。
そこからが、今日の旅の本番──国道372号、デカンショ街道だ。
道幅はさっきまでより細くなって、
両側の田んぼでは稲刈りがちょうど終わったところ。
丸められたワラの束が転がっていて、太陽に照らされて金色に光っている。
園部を過ぎるころには、
山の稜線に少しずつ紅葉が混じりはじめていた。
窓から差し込む風が冷たくて、
舞子は自分のストールを肩に掛け直しながら、
「こういう風、好き」と言った。
後ろのマジソンバッグの中で、ゴローちゃんが「にゃあ」と小さく返事をした。
やがて、道はゆるやかに西へ傾き、「篠山町」の標識が見えてくる。
陽はもう高く、スプリンター・カリブのボンネットに映る空が、澄みきった青さを増していた。
──やがてあたりは、民話の挿絵に出てくるような山里の風景になった。
稲架掛け(はざがけ)が並ぶ田んぼ、軽トラックの停まった広い庭のある農家、籾殻の山に突き刺された煙突からたなびく煙。
誰にも収穫して貰えなかった渋柿をたっぷりとぶら下げた木が並ぶ山の裾野がすぐそこまで伸びて、斜面には段々畑が続く。
「坊や~良い子だねんねしな~♪」
舞子が小さな声で歌っている。
「あ!あそこ!」
舞子が歌を中断して前方を指差した。
『丹波特産!黒枝豆直売』
畑の一角の掘っ立て小屋に、手描きの大きな看板が出ている。
あたりの道路には路上駐車の車が何台も停まり、小屋の前に人だかりができていた。
倣って車を路肩に止めてドアを開けると、野焼きの匂いが風に乗って通り過ぎた。
「うわぁ、すごい人!」
舞子が小屋の前の人だかりを見て目を丸くする。
掘っ立て小屋の前では、腰の曲がったおばあちゃんたちが軽トラの荷台から枝付きの枝豆をどんどん並べている。
マジックで書かれた段ボールの看板には、
「黒枝豆 一束五百円!」とある。
「え?なにこれハルくん!? なんかこの枝豆、透けてる中身黒くない?」
舞子が枝を持ち上げて、陽にかざした。
確かに、さやの奥に黒ずんだ豆がのぞいている。
「ほんまやな、焦げてるわけでもないし……なんでやろ?」
僕が首を傾げていると、
奥から手ぬぐいを頭に巻いたおばあちゃんが笑いながら近づいてきた。
「お兄ちゃんら、知らんのやねぇ。これ、"黒豆の枝豆"やで」
「黒豆の?」
「そうそう。丹波の黒豆って聞いたことあるやろ? あれをまだ若いうちに採ると、こうして枝豆になるんよ。ほら、黒豆になる直前やから、ちょっと黒みがかっとるやろ?」
舞子が目を丸くした。
「へぇ〜! ほんとだ、きれい〜!」
「味も濃くて甘いで。普通の枝豆と違うんや」
おばあちゃんは嬉しそうに笑って、
枝の束をひとつ手に取って舞子に見せた。
「でもこれ、枝付きってことは……結構重そう」
「一束でだいたい一キロちょっとやな。茹でたらあっという間に無くなるで」
「うーん、そんなに食べへんけど……」
「食べる食べる!ほな、一束で四百円にしといたるわ。お嬢ちゃん可愛いし」
「えっ、ありがとうございます!」
舞子が照れたように笑いながら枝を受け取ると、
豆の青い香りがふわっと立ちのぼった。
「茹で方はな、お湯に塩いっぱい入れて、三分ほど。湯の味見して"海やな"と思たらちょうどええ」
「はいっ!」
舞子がうなずく。
袋を受け取ると、新聞紙と麻紐でくるんだだけの素朴な包み。
「この感じ、なんか懐かしいな」
「なんか、昔の八百屋さんみたい」
舞子が笑う。
小屋の脇では、焼き栗の香ばしい煙が上がっていた。
その煙が朝の光に溶けて、ゆっくりと青空へ昇っていった。
「ありがとうございました」
おばあちゃんに頭を下げると、舞子がふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、テレビで見たんですけど……丹波栗って、どこで買えるんですか?」
「栗か? この先の信号を右に曲がったとこやね。ほら、"栗の里"って木の看板出とるとこ。焼き栗もやっとるで。若い人らは、みんなあそこで買いよる」
「ありがとうございます!」
舞子は嬉しそうにおばあちゃんに改めて頭を下げた。
車に戻ってエンジンをかける。
車内に、黒枝豆の青い香りがほのかに広がっている。
教えられた通りに小さな交差点を右に折れると、
『丹波栗 焼き栗あります』と手描きされた板が見えた。
その向こうで、鉄鍋の中の栗がカラカラと音を立てて転がっている。
「わぁ〜、いい匂い!」
舞子が思わず声を上げる。
煙の中に甘く香ばしい匂いが混ざって、秋の空気をさらに濃くしていた。
焼き栗を紙袋に詰めてくれたおじさんが、
「生のもあるで。家で栗ご飯にしたらうまいよ」
と言うので、生栗も一袋買った。
駐車場の隅で袋を開けると、まだ熱気が残っている。
「いただきまーす」
舞子が一つつまんで、そっと殻を割った。
「んっ……あちっ!」
指先を振りながら笑う。
「もうちょっと冷ましてからにしぃ」
「そうだね」
車が走り出して少しすると、舞子は器用に殻をむいて中身を取り出しはじめた。
「ほら、あーん」
温かい焼き栗を、舞子が笑いながら僕の口に放り込んだ。
舌に触れた瞬間、ふんわり甘くて、ほっこりする味が広がる。
「うま……」
焼き栗の甘さが、まだ熱を残したまま口の中でほどける。
「ねっ。秋って感じするね」
車の窓を少し開けると、冷たい風が頬を撫でた。
焼き栗の香りを残したまま、車を走らせていると、
舞子が助手席から「あっ」と声を上げた。
「見てハルくん、あそこ。茅葺きの屋根、うどんって書いてある!」
道の向こう、杉林の手前に、煤けた茅葺き屋根の古い家がぽつんと立っていた。
玄関ののれんが風に揺れ、木の看板には手書きで「山菜うどん かやくごはん」とある。
「ええ感じやな。ちょっと寄っていこか」
「ふみゃ!」
あ、ゴローちゃん忘れてた。
フラットにして後席と繋いでいたラゲッジスペースに紙皿を二つ並べて、お水とカリカリをそれぞれに入れると、ゴローちゃんはみゃふみゃふと満足げな声を出して食べ始めた。
「それ食べて、ちょっと待っててな」
引き戸を開けると、出汁の香りが鼻をくすぐった。
板の間には四角いちゃぶ台が並び、囲炉裏の灰がほんのり温かい。
おばあちゃんが割烹着姿で「お好きな席どうぞ」と笑う。
「山菜うどん二つと、かやくごはんのおむすび、お願いします」
少しして、湯気の立つ大きな丼が運ばれてきた。
透き通った出汁の中に、わらびとぜんまい、たけのこ、ふき、なめこが浮かんでいる。
箸を入れると、ゆらゆらと三つ葉が香った。
「うわ、やさしい味」
「ほんまやな。さっきの栗の甘さがまだ残ってるのに、ちょうど合う」
かやくごはんのおむすびを半分に割ると、
中から細かく刻んだごぼうと油揚げの香りが立ちのぼった。
舞子が笑いながら、湯気の向こうで目を細める。
「ねえハルくん。こういうの、いちばん贅沢かもね」
「うん。高いもんより、うまい空気の中で食べるもんがいちばんや」
外では、風が杉の葉を揺らしていた。
障子越しの陽が、ゆっくりと座敷に模様を描いていく。
出汁の香りと、山の静けさ。
それだけで、十分だった。
車に戻ると、ゴローちゃんがお腹を上にして眠りこけていた。
いつものように意味もなくひっくり返す。
でも起きなかった。
「帰ったら、栗ご飯やな」
「うん。枝豆も茹でて、秋刀魚も買ってきて焼こう!」
舞子の笑顔を見ながら、僕はハンドルを握り直した。
里の空気は静かで、遠くで藁を焼く煙がまっすぐ空へ伸びていた。
今夜の晩ご飯のことを考えながら走る帰り道が、僕は好きだった。




