第33回 秋の神社の餅巡り(後編)
「さ、次行ってみよう!」
ゆっくりとスタンドを払う。
ペダルに力を入れた瞬間、道が少しだけ下り始めた。
風が背中を押し、自転車は軽く前へ滑っていく。
住宅の切れ間から、屋根と木立が見えた。
参道の音が遠ざかり、生活の音が少しずつ戻ってくる。
「もうすぐ今宮さんだよ」
舞子が小さく声を出した。
杜と町のあわいに、淡い午後の光が差していた。
道の傍らには古い石灯籠が並び、竹垣の向こうに木陰が揺れていた。
やがて足もとが石畳に変わり、参道の先に楼門の朱が見えてきた。
僕らは自転車を楼門のそばに寄せて、スタンドを立てた。
舞子が肩のリュックを直しながら、「ここだね」と微笑んだ。
朱の楼門をくぐると、空気がひんやりと変わった。
手水舎で手を清め、舞子と並んで拝殿へ進む。
柏手の音が、秋の空に吸い込まれていった。
舞子は目を閉じたまま、しばらく手を合わせている。
「何お願いしたん?」
「言わない」
舞子はそう言って笑った。
木漏れ日が頬に落ちて、その表情を少しだけ大人びて見せた。
参拝をすませて楼門を出ると、
石畳の先に甘い匂いが漂ってきた。
参道には、二軒の茶店が向かい合っている。
左が「一和」、右が「かざりや」。
どちらの店先からも炭火の煙がゆらゆらと立ちのぼり、
あたりには甘い香りと焦げた匂いが混ざって漂っていた。
「ね、右のほうが"かざりや"。こっち行こ」
舞子が自転車を押しながら言う。
店先の炭火台で、白いエプロンの女性が竹串を返している。
親指ほどの餅がぷくりとふくらみ、焦げ目をつけては、甘い匂いを立てた。
焼けた餅の上から、とろりと白味噌だれがかけられると、
香ばしさに甘い香りが重なった。
「"あぶる"ってさ、厄除けの意味があるんだって」
舞子が湯気の向こうで言う。
「竹串もね、"斎串"っていって、神さまに供えるものの形なんだって」
木の縁台に腰をおろす。
竹皿に盛られたあぶり餅が二人の間に置かれた。
ひと串を手に取って口に運ぶと、
炭の香ばしさと白味噌のやわらかな甘みが溶けあう。
外は少し香ばしく、中はもちっと柔らかい。
ほんのり残るきな粉の香りが、後味をやさしくしている。
「……おいしい」
舞子が目を細める。
その頬に午後の日差しが淡く差していた。
少し間をおいて、舞子がぽつりと言う。
「ここ、縁結びの神さまなんだって」
「へえ、そうなん?」
「うん。だから、二人で来るとご縁が深まるんだって」
言ったあと、舞子は少しだけ顔をそむけた。
湯気の向こうで笑っているのか、照れているのか、分からない。
僕も、すぐには返事ができなかった。
串を置いた舞子の指先に、炭の香りがまだ少し残っていた。
店を出ると、参道に夕方の風が通り抜けていった。
振り返ると、かざりやの屋根の上に煙が細く立ちのぼっている。
焦げた香ばしい匂いが、秋の空気と混ざってやわらかく流れていった。
──ところで。
みたらし団子も、鳩餅も、あんこ入りの焼き餅も、あぶり餅も、どれもとても美味しかったんだけれど、さすがに口の中が甘々になってきた。
「な、舞子」
「ん?」
「今夜はしょっぱいもん食べたない?」
僕がそう言うと、舞子は秋晴れの空を見上げて大笑いをした。
「確かに、全部美味しいけど、ちょっと口の中甘いね。でもまだこの後、北野天満宮の長五郎餅っていうあんこ入りのお餅もあるよ。そこがラスト」
北野天満宮か。
ここからだと南に下っていく…あ。
「な、すぐそこの大徳寺で大徳寺納豆買っていかへん?」
「大徳寺納豆?お寺で納豆売ってるの?」
「ちゃうちゃう。ネバネバの納豆と違って、乾いてるんや。麹で発酵させた、味噌っぽいしょっぱい豆やねん。これでお茶漬けしたら、思わずおかわりしてしまう」
「いいねー。今夜は美味しいご飯炊いてしょっぱいお茶漬け!」
今宮神社から大徳寺はすぐそこ、目と鼻の先ってやつだ。
お寺の回りには"大徳寺納豆"の看板を出した店がたくさん並んでいる。
僕達は適当に目についた店に入った。
店に入った瞬間、空気がひんやりと変わった。
木の棚に並ぶ壺から、味噌とも醤油ともつかない香りが立っている。
少し焦げたような、でもどこか甘い匂い。
古い町家の木と混じり合って、空気そのものが塩気を帯びていた。
紙包みの大徳寺納豆を前かごに入れると、塩気のある香りが立った。
次は最終目的地だという北野天満宮へ。
「口の中、甘々やし。これでバランス取れたな」
舞子が笑って、スタンドを上げる。
寺の塀沿いの道を抜け、少し広い通りに出る。
ペダルを踏む足が軽い。わずかに下り基調で、風が背中を押してくれる。
西の空が、ほんの少しだけ色を深める気配がある。
「下り坂だー!」
舞子が振り返って、ハンドルを軽く合図みたいに動かす。
サドルの下で舗装の継ぎ目がトトンと鳴り、並木の影が車輪に縞模様を描いた。
西陣の町筋に入ると、道の両側に古い格子戸の家が並ぶ。
織機の音がどこからか響き、風にのって糸の匂いがかすかに流れてきた。
角を曲がると、小さな用水が道の脇をかすめる。
澄んだ水が石垣の影をすべるように流れ、陽を受けて細かくきらめいた。
その先、緩やかに道が下る。
「見えてきた!」
舞子が前を指す。
通りの正面に、どっしりとした石の鳥居が立っていた。
その向こう、境内の木々が厚みを増している。
銀杏はところどころに金色を落とし、欅はまだ深い緑で踏ん張っている。
空は高く、風はぴんと乾いて、どこか祭りの前みたいな澄み方だ。
「着いた」
ブレーキレバーを握ると、金属音が小さく澄んだ。
石の鳥居の手前で自転車を寄せ、スタンドを立てる。
舞子が鳥居を見上げる。
参道の先には、茶店の白い暖簾がいくつか風に揺れていた。
「ここ、天神さんなんだよね……」
「うん、学問と甘いもんの神さん」
どちらからともなく笑って、目を合わせる。
「ラスト一口、いっとこ」
石の鳥居をくぐると、まっすぐに石畳の参道が延びていた。
両脇には古い石灯籠が並び、銀杏の葉が風に舞っている。
人の流れの先に、檜皮葺の楼門が見える。
木の肌が秋の光を受けてやわらかく光り、
金の装飾が一瞬きらりと反射した。
参道の両側には、菓子やお守りを並べた露店がいくつか並び、
その屋根が秋風にぱたぱたと鳴っている。
社殿の方からは太鼓の音がかすかに響き、香ばしい香が風に混ざった。
牛の像の前には人の輪ができていて、みんな順番に頭を撫でたり、香炉の煙を額にかけたりしている。
「撫で牛ってね、体の悪いところを撫でると治るんだって」
舞子がそう言って、牛の頭を軽く撫でた。
「学問の神さまだけど、健康にもご利益があるんだってさ」
「頭ばっかり撫でられてるの、そういう理由なんやな」
拝殿の前で柏手を打つと、鈴の音が高く澄んで響いた。
楼門の向こうでは銀杏の葉が風に散り、境内のどこを見ても金色の粒が漂っている。
人の流れは多いのに、どこか落ち着いた静けさがあった。
参拝を終えると、舞子が手を合わせたまま少しだけ目を閉じた。
「何お願いしたん?」
「ないしょ」
「またそれか」
「だって、願い事は言うと叶わないんだよ」
彼女の声が風に紛れて、朱塗りの柱の陰に消えた。
境内の一角に、白い暖簾が風に揺れている。
「長五郎餅」と墨で書かれた文字が、秋の光に淡く透けていた。
「ここだね」
舞子がうれしそうに指をさす。
店先では湯気が立ちのぼり、湯呑の茶の香りが漂っていた。
木の卓に腰を下ろすと、白磁の皿に小ぶりの餅が三つ並べられた。
表面は薄い羽二重色で、光を受けてかすかに透けて見える。
「これね、もともと"北野大茶会"で秀吉に献上されたお餅なんだって」
舞子が言う。
「初代・河内屋長五郎が作ったのを秀吉がすごく気に入って、"長五郎餅"って名をもらったんだって」
「ほう、秀吉公のお墨付きやったんか」
「うん。しかもこのお餅、羽二重にした近江米で作ってるんだって。だから口当たりが柔らかいの」
「近江米か。それは美味しいに違いない」
舞子が笑う。
ひとつ手に取ると、指先に吸いつくように柔らかい。
口に入れると、驚くほど滑らかで、舌の上でゆっくり溶けるように馴染んだ。
中の餡は控えめな甘さで、豆の香りがふっと抜けていく。
「……やさしいな」
「派手じゃないけど、ちゃんと"京都の甘さ"って感じ」
舞子は湯呑を両手で包みながら、餅の残りを見つめていた。
境内の方からは、子どもの笑い声と、鈴の音がかすかに重なって聞こえる。
夕方の光が少しずつ傾いて、楼門の朱が金色に変わっていった。
「ねえ、今日、ずっとお餅だったね」
「ほんまや。腹ん中、餅でできてるわ」
「あとあんこ!」
「うん。口の中甘い」
舞子がふっと笑った。
その頬の横を、境内の風が通り抜けていった。
金色の葉がひとひら、長五郎餅の皿の隣に舞い落ちる。
それを見て、舞子がそっと手のひらで包んだ。
これにて本日の予定は満願成就、さあ、アパートへ帰ろう。
ご飯を炊いて、大徳寺納豆でお茶漬けだ。
僕達は今出川通を東へ急いだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「あ、ちょうど帰ってきはったな」
「あ、大家さん、こんにちは」
駐輪場に自転車を停めていると、大家さんがアパートの前で待っていた。
「今日な、お伊勢さん参ってきてな、店子さんにお土産買うてきたんや」
「ほんまですか。ありがとうございます」
「ほなこれ。足早いさかいに、早め、できたら今日の内に食べてや」
「分かりました。ありがとうございます」
大家さんに挨拶をして、部屋に戻る。
まずはゴローちゃんにカリカリをあげ、一息。
もらった紙袋の中身を出した。
淡い桃色の箱。
大きく書かれた赤い文字。
見覚えのある、あの包み。
────伊勢名物・赤福だった。




