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第32回 秋の神社の餅巡り(前編)

鴨川デルタを渡って北へ向かうと、糺の森の入り口に朱の鳥居が見えてきた。

「ここから先は自転車を降りて通行ください」と書かれた立て札が出ている。

僕たちはペダルを止めて降りると、鳥居そばの駐輪スペースに自転車を寄せてスタンドを立てた。

そこからは歩いて森の小径へと入った。


足もとの玉砂利がさらさらと鳴り、木漏れ日がケヤキやムクノキの枝葉を透かして落ちてくる。

ひんやりとした空気のなかを、風がすっと抜けた。

街の音が遠のいて、かわりに鳥の声と二人の靴が砂利を踏む音だけが響く。

糺の森の奥、その静けさの向こうに下鴨神社の楼門が見えてきた。

境内の奥には湧き水の「御手洗池みたらしいけ」がある。

水面は薄く揺れて、まるで呼吸するみたいに静かだ。


「ねえ、昨日KBSでやってたんだけどさ」


舞子が池を覗き込みながら言う。


「この御手洗池でね、昔、最初に大きな泡が一つ浮かんで、そのあと小さい泡が四つ続いたんだって。で、その並びをまねして、お団子を"一個+四個"で串に刺したのが、みたらし団子の始まりらしいよ」


「へえ、そうなんや。泡の形から団子て、京都の人らしい発想やな」


「でしょ。ちゃんと御手洗池の"みたらし"って名前から来てるんだよ」


池のほとりに立つ舞子の肩に、木漏れ日が落ちた。

僕らはしばらくその静けさに見入ってから、拝殿へ向かって歩いた。

鈴の音がかすかに響く。手水舎で手を清めて、二礼二拍手一礼。

柏手の音が森に吸い込まれていく。

舞子は何を願ったのか、小さく手を合わせたまま目を閉じていた。


──参拝をすませて、西参道から下鴨本通へ抜ける。

緑の木々の影が途切れると、通り沿いに木の扉と赤い暖簾が見えた。

白い看板には「京名物 加茂みたらし茶屋」の文字。

ガラス越しに、炭火の上で団子が焼かれているのが見える。

醤油が焦げる香ばしさに、黒糖のやわらかな甘い匂いが混ざって、風にのって流れてきた。


暖簾をくぐると、炭のはぜる音が小さく響き、店いっぱいに香ばしい匂いが漂っていた。

黒糖と醤油が混じり合ったような、やさしい甘さと焦げの香り。


席に着くと、店の人が「いくつにしはります?」と穏やかに声をかけてくれた。

舞子が「二皿お願いします」と答えると、炭火の前で新しい串が焼き台に並べられる。

串を返すたびに小さく「パチッ」と音がして、焦げる醤油の香りがもう一段、濃くなった。


しばらくして、白い陶皿に三本の串が並べられてきた。

皿の底には黒糖を煮詰めたような琥珀色のタレがとろりと張られ、焦げ目のついた小さな団子が光を受けてつややかに輝いている。

一串には五つの団子。先端に一つ、その下に四つ――さっき舞子が話していた泡のかたちそのままだ。


串を手に取って、そっと一口。

外は香ばしく、中はもちっと弾むような歯ごたえ。

最初に炭火の香りが立ち、そのあとから黒糖のやわらかな甘みと、醤油のほのかな塩気が舌の上に溶けていく。

甘さは驚くほど控えめで、香ばしさのほうが勝っている。

舞子も「想像してたより上品だね」と目を細めた。

焼きたての温もりが口の中いっぱいに広がり、秋の空気の冷たさとちょうどいいコントラストになっていた。


「ね、頭が一つ、体が四つって、人の形に見えるって話もあったよ」


「食べにくなるから言わんといて、ってやつやな」


舞子は串をそっと盆の端に戻して、懐紙で口もとを軽く押さえた。


「ほんのり香ばしいのに、黒糖の香りが残るね」


湯呑を両手で包むように持ちながら、ふっと笑った。

外の通りでは自転車のベルが軽く鳴り、窓の外を風が通り抜ける。

昼前の京都らしい、のどかで穏やかな時間が流れていた。


二皿を平らげると、黒糖の香りと炭の焦げが、まだ鼻の奥に残っていた。

外へ出ると、下鴨本通の光が白く、赤い暖簾の向こうで焼き台の炎がちらりと揺れている。


「次は三宅八幡さん。鳩餅、まだ売り切れてないといいな」


「鳩餅?」


「うん。子どもの守りの神さまでね、境内のお茶屋さんで鳩の形のお餅が食べられるの」


「へえ、そんなのあるんや。鳩の形の餅って、なんか可愛いな」


舞子は嬉しそうに頷いた。


「三色あるんだって。白とピンクと緑。KBSで見て、絶対行きたいと思ったの」


舞子は笑いながらペダルを踏み出した。

風がふたりの間をすり抜けていく。


僕らは糺の森を背に、北へと自転車を向けた。

空は高く、風は涼しい。

最初の甘い幸福感をポケットにしまって、次の一口へ――。



下鴨本通から東に抜けて少し走ると、道はやがて川沿いの細い道に変わり、右手に高野川の水面がきらきらと光っていた。

高野川のほとりを北へとたどる。

川の流れはゆるやかで、両岸にはススキやセイタカアワダチソウが風に揺れている。

さっきまで境内の木漏れ日を浴びていた身体に、今度は川風が心地いい。


「このあたり、少しずつ登ってるね」


舞子が言う。


確かに、ペダルを踏む足に少し力がいる。

呼吸が少しだけ深くなる。


この道は、昔、若狭から運ばれてきた鯖が京都へ入った道筋の一つだ。

以前、大学の図書館で鯖街道のことを調べた時の記憶を思い出す。

高野川沿いを北上して修学院を過ぎ、宝ヶ池から花園橋を経て大原へ抜ける――

まさにそのルートを、いま自転車でたどっている。


川の向こうには比叡山の裾が広がり、進むほどに山が近づいてくる。

街の屋根越しに、紅葉しかけた木々の赤がちらほらと混ざって見えた。

風はまだ冷たくないが、乾いた匂いが少し秋の深まりを告げている。


「ね、ほら。川の向こうに山が見えてきた」

修学院の手前で、舞子が片手を離して前方を指した。


比叡の稜線がはっきりと見える。

川沿いの道はゆるやかな上り坂で、踏み込むたびに風が肌をなでていった。

右手の川は浅くなり、水音が一段と澄んで響く。

途中の家々の軒先には、干し柿がいくつか吊るされていた。

日を受けて半透明に光る橙色が、どこか懐かしかった。


やがて修学院の交差点にさしかかる。

左手には叡山電車の線路が見え、タイミングよく一両編成の電車がガタゴトと通り過ぎた。

車体の赤が陽を反射して、一瞬だけまぶしい光を残す。

このあたりまで来ると、街のざわめきもほとんど消えて、

聞こえるのは風とタイヤの音だけだ。


「ねえ、こうして走ってると、京都って狭いようで広いね」


「うん。山がこんなに近いのに、まだ市内やもんな」


「でももうちょっと行ったら、"里"の匂いになりそう」


修学院を抜け、白川通に合流する。

標識には「大原」「八瀬」「三宅八幡」の文字。

道はさらにゆるく登り、空気の透明度がぐんと増した。

住宅街のすきまから、どこかで焚かれた薪の匂いが漂う。

高野川の流れは細くなり、石の間をすべる水音が耳に心地よい。


やがて、三宅八幡宮の石の鳥居が木立の向こうに見えてきた。

鳩の彫られた社標が、秋の光を受けて白く浮かび上がっている。

僕らはペダルをゆるめ、鳥居の前で足をついた。

風の音だけが、まだ少し高い空の方で鳴っていた。


鳥居をくぐると、空気がひんやりと変わった。

境内には大きな楠が立ち並び、頭上を白い鳩が二羽、ゆっくりと円を描いている。

手水舎の水面には落ち葉が一枚、くるくると回っていた。


「かわいい神社だね」


舞子がそう言って、境内の奥の社殿を見上げる。

三宅八幡宮――昔から子どもの守り神として知られているという。

賽銭を投げて手を合わせると、どこかやさしい鈴の音が返ってきた。


参道に出ると、右手に「三宅八幡茶屋」の小さな店があった。暖簾には「鳩餅」の文字。鳥居の正面から少し右にそれた場所で、参拝の余韻をそのまま味わえる。


「ここだね」


舞子がうれしそうに暖簾をくぐる。


店内は畳敷きで、炭の匂いがかすかに残っていた。

低い卓の上に運ばれてきたのは、三色の小さな鳩のかたちをした餅。

白、抹茶、ニッキ。

つやのある肌に、竹の楊枝が添えられている。


「ねえ、知ってた? 八幡さまの神さまって、鳩が神さまのお使いなんだって」


舞子が湯呑を両手で包みながら言う。


「宇佐八幡から石清水八幡を勧請したとき、白い鳩が道案内をしたって話があってね。 三宅八幡も八幡さまだから、鳩と縁が深いんだって」


「なるほどな。そら"鳩餅"って名前もぴったりやな」


白い餅をひとつ手に取り、そっと口に入れる。

しんこ独特のもちっとした弾力があって、噛むとしっとりした甘さが広がる。

抹茶はほのかに苦みがあり、甘さが引き立つ。

ニッキは香りがふっと立って、どこか懐かしい。

どれも派手さのない、京都らしい素朴な味だ。


「おいしいね」


「うん。昔のお菓子って感じやけど、ちゃんと上品やな」


「この形、ちょっと笑ってるみたい」


「ほんまや」


舞子は白い鳩餅を指でつまんで、上品にひと口。


「んー、やさしい味」


そう言って微笑んだ。

その横顔が、境内の木漏れ日に透けてやさしい光をまとっていた。


店を出るころには、昼の光が少しやわらいでいた。

高野川の流れの向こうで、比叡山の稜線が白っぽい陽にくっきりと浮かんでいる。

山の斜面の木々が青みを帯びてきらめき、川面がその色を映して揺れていた。


「次は上賀茂さんだね」


舞子がハンドルを握り直す。


「まだお餅、あるん?」


「もちろん。ここからが本番だよ」


僕も笑ってペダルを踏み出した。

秋の風が、まだ高い空の下で静かに吹いていた。



鳥居を背にして西へ向かった。

舗装の上を自転車が軽く上っていく。

大きな峠ではないけれど、少しずつ高度が変わるたびに風の肌触りが変わった。

風が少し乾いて、背中にあたる陽射しがやわらかくなっていく。

山の稜線が遠ざかるにつれて、家並みが開け、ところどころ畑の土がのぞく。

舗装の隙間からは、まだ青い草がのびていた。


やがて視界の左に、静かな水面が現れる。

光を散らすように波紋が広がり、風の筋がそのまま形になっている。

深泥池――名前のとおり、深く沈んだような静けさがあった。

岸辺にはすすきが揺れ、遠くで鳥の声がひとつ、響いた。


道は緩やかに西へ折れ、遠くの山の影が少しずつ濃くなっていく。

空の青がその輪郭をなぞるように、午後の光に滲んでいた。


舞子がペダルを踏みながら振り返る。


「ね、なんか空の色が変わってきたね」


「うん。山の手のほうの空気って、少し澄んでるな」


道の傾きがゆるやかになり、ペダルを軽く踏んだその瞬間、風が頬を撫でた。

並木の陰が伸び始め、屋根の切れ間の先に、深い緑がちらりと見えた。上賀茂の杜の気配が、ほんの少し近づいた。



一ノ鳥居をくぐると、空気がふっと澄んだ。

玉砂利の上を歩くたびに、さらさらと乾いた音がして、

背の高い木々の間から差し込む陽が揺れている。


舞子と並んで参道を進む。

遠くで鈴の音がかすかに響き、風が杜の葉を鳴らしていった。

二ノ鳥居をくぐった先、拝殿の檜皮葺ひわだぶきの屋根が光を受けて静かにきらめく。


手水舎で手を清め、柏手を打つ。

その音が秋の森の奥に吸い込まれていった。

舞子は目を閉じ、小さく手を合わせたまま、しばらく動かない。


「何お願いしたん?」


「ないしょ」


舞子がそう言って笑うと、木漏れ日が頬に落ちて、

ほんの一瞬だけ光がゆらいだ。

最近の舞子は、願い事まで少し大人になった気がする。


参拝をすませて、来た道を戻る。

一ノ鳥居をくぐって外に出ると、正面の通り――上賀茂本通の向こうに黄土色の町家が見えた。

軒の上には、右から左へ白い文字で書かれた「あおいもち」。

古木の看板が、秋の日差しを受けて鈍く光っている。

一ノ鳥居の斜め向かい、今井食堂の並びにある――神馬堂だった。


暖簾をくぐると、炭のはぜる音がかすかに聞こえた。

焼き台で白衣の職人が丸くのした餅を一枚ずつ網の上に並べている。

餅がきつね色に焦げ目をつけるたびに、香ばしい匂いがふっと広がった。

トングで裏返す手つきは無駄がなく、炭がぱちんとはぜるたび、焼きたての香りが通りまで流れていく。


「これが上賀茂神社の焼き餅なんやな」


僕がつぶやくと、舞子が頷く。


「葵祭でお供えする"葵餅"がもとなんだって。それを門前で売るようになって、今の"焼き餅"になったらしいよ。店の名前は、上賀茂の神さまの神馬にちなんで"神馬堂"。」


紙に包まれた焼き餅を受け取ると、手のひらに柔らかい温もりが伝わってくる。

表面はほんのり焦げて、裏はまだ白く柔らかい。


ひと口かじると、外がかすかにパリッと割れ、

中の餅がむっちりと弾んだ。

粒あんは控えめな甘さで、豆の香りがほのかに広がる。

焦げた香ばしさと餅の柔らかさが交互にやってきて、

あと味は驚くほどすっきりと消えていった。


「んー……上品だね」


「あんまり甘くないとこがええな」


舞子は紙包みを両手で押さえながら、

湯気の立つ焦げ目を眺めていた。

通りには、焼き餅の香りと秋の風がまざって流れていく。


一ノ鳥居の赤い柱の向こうに、杜の緑が揺れていた。


舞子はまだ焼き餅の包みを大事そうに持ったまま、自転車の方へ歩いていく。

次はどこの餅を食べるのか。

そんなことを考えながら歩く午後が、いつの間にか当たり前になっていた。


京都の午後は、まだやわらかく明るかった。

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