第30回 ゴダールとラーメンとオリオン座
秋の木曜日の夕方、三条河原町で一人になった大学生は何をすべきか。
──とりあえず映画を観よう。
それも、ハリウッド大作ではない、ちょっとアートとサブカルの匂いのする映画が観たいと思った僕は、駸々堂書店でLマガジンを買い、京都の映画館情報を調べた。
と、祇園会館で「存在の耐えられない軽さ」とゴダールの「勝手にしやがれ」の二本立てをやってるじゃないか。
上映時間は…今から向かって着いたらちょうど始まる時間で、二本観て終演が十時前。
舞子との待ち合わせにも時間ぴったりだ。
四条まで下って八坂さんを目指す。
ただでさえ空いている祇園会館は、木曜日の夜とあって一段とガラガラだった。
中央、やや上段の一番観やすい席にあっさり座れた。
もちろん、ポップコーンも買ってきた。
映画を観るならフランス映画、ポップコーンをほおばって。
甲斐よしひろだってそう歌ってる。
映画はどちらも面白かった。
大事な女性はいるのに、他の女性につい流されてしまうトマシュは、もしかして僕もトマシュみたいなものなのだろうか?と考えさせられたし、「本当に最低だ」と死んでいくミシェルには、滅びの美学と、なぜかそんな死に際への憧れさえ抱いた。
もし僕が死ぬなら、うらぶれた飲み屋街の裏路地、露光オーバーで風景が白く飛ぶような真夏の午後。
根無し草のその日暮らしの僕が、誰も歩いていない場所で、いきなり後ろから刺される。
倒れ込み、薄れゆく意識の中でタバコを咥え、血まみれのまま火を点ける。
「最低やな…」と、苦笑いしながら呟いて、そして事切れる。
そんな馬鹿げた妄想が、映画館を出てもまだ頭の中に残っていた。
もし生きることの軽さが"耐えられない"ものなら、
死ぬことの軽さは、少なくともスタイルとして完結している――そんな錯覚。
トマシュのように逃げて、ミシェルのように終わる。
もしかして僕も、そんな男になりたいと思っていたのかもしれない。
半ば意識はまだ妄想の世界に浸りながら、夜の木屋町を舞子との待ち合わせ場所に急いだ。
途中、先斗町との間に通る細い路地から、何とも空腹を刺激するラーメンの匂いが漂ってきた。
トマシュもミシェルも、そこで一瞬にしてどこかへ消えた。
僕はただの腹を空かせた大学生に戻った。
タイムズビルに着くと、時間はまだ十分前だった。
高瀬川を眺めながら二本目のタバコに火を点けたところに、刺客ではなく舞子が現れた。
「ハルくん、おまたせー」
「おつかれー。…あのさ、舞子ってまかない食べてきたやんな?」
さっきの匂いで口の中がラーメンになってしまっている僕がおずおずとそう訊くと、舞子は大きな声で笑い始めた。
「そう言うと思った!」
「え?」
「ハルくん、絶対に何か食べて帰ろうって言うと思って、今日はまかない断ってきたんだよ」
「エスパーか?」
「で、今日はどこのラーメン食べたいの?」
もしかしてこいつは本当にエスパーなのか?
さっきの路地に戻る。
細い路地、きっと先斗町側には「通り抜けできます」という千鳥のイラストの看板がでているだろう。
飲み屋が並ぶ路地を奥に進むと、黄色い看板に赤い「ラーメン」の文字。
壁に設置された白い看板には、京都たかばし生まれのラーメンであることを示す文句が書かれていた。
暖簾をくぐると、店内は細長く、奥にL字のカウンターが十席ほど。
入口の脇に小さなレジと水のポット。カウンターの奥に店主が立っていた。
赤い椅子が並び、厨房では寸胴から立ちのぼる湯気が、まるで雲のように蛍光灯の下で揺れていた。
夜も遅いせいか、客は数人だけ。仕事帰りのサラリーマンと、同じく映画帰りらしいカップル。
みんな、黙々とラーメンをすすっている。
濃い醤油の香りが、湿った木屋町の夜気と混ざって、何とも言えず落ち着く。
「いらっしゃい」
白い帽子をかぶった店主が、軽く首を動かして声をかけてきた。
「ラーメン二つ。大丈夫ですか?」
「はい、ラーメン二つね」
注文を受けた店主が、慣れた手つきで麺を鍋に放り込み、九条ねぎをざっ、と切る音が響く。
その瞬間、もう胸の奥からワクワクが込み上げてくる。
舞子が隣で「いい匂いだね」と小声で言い、背筋を伸ばしてカウンターの奥をのぞき込む。
その横顔が湯気にぼやけて、なんだか妙に愛おしい。
やがて、白い丼が二つ、目の前へ。
醤油色のスープの上に、薄切りのチャーシューが幾重にも重なり、刻みねぎが山のように盛られている。
表面にはほのかな脂が光り、見た目よりもずっと優しい香り。
昔ながらのラーメンだ、と一目で分かる。
「うわ、きれい」
と舞子が呟く。
彼女はスープをレンゲですくって一口。
「……あ、しょっぱくない。すごいバランス」
ほんのり笑って、こっちを見た。
僕も真似して口に含む。
最初に来るのは、きりっとした醤油の香り。
でもすぐに、豚骨と鶏ガラの旨味が丸く広がって、舌の奥で溶けていく。
重たくないのに深い――まるで、古いジャズを聴いてるみたいな安定感。
麺は少し柔らかめで、箸で持ち上げるとスープをたっぷり吸って光る。
ねぎのシャキシャキがその隙間を埋め、チャーシューは脂がほろりと崩れた。
「これはやばいな」
と僕が言うと、舞子は笑って
「うん!まだやってて良かったね」
と返す。
その笑顔の向こうで、厨房の鍋からまた湯気が立ちのぼり、
店の奥のラジオからは小さく森高千里の「十七歳」が流れていた。
無言で箸を動かす時間がしばらく続いた。
空腹が消えていくたびに、何か心の奥のほうまで満たされていくような気がする。
二人とも、最後のスープ一滴まで飲み干した。
丼を置いて深呼吸すると、舞子が「ふー、満足」と言いながら笑った。
僕もつられて笑う。
「たかがラーメンやのに、なんか救われた気分やな」
「うん。こういう夜、好き」
外に出ると、路地の上に月が細く浮かんでいた。
醤油とねぎの匂いをまとったまま、二人で鴨川の方へ歩き出した。
再びピカピカの京阪電車に乗って出町柳の駅につくと、時間は十一時半すぎ。
「ハルくん、まだ銭湯いけるかな?」
「急いだら間に合うやろ」
「よし!行こう!」
アパートに一旦寄って、「にゃー」とまとわりつくゴローちゃんにカリカリをあげて、お風呂セットを持って自転車でダッシュ。
「舞子ー!そんなに急がんでも、余裕あるってー!」
僕はそう言いながら、立ち漕ぎの舞子の後を追いかけた。
映画の中の男たちは、どこかへ逃げたり、破滅したりしていた。
けれど僕は今、銭湯の閉まる時間に間に合わせるために、舞子の背中を追いかけている。
地平線の上にオリオン座が顔を出し、季節が変わるのを告げていた。




