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第29回 京阪電車と三条の午後

今まで存在しなかった出町柳駅の地下ホーム、見慣れた若草色と濃緑のツートンではなく上が濃緑で下が白という真新しい車両が滑り込んできた。

この駅で折り返しになる新車両に乗り込むと、車内は車の新車と同じ匂いがして、座席も吊り革も床も窓も、何もかもがピカピカだった。



「ね、今日から開通でしょ?鴨東線。ハルくん大学暇だったら、乗りに行こうよ!」


舞子が朝昼兼用の遅いピザトーストを食べながらそう言い出したのは、僕の誕生日から三日後の事だった。

今日は木曜日だから、ゼミも専門科目もバイトもなく、要は休みだった。


「ええな。舞子は夕方からバイトやろ?それまで三条でブラブラしよか」


「やったー!電車で三条まで行けるなんて、嘘みたいだね。どんな風景なのかな?鴨川とか見えるかな?」


舞子は大はしゃぎだ。

今から用意して出たら、三条に着くのはお昼過ぎ、バイトの時間まではたっぷりある。

僕も新しい京阪がどんなものなのか少なからず興味があったし、ちょうどエレキベースの弦をフラット弦に交換したくて、十字屋に行きたいと思っていたから渡りに船だ。


そもそもが叡山電鉄しかなくて鞍馬方面に行く時しか用がなく、そうそうそっち方面に行くこともなかったから言うほど馴染みのなかった出町柳駅だが、それでも地下に降りるエスカレーターやエレベーターができているのは新鮮な光景だった。

僕たちが乗った電車は、十分ほどで折り返しで駅を出た。


「…真っ暗だね」


「……そやな」


そりゃそうだ。

川端通をずっと掘って作ってたんだから、線路は当然地面の下、京阪と言いつつ実質地下鉄だった。

鴨川なんて見えるはずもない。


「なんだー。つまんないの」


口を尖らせる舞子に笑いながら


「まあまあ、八分で三条着くてすごいやん。大感謝や」


と言うと、舞子はすぐに気を取り直して大きな目をキラキラさせながら


「そうだね!大感謝祭だよね!」


と笑い返す。

その間にも、神宮丸太町、三条とあっという間に到着だ。本当に早い。


「わーい!もう着いた!早いねー」


舞子のご機嫌な様子にホッとする。


誕生パーティーの夜、みんなと解散した後でサキチと腕を組んで、いや正確には腕を無理やり絡め取られて木屋町を歩いているところに不意に舞子から声をかけられた時は、一瞬なぜか「ヤバい!」と思ってしまった。


よく考えれば、サキチとは何かあるわけでもなく、舞子とも恋人でもない。なのに、なぜか胸の奥がチクリとした。気恥ずかしさと、少しの後ろめたさ。


「あー、舞子ちゃん!」


サキチはそう言って舞子のところに人懐っこく駆け寄って行き、舞子も


「サキちゃん、久しぶりー!八月の終わりにお店で会って以来だねー!」


と手を取り合ってぴょんぴょん跳ねていた。

そこから京阪の四条駅までは、僕なんか完全に放ったらかしの蚊帳の外で、二人はキャッキャと盛り上がっていた。

ときどき舞子が


「えー!サキちゃんも行ったんだ!」

「あそこもいい店だよね!」


と声を上げるのが聞き取れる。


「じゃあね、また!バイバイ!」


そう言って改札で分かれた後、二人で自転車を漕いで出町柳のアパートに向かった。


「なんか安心したよー」


「ん?何が?」


「私がバイト行ってて、ハルくんはバイトない日とか、一人でどうしてるのかちょっと心配してたんだけど、ちょこちょこサキちゃんと遊んでたんだね」


「あ、うん、まあな」


「クックアフープとかフラミンゴとか、マサキさんのブリティッシュパブとか行ってるってサキちゃん言ってたし」


「ああ、連れてったな」


「良かった。寂しくしてなかったんだ」


舞子は笑った。

けれどその笑顔は、ほんの少しだけ、いつもの笑い方と違って見えた。


僕は何か言おうとして、言葉を探した。

でも、何を言えばいいのか分からなかった。


十月の頭にしては、やけに風が生ぬるい夜だった。



「…ルくん!ハルくん!?」


「え?ああ?どしたん?」


「どうしたのはこっちのセリフだよ、ボーッとして!どっちの方行くの?」


あの夜のことを思い出しながら歩いていたら、気がつけばいつの間にか改札を出ていて、切符を駅員さんに渡したのも無意識だったようだ。

まずは十字屋へ向かう。

三条大橋を渡って河原町を横断するとアーケード、そしてすぐに十字屋だ。

商店街に面した一階はピアノやエレクトーンが並ぶフロア、僕は目的の地下に階段を降りた。


「へー。楽器屋さんって初めて来たけど、すごいねー」


壁やフロアにズラッと並んだギターやベースに舞子が目を丸くする。

ベースコーナーに目をやると、フェンダーUSAやリッケンバッカー、ワーウィックなんかの有名ブランドのベースに零がいくつあるか数えないといけない値札が付けられていて、なかなかに目の毒だ。


ちょうど弦のコーナーの近くに店員さんがいたので声をかけて質問してみた。

今の弦はいつ張ったか分からないくらい古い弦で、なんかギラギラしてるくせに深みがない音しかしなくて、もっと丸くて音圧のある弦が欲しいと言うと、店員さんが僕が調べてきたフラットワウンドの弦よりも更に柔らかい音になるというナイロン弦、その中でも一段と温かく深みのあるサウンドで、アコースティックやヴィンテージ感を出したい場合に適しているというブラックナイロン弦を薦めてくれた。

なるほど。これは試してみたいかもしれない。

それに、ベースの弦が黒ってあんまり見ないからなんかカッコいい気もする。


「じゃ、これにします」


僕はそう言ってブラックナイロン弦を差し出した。

早速アパートに帰ったら張り替えてみよう。


──あ。アンプ持ってない。

そう気がついて、アンプコーナーを案内してもらったが、そこに並んだAmpegやVOXといったロゴの付いたベースアンプは、中々の値段が付いていてちょっと手が出ない。

仕方ない、音の確認は次のリハまでお預けだ。



「あー、舞子、ごめんごめん!放ったらかしで」


「大丈夫だよー。いろんな楽器見てるだけで楽しいから」


「よかった。ほな、次はどうしよ?」


「えっとね、鴨川の河原行きたい」


「え?また等間隔乱しに行くの?」


あれは舞子が僕のアパートに住み着いてすぐのことだった。

等間隔に並んだカップルを見た舞子が、「法則、乱したらどうなると思う?」といい出して、わざとカップルとカップルの間に僕達が割り込んでどうなるかの実験をしたことがある。

もっともその時は、結果が出る前に舞子がたこ焼きを食べたいと言い出して、中途半端に終わったのだが。


「もうそれはいいよ」


舞子は笑いながら僕の手を引いて、三条大橋のたもとから河原に降りていった。

相変わらず昼間っからカップルが等間隔に座っていて、穏やかな秋の日差しの下で静かに語り合っていた。


等間隔の隙間を見つけて僕達は腰を下ろした。

十月初め、もしかしたら一年で最も過ごしやすいかもしれないこの季節の鴨川は、春の新歓の時期や真夏のような学生の馬鹿騒ぎもなく、流れはゆっくりで、ときどき白鷺が舞い降りてはまた飛び立っていく。

川の流れの音が、木屋町通のざわめきを遠くに溶かしていた。

三条大橋の下を抜けてくる風は少し冷たく、川面に揺れる陽射しが銀色の模様を描いている。

舞子の髪が風に踊り、陽を受けて柔らかく光った。


「なんか、こうしてると時間が止まってるみたいだね」


舞子がつぶやく。

川向こうの川端通を、市バスが静かに走り抜けていく。

歩道を歩く人の影が、水面にゆらりと映る。

向こう岸には河原がないぶん、こっち側の空が広く感じられた。


「ほんまやな。ここに座ってると、なんかめんどくさい事全部どうでもよくなるわ」


僕はそう言いながら、小石を一つつまんで水面に投げた。

石は弧を描いて落ち、波紋がゆっくり広がる。

遠くで、学生らしき男の子がアコギを弾いている。「風をあつめて」だ。

随分と古い曲だが、その音が風に乗って届くと、胸の奥が少しだけきゅっとした。


舞子は膝を抱えて空を見上げる。


「ねえ、ハルくん。京都ってさ、季節の匂いがはっきりしてるよね。春は桜の匂い、夏は川の匂い、秋は……今みたいな匂い」


「冬は?」


「冬はね……煙の匂い」


「をけら火とか?」


「うん、あれ。あったかくて、好き。なんか、昔から知ってる匂いみたいで」


舞子はそう言って目を細めた。

風が頬をかすめていくたびに、イヤリングが光を弾く。


川の上では、午後の太陽が傾き始めている。

東山の稜線がかすみ、鴨川の水が黄金色に染まる。

鳩が橋の欄干にとまり、誰かがパン屑を投げると、ふわりと群れが舞い上がった。

その一瞬の光景が、まるでスローモーションみたいに見えた。


「今日、来てよかったね。なんか、ずっと覚えておきたい感じ」


舞子の声は風よりも小さいけれど、ちゃんと届いた。

僕は軽くうなずいて、彼女の手の甲に触れた。

指先が少し冷たかった。


四条で会った夜から、胸の奥に引っかかっていたものが、川の音に少しずつほどけていく気がした。


「この電車も、今日からずっと走るんやな。きっと何年も何十年も」


「うん。私たちはその最初の日に乗ったんだね」


舞子はうれしそうに笑い、靴の先で砂利をはじいた。

その動きに合わせて、水面の光がちらちらと揺れた。

新しい線路の先に続く未来みたいに、静かで、まぶしかった。


「さ、お茶でも飲みに行こか」


そう言って立ち上がる。

再び三条の商店街のアーケードへ。十字屋の前を通り過ぎ、寺町を少し上ると、商店街の並びの中にレトロな喫茶店が現れる。

商店街の喧噪を背に、木枠ガラスの扉がゆっくり開く。扉上部の"Smart Coffee"の金文字が、午後の淡い光を受けてさりげなく光った。


扉を押して中に入ると、ちりん、と小さな真鍮のベルが鳴った。

店内は外の明るさとは対照的に、やや暗めの照明が落ち着いた雰囲気をつくっている。

磨き込まれた木の床と、深い焦げ茶の革張りのソファ。奥の壁には古い柱時計が掛けられ、静かに秒針を刻んでいた。

テーブルの上には小ぶりの白い陶器のシュガーポット、銀色のポット、そして紙ナプキンが几帳面に置かれている。


コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

さっきまで河原で感じていた風の匂いと混じって、妙に心が落ち着く。

カウンターの向こうでは、白いシャツに黒いベスト姿のマスターが無駄のない動作でドリップポットを傾けている。

お湯が豆に落ちる音が、しゅん、と短く鳴り、そのあと香りが広がる。


「わあ……なんか、いい匂い」


舞子が思わずつぶやく。

その声に気づいた店員が、柔らかく微笑んで二人をテーブル席へ案内した。


「なあ、ここ、ええ雰囲気やろ」


「うん、好きかも。静かで落ち着く」


ソファに腰を下ろすと、革のひんやりとした感触が伝わる。

テーブルの木目には長い年月の痕が刻まれていて、角は少し丸くすり減っていた。

目の前にはメニューが差し出される。厚紙の表紙に金文字で "Smart Coffee" と書かれている。

ページを開くと、そこには「ホットケーキ」「フレンチトースト」「たまごサンド」「自家焙煎コーヒー」──どれもどこか懐かしい響きの文字が並んでいた。


「ハルくん、これ見て!ホットケーキだって!」

「ええな。たまごサンドもあるで。どっちにする?」

「うーん……両方たのもうよ。半分こしよ!」


「賛成」


そう言って顔を見合わせると、舞子は嬉しそうに笑った。

その笑顔を見て、僕の胸の奥にふと、さっき河原で感じた静けさがもう一度戻ってきた。

外では商店街のざわめきが遠くにぼんやりと聞こえる。

けれどこの店の中だけは、過ぎ去った昭和の時間がゆっくりと流れているようだった。


少しして、白いエプロンをつけた店員が、銀のトレイに乗せた皿をそっと置いた。

ホットケーキの皿からは、焼き立ての香ばしい匂いが立ちのぼり、隣の皿には四角く切りそろえられたサンドイッチがきれいに並んでいる。

ほんのり湯気をまとった厚焼き卵が、白いパンの間から黄金色にのぞいていた。


「えっ……これ、ゆで卵じゃないの?」


舞子が目を丸くした。


「そやで。京都の喫茶のたまごサンドって、厚焼きやねん」


「知らなかった……なんか、お弁当みたいでかわいい!」


舞子はひとつ手に取って、恐る恐るかじった。

その瞬間、パンのふわりとした軽さと、厚焼き卵のしっとりした甘みが口いっぱいに広がった。

だしのような柔らかい香りが鼻に抜け、舌の上でじんわりと溶けていく。

マヨネーズがほんのり効いていて、パンと卵の境目をなめらかにつないでいた。


「……なにこれ、すごく優しい味」


舞子が小さく笑って、もう一口かじる。

パンの白さと卵の黄色が、まるで朝の光みたいに見えた。

僕もひとつ口に運ぶ。

ふっくらとした卵の厚みの中に、ほんの少しだけ感じる塩気と甘みのバランスが絶妙だった。

シンプルなのに、噛むほどに旨みが広がる。

きっと、毎日同じ手順で焼かれ、何十年もこうして出されてきた味なんだろう。


「これさ、冷めても美味しそう」


「わかる。ピクニックとかにも合いそうやな」


「京都の喫茶って、すごいね。なんか、普通のサンドイッチのはずなのに、特別な感じがする」


「うん。派手さはないけど、ちゃんと"味の記憶"になるんや」


そんな話をしている間に、ホットケーキが運ばれてきた。

厚みのある二枚の生地が、きれいに焼き色をつけて重なっている。

四角いバターがその上でゆっくり溶けていき、琥珀色のシロップが皿の縁を伝って光っていた。

フォークを入れると、外はさっくり、中はふんわり。

ひと口食べると、ほんのり香ばしくて、優しい甘さが広がる。

舞子は目を細めて、幸せそうに息を吐いた。


「ハルくん……これ、なんか懐かしい味する」


「そやろ。子どもの頃に食べたホットケーキ、って感じや」


「うん。でもそれよりずっと上品で、ちゃんとした味」


店の奥の柱時計が、時を告げる。

コーヒーの香りと、焼きたての甘い匂いが静かな午後の空気に混ざり合う。

窓の外では商店街の人通りが続いているけれど、この店の中だけは別の時間が流れているようだった。


舞子がカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。


「ねえ、こういう喫茶店、ずっと残っててほしいね」


「ほんまやな。こういう店があるから、京都は京都でおれるんやと思う」


カップの縁から立ちのぼる湯気が、午後の光にゆらめいていた。

それはまるで、過ぎていく時間をやさしく包みこむようだった。


◇    ◇    ◇    ◇


「じゃ、バイト行ってくるね!」


「あ、舞子」


「ん?」


「僕、今から一人で映画観たりして舞子のバイト終わるまでこの辺にいるから、帰り一緒に帰ろ」


「え?ほんと?結構時間あるよ」


「うん。ゆっくり遊んどくわ」


本当は、ただ映画を観たいだけではなかった。

今日は、舞子と一緒に帰りたかった。


「わーい」


「ほな、帰りも三条からやから、高瀬川のとこのタイムズビルの外のとこで待ってるわ。十時半頃やんな?」


「うん!じゃ、行ってくるね!」


舞子がペンギンみたいに寺町の人混みを駆けて行った。

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