第26回 クミンを巡る冒険
後期の授業が始まった。
といっても、単位はもうほとんど揃っている。残すは専門科目をいくつかとゼミだけだ。
「メディア論」ゼミで僕が卒論のテーマに選んだのは、
『ホイチョイ映画とユーミンに見るマーケティング及びプレゼン戦略』。
二回生の冬に公開され、一大スキーブームを巻き起こした『私をスキーに連れてって』。
続く今年の夏公開作『彼女が水着にきがえたら』でもヒットを飛ばしたホイチョイ・プロダクションズ。
そして、主題歌・劇中歌として時代を彩り、僕ら大学生の生活のBGMになっているユーミン。
この二つを、若者文化におけるマーケティングとライフスタイルのプレゼンテーションという観点から分析しようと考えたのだ。
「いささか軽薄な気もするが、このゼミの趣旨からいうとまあいいんじゃないか」
教授にもそう言ってもらえたので、安心してこのテーマで進めることにした。
やっぱり、卒論も楽しくやれなきゃ続かない。
さて、後期が始まったということは──つまり僕の二十二歳の誕生日が近いということだ。
今年は月曜日らしいが、タツヤやマサキ、ヒロくん、タカトモなんかがごそっとシフトを調整して、パーティをしてくれるらしい。
「舞子も来るやろ? あいつらも連れて来い言うてるし」
そう言うと、舞子は読んでいた文庫本から顔を上げた。
「んー、月曜日はバイトだから私は無理かなー。楽しんできて」
去年はユリカのことで舞子を泣かせてしまった。せっかく準備してくれたのに、あの夜は最低だった。
だからこそ今年は、ちゃんと一緒に過ごしたかったのだけれど……バイトなら仕方ない。
残念だけど。
と、そのとき。
「あ!でも、前日の日曜日に二人でお祝いしようよ。バースデー・イブ!」
舞子がパッと目を輝かせた。
「昼間に買い物行ってさ、一緒に料理作って食べようよ」
「お、ええな」
「じゃ決まりね。ハルくん、何か食べたいものある?」
そう聞かれて、頭に浮かんだ料理がある。
叔父さんからアメリカ土産にもらったレシピ本に載っていた、フロリダ生まれのローカルフード──
「キューバンサンドイッチ」。
そのページの写真を開いて、舞子に見せた。
こんがりと焼けたパンがプレスされて、切り口からは肉やチーズやピクルスが見える。
表面はツヤツヤと輝き、写真だけで口内に涎が溢れる。
「当たり前だけど、全部英語だね……まず材料、何揃えたらいいか、ハルくんわかる?」
舞子がページを覗き込みながら訊いた。
材料の段落には"Cumin""Coriander""Oregano"と、見慣れない単語がずらずらと並んでいる。
「うーん……クミンとコリアンダーはスパイスやな。カレーの中の、ええ匂いの正体や」
「へぇー、カレーの中の正体?」
「そや。あの『どこか外国っぽい香り』や。けど……家には絶対ないな」
舞子が冷蔵庫を開けて、並ぶ調味料の瓶をのぞき込む。
醤油、味の素、マヨネーズ、カレー粉。
どれも見慣れた日本語ラベルばかりだ。
"外国の香り"なんてどこにもない。
「カレー粉じゃダメだよね?」
「…あかんやろな」
「ねえ、これってどこで買えるんだろ?」
「さあなぁ……イズミヤには置いてへんやろな」
「そっか……」
舞子はレシピ本の写真を見つめた。
パンの断面からチーズがとろけ、焼き色がきつね色に輝いている。
「でも、絶対食べたいね。これ」
「せやな。ほんま、映画に出てくるサンドイッチみたいや」
「よし、日曜に買い出し行こうよ!バースデーイブの昼間!バイトもないし。クミン探しの旅!」
「旅て」
「だって、『Cumin探検隊』とか楽しそうじゃない?」
舞子はもう、僕の誕生日を祝うだけじゃなく、その日をどう楽しくするかまで考えている。
それが、少し照れくさくて、かなり嬉しかった。
「ほな、探検隊長・舞子、よろしく頼むわ」
舞子が笑いながら敬礼のまねをした。
窓の外では、夕陽が西の山の向こうに沈みかけている。
その赤い光がレシピ本のページに反射して、
まるで南国の夕焼けのように、オレンジ色に染まっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、どこに探しに行けばいいのだろう?
日曜日の朝、皿のスクランブルドエッグをトーストの上に掬いながら、僕と舞子は作戦会議をしていた。
クミン、コリアンダー、オレガノ、ガーリックパウダー。
そんな普段馴染みのないスパイスはどこに行けば手に入るのか、少なくとも近所のイズミヤには確実にない。
スパイス専門店なんて見たことも聞いたこともない。
「あ、もしかして」
舞子がパッと顔を上げた。
「デパートの地下の食料品売り場とかなら置いてるんじゃない?」
「あ。確か阪急の地下に、輸入食材とか製菓材料とか置いてる店があった気がする」
「え?そんな店知ってるの?」
「あったと思う。外国のチョコとか、缶詰の棚がずらっと並んでるやつ」
「よし!じゃあまずは四条河原町までゴーだね!」
「はい隊長!」
急に涼しくなった川端通を南へ。
そう言えば、ずっと工事中だったのが、看板や臨時のガードレールなんかが全部なくなっている。
何かが完成したのだろうか。
考え事をしながら自転車を漕いでいると、あっという間に目的地に着くもので、気がつけばもう八坂さんの楼門が見えてきた。
四条大橋を渡ると阪急はもうすぐそこだ。
自転車を停めたら真っ直ぐに地下へ向かう。
「確かあっちの方だったような…」
うろ覚えの記憶を頼りに奥の方にいくと──あった。
そこだけ空気が違った。
見たことのない瓶や缶が整然と並び、英語やフランス語のラベルがやけに格好いい。
バターとナッツの甘い香りに、スパイスの刺激的な匂いが混じっていた。
「うわぁ……ここだけ外国みたい」
舞子が小声で呟く。
瓶詰のピクルス、オリーブ、アンチョビ。
缶詰のトマトピューレや、見たことのない色のマスタード。
棚の下の方には、紙袋入りの薄茶色い粉がずらりと並んでいた。
「これや、クミンって書いてある」
僕が指差すと、舞子が顔を近づけた。
「ほんとだ。CUMIN……なんかちょっと、名前からして強そう」
隣にはCORIANDER、OREGANO、GARLIC POWDER。
どれも洒落たフォントの小さなラベルで、ラテン語みたいに見える。
舞子はひとつずつ瓶を手に取って眺めていたが、やがてオレガノの瓶のキャップをひねろうとして、僕が慌てて止めた。
「おいおい、買う前に開けたらあかんて!」
「あ、そうか! つい……」
舞子は両手で瓶を戻しながら、ぺこりと小さく頭を下げた。
頬が少し赤い。
「でもなんかさ、見てるだけで匂いしそうなんだもん」
「するする。スパイスの棚って、それだけで香ばしい匂いするやろ」
「ほんとだ……外国の台所みたい」
彼女の言葉に合わせて僕も深呼吸すると、ほんのりカレーのような、レモンのような、混ざり合った匂いが漂っていた。
「じゃあ、スパイスはこれでOKだね。あとは商店街戻って豚バラのブロック買って」
「あ、ついでにこの地下でオレンジとライムと、ハムとパン買って帰ろう。それぞれに専門店コーナーがあったはずや」
「あとピクルスもいるってハルくん言ってなかった?」
確かにそう書いてあった。
と、あたりを見渡した舞子の視線がある一点で止まった。
「ね、ハルくん。ケーキの土台のスポンジだけ、っていうのが売ってるよ」
「え?どこ?」
「ほらそこ。そんなのあるんだね」
やったことはないが、ケーキのスポンジを焼くのはとても難しいと聞いたことがある。
全然膨らまなかったり、真ん中だけぺしゃんこになったり、舌触りがザラザラだったり、素人が手を出すとほぼ失敗するらしい。
「これやったら、生クリームとフルーツだけ飾ったらケーキできるんや」
「あ!見てあそこの冷凍庫!『冷凍生クリームホイップ』だって!」
「そんなものまで?デパ地下すごいな」
「えっとね、冷蔵庫で八時間程度置いておいて、柔らかくなったら袋をもんで馴染ませたらそのままホイップクリームとして絞って使えるんだって!じゃあ、あと果物とキャンドル買ったらできちゃうじゃん、バースデー・デコレーションケーキ!」
舞子がガラスの扉に貼られた説明書きを読んだ。
「八時間か…今からやと、晩ごはんにキューバンサンド食べて、銭湯行って帰ってきたらちょうどええくらいやな」
「買っちゃう?あとフルーツも」
「ええかもな」
「あでも、今の時期だとイチゴはないんだよね」
「十月やからな」
「どうしよう?」
あたりを見渡すと、さっきの缶詰コーナーに、「Fruit Cocktail」と書かれた缶詰が目についた。
ピーチ・みかん・パインの写真が貼ってある。
「あ、こっちにはゼリーみたいなさくらんぼの瓶詰めも!わ!いろんな色の小っちゃいチョコの粒もある!」
"Maraschino Cherries" "Chocolate Sprinkles" というパッケージを舞子がカゴに入れていく。
いやもうそれ、ケーキできてるじゃないか。
思わぬ収穫だ。
輸入ものコーナーでピクルスの瓶詰めとアメリカンハム、青果コーナーでオレンジとライムも手に入れた。
でも、さすがにキューバのパンなんてものは売ってない。
レシピもそれは承知で、
"Cuban bread is essential for a Cuban sandwich, but it can be tough to find. French bread and Italian bread make good substitutes.(キューバサンドイッチにはキューバパンが欠かせませんが、なかなか手に入りません。フランスパンやイタリアパンで代用できます。"
と書いてあったので、パンコーナーで良さそうなものを探す。
バゲットは細すぎるし、パリジャンはでかすぎる。
悩んだ末、写真に一番近そうなバタールにした。
さて、一旦アパートに戻って冷蔵庫に入れて次は商店街へ…と考えたら、豚肉もここで買ってしまおう。
そうして結局、阪急の地下だけであっさり全ての材料が手に入ってしまい、僕と舞子はホクホク顔で出町柳に戻った。
駅前を通った時、どうして今まで気付かなかったのか自分でも不思議になるくらい大きな垂れ幕とポスターが目に入った。
『一九八九年十月五日 鴨東線開通!出町柳から三条まで京阪で一直線!』
なんと!四日後じゃないか!
全然知らなかった。
ここに住んでるのに。
「三条まで京阪で行けるんやって」
「えー!それすごいじゃん!バス、結構面倒だったもんね」
川端通りの工事はこれだったのか。
僕達は興奮して、開通したら三条に行ってどんな事をしようかと大声で話しながらアパートに着いた。
「ふ~、結構疲れたねー」
「けど、必要なもん全部揃った。一休みしたら、作ってみよう、キューバンサンド!」
「うん…そうだね。一休み…」
そう言って舞子がソファベッドに沈み込んだ。
いや、これはダメだ。
いつものパターンで、起きたらもう夜になってる。
「舞子ー、紅茶淹れてあげるから、寝るのはやめよう」
「あ、確かに」
「あ、確かに」
舞子はぼへーとした顔で、ちょっと照れ笑いを浮かべて起き上がった。
テーブルの上には、異国の名前が並んだスパイスの瓶と、
オレンジとライム、それにバタール。
まだ食べてもいないのに、
部屋の中にはもう、知らない国の匂いが漂い始めていた。




