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第23回 糺の森の月見団子

「舞子ちゃんて、絶対親戚じゃないですよねー」


そう言い放って以来、明らかにサキチは僕に対しての距離が近くなった。


同じシフトに入った時は、少し客が途絶えるとすぐにホールで僕の横に来て、自分の匂いを付けようとする猫のようにぴったりと体を寄せ、上目遣いで話しかけてくる。


僕は基本的にはバイト先には自転車で行っているのだが、たまに車で行くことがあって、従業員用駐車場に僕の車があるのを見つけると、


「帰り、京阪四条の駅まで送って下さいよー」


と甘えた声で見上げてくるようにもなった。

まあ、可愛い女の子に懐かれて悪い気はしないから、送って行ってしまうんだけれど。


それはやがてバイトで一緒になった時だけではなく、二人ともシフトに入っていない日には、やれご飯食べに行こう、やれ飲みに連れて行けと頻繁に誘ってくるようになった。

平日は夕方から舞子が毎日バイトに行ってしまうものだから、自分のバイトがないと一人でつまらないのもあって、週に一度くらいはなんとなくデートのような事をするのが普通になった。

バカのくせに妙に勘のいいタツヤなんかは、


「お前、サキチと何かある?もしかして手ぇ出してたりする?」


と勘繰りはじめた。

もちろん手なんか出してないのだけれど、サキチは二人で歩いていると腕を絡めて胸を押し付けてきたりするものだから、これはなかなかに楽しいというか、困惑半分、浮かれ半分な僕を誰が責められようか。


ラテンアメリカの文化に興味があるというから、例の木屋町のラテンバー「Cock a Hoop」に連れて行って、タコさんから受け売りのサルサの蘊蓄を語ったり、花見小路のジャズバー「フラミンゴ」に連れて行ったりもした。

フラミンゴに連れて行った時には、早い時間なのに既に酔っ払っていたマスターが


「あれー?ハルヒトくん、いつものちびっこ彼女、舞子ちゃんやっけ?かと思たら、別のちびっこやん!新しい彼女か?」


なんて余計なとこを言ったものだから、


「ほら、やっぱり舞子ちゃん、彼女なんじゃないですかー!」


とサキチが言い出し、この話題から逸らすのが大変だった。

踊りに行きたいと言われて連れて行ったビッグ バンでは、一時間もしない内に何と香織が現れてしまい、


「あらハルヒトー!久しぶりやん?デート?前のロリっ子ちゃんに、ライブの時の露出狂女に、また新しいロリっ子ちゃん。お盛んやねー。はまた私とも遊んでよね」


と鼻で笑われ、舞子とは違ってそんな毒気に負けていないサキチの


「こんばんは。素敵なおねえさま。私もおねえさまみたいに素敵に"歳を取りたい"ものですわー」


という言葉と不敵な笑みに一触即発の空気になって、早々に逃げ出したりもした。


「中田さんの私生活って、どうなってるんですか?興味ありますー」


そういうサキチに、逆に、お父さんが会社経営してたり天橋立まで運転手付きの車で行ったりするくらいのお嬢なのにどうしてバイトなんかしてるのかと尋ねると、


「楽しいじゃないですか、サークル活動みたいで。友達もできるし、出会いもあるし」


という。


「出会いって、そのためにわざわざする必要のないバイトしてるん?」


「はい。だって、実際に中田さんに出会えたわけですから!」


サキチはそう言って、挑発的な笑みを浮かべながら僕に顔を近づけ、頬にキスをして


「じゃ、おやすみなさい!」


と京阪四条駅の階段を降りていった。

やれやれ。

ややこしいことにならなければいいのだけれど。


◇    ◇    ◇    ◇


「ねえ中田さん、今週の木曜、予定あります?」


バイト終わり、僕が自転車のチェーンロックを外していると、白いブラウスにカーディガンを羽織ったサキチが、ふいに声をかけてきた。

厨房の換気扇の音と、まだ熱を残したアスファルトの匂いが混じっているが、夜風は少し冷たくなり始めていた。

夏の終わりと秋の境目。

舞子もこの時間、バイト先からの帰り支度をしている頃だろう。


「ん?どうしたん?」


「木曜日、中秋の名月でしょ?父の会社がね、琵琶湖でミシガンを貸し切って観月パーティをやるんです」


「……ミシガン?」


その単語を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしい思いが蘇った。

幼いころから、何度も見たあの船。

真っ赤なパドルが、湖面でゆっくりと回っていた。

汽笛の音が、遠くの山に反射して帰ってくる。

まだ一度も乗ったことがないミシガン。僕はずっと、今も憧れている。


「うちの会社の取引先の方々を招いて、ミシガンを貸切にしてのパーティなんですけど、『友達ひとりくらい連れてきてもいい』って言われて。中田さんどうかなって」


サキチはいつもより少し控えめに笑った。

彼女にしては珍しく、言葉の最後に照れが混じっている。


「ほら、せっかく滋賀の人やし。琵琶湖の月、見たいでしょ?」


確かに、見たい気持ちはあった。

湖上で見る中秋の名月。

風に乗ってくる波の匂い、汽笛の音。

そういう夜を想像するだけで、胸がすこし疼く。


だけど。


「……いや、やめとくわ」


サキチの表情が、わずかに動いた。


「え?なんでですか?行きましょうよ。ただのパーティじゃないですよ。ジャズの生演奏もあって、ディナーもついてて──」


「それ、たぶんえらい席やろ。社長の娘が誰か連れてきた、って言うたら、向こうは"そういう紹介"やと思うやんか」


サキチは目を瞬かせた。


「紹介って……どういう意味ですか?」


「つまりやな、娘の"彼氏です"みたいに見られるってことや」


「……別に、見られてもいいですけど」


その一言に、息が詰まる。

軽い冗談のようでいて、笑っていない。


「そういうことやなくて、そんなかしこまった席でのかしこまった立場はちょっと苦手やな。僕には似合わへん。会社の偉い人ら、しかも知らん人ばっかりと一緒の船とか、息が詰まる」


「……ふうん」


サキチは視線を落としたまま、バッグのストラップを指先でいじりながら言った。


「……わかりました。じゃあ、別の人誘います」


そう言って踵を返し、街灯に照らされた白いスカートの裾が、夜風に揺れた。


僕は自転車に跨ったまま、しばらく彼女の背中を見送っていた。

頭の中には、ミシガンの汽笛の音がまだ鳴り止まなかった。


◇    ◇    ◇    ◇


中秋の名月の木曜日、舞子はいつものようにバイトで、僕は休みだった。

サキチもミシガン観月クルーズに行っていることだし、今日は一人で晩ご飯だ。

久しぶりに千成食堂でちきん照焼定食でも食べようかと思い立って、自転車で下鴨本通を北に上る。


風が少し冷たくなり始めていて、ペダルを踏むたびに鼻先をかすめる秋の匂いがした。

糺の森の西を抜けるあたりで、ふと、どこからか笛の音が聞こえてきた。

細く長く、夜の空気に溶け込むような音色。

笙の和音がそれに重なり、篝火の煙が森の奥で揺れているのが見えた。


――なんだろう。


神事かもしれない。

帰りに、少し寄ってみよう。


そう思って、定食を平らげたあと、再び自転車を南へ走らせた。


下鴨本通の並木が、月光を受けてほの白く光っている。

風が止んだ瞬間、どこからか雅楽の旋律がまた届いてきた。

それは人の声よりも静かで、でもどこか切ないほどに澄んでいた。


境内に入ると、糺の森の奥に篝火がいくつも焚かれ、

御手洗川の水面には小さな灯りがゆらゆらと映っていた。


池の東側に張り出した橋殿では、装束姿の楽人たちが笙と篳篥を奏でている。

火の粉が時折、楽器の銀に反射してちらりと光る。


人の声はほとんどなく、聞こえるのは笛と風と、火のはぜる音だけだった。

僕は立ち止まり、東の空を見上げた。


木々のあいだから、まんまるな月がのぼっていた。

山の端を離れたばかりの月は、まだ少し赤みを帯びていて、

それが篝火の色と混じって、まるで宵の夢のように見えた。


――舞子と、一緒に見たかったな。


ぽつりとそう思った。

もし舞子がここにいたら、きっと子どものように目を丸くして、

「うわぁ……ほんとだ、まんまる」って笑っただろう。


帰り道、参道の端に小さな露店が出ていた。

白い提灯の下で、年配の夫婦が炭火で団子を焼いている。

焦げた醤油の匂いが夜風に混じり、僕の足を止めた。


「みたらし団子、五本ください」


そう言うと、店の人が焼きたてを手際よく紙に包んで渡してくれた。

熱で包み紙の端がしっとりと湿っている。

かすかに焦げた香ばしい匂いが指先に移った。


そのまま自転車の前かごに団子を入れて、家路につく。

御蔭通から高野川を渡ると、さっきよりも高く昇った月が街を照らしていた。


ひんやりした夜気が頬を撫で、

遠くの方で、まだ笙の音がかすかに鳴っている気がした。


◇    ◇    ◇    ◇


「ただいまー。ハルくんハルくん、月、すごいよ!?」


「あ、舞子も見たんや」


「うん。店の外にゴミを出しに行った時に、東山の方にすっごいまんまるの月が出ててね、ハルくんと見たかったなあって」


「僕も同じこと思ってたわ。下鴨神社で名月管絃祭いうのやっててな、今日はあっちの方にご飯食べに行って、偶然それ聴きながら月見られたねん」


「へー。じゃあ、同じ月見てたんだね」


「うん。あ、それでな、糺の森に屋台出てたからこれ買うてきた。一緒に食べよ」


そう言って僕はみたらし団子を皿に出し、台所に行ってお茶を淹れた。


舞子は団子を一口かじって、ほっぺたをふくらませたまま、目を今夜の月みたいにまんまるにした。


「んんーっ……!これ、すっごくおいしい!」


焦げた醤油の香ばしさと、甘じょっぱいタレのとろみが、夜の空気にまだ残っている火の匂いを思い出させた。

団子は焼き立ての熱がすこし残っていて、表面はこんがり、内側はもちもち。

噛むたびにタレがじんわりと舌に広がり、舞子は思わず目を閉じて唸った。


「やっぱり、こういうのって京都の味やなあ」


「うん……炭の香りがする。なんか、神社の空気ごと食べてるみたい」


僕は急須から湯呑みにお茶を注いだ。

湯気の向こうで舞子が、まだ団子を握ったまま笑っている。

お茶を渡すと、舞子は受け取りながら言った。


「わ、熱っ。でも……合うね、これ。甘いののあとに、ちょっと苦いお茶って最高」


「そやろ。団子だけでもうまいけど、やっぱお茶と一緒やと全然違うわ」


「ほんとに。なんか……月見ながら食べたい味だね」


舞子はそう言って、湯呑みを両手で包み込むように持った。

その指先の小さな動きが、さっき見た糺の森の灯籠のゆらめきを思い出させる。

窓の外には、まだ月が真上にあった。

畳に落ちる白い光が、湯呑みの縁で小さく揺れていた。


「なあ、舞子」


「ん?」


「今度は、一緒に見に行こ。糺の森の月」


舞子はふっと笑って、うなずいた。


「うん。約束ね」


お茶の湯気の向こうで、二人の間に流れる空気が、ほんの少し温かくなった。


「さ、ほな銭湯行こか」


「うん。レッツゴー」


自転車の前カゴにお風呂セットを入れて百万遍に向かう。


夜風はもう、夏の終わりの匂いだった。


さっきよりも高く昇った月が、二人の進む先を静かに照らしている。


同じ月を、別々の場所で見ていた。


それだけのことが、妙に嬉しかった。


けれどサキチの言葉は、まだ耳の奥に残っていた。


――そんな親戚、いませんよー。


月明かりの下、自転車のベルが小さく鳴った。

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