第22回 京の匠の焚き火トースト
朝の琵琶湖は美しかった。
湖の向こう、西の比良比叡に沈む夕陽も綺麗なのだが、ここからだと背後になる近江富士の山の端を白く輝かせて登ってくる朝陽と、その光にキラキラと輝く湖面に細長く延びる魞のシルエット、そして湖岸の松という風景が、京都のお膝元の雅な趣を魅せる。
まだ夜が明け切らない朝五時に目を覚ました僕は、すうすうと寝息を立てている舞子を起こさないようにテントから這い出し、焚火の火を熾した。
松ぼっくりから小枝へ、小枝から細い薪、そして徐々に太い薪へ。
少しずつ育っていく火を眺めながら、ガリガリとコーヒーの豆を挽く。
かまどに網を渡してケトルを置き湯を沸かす。
マグカップの上にセットしたドリッパーの豆に、まずはチョンチョンと小さく注いで蒸らしを二十秒。
次に真ん中を狙って細く湯を注ぐと、豆がぶわぁと膨らみ、香ばしい香りが立ち上がる。
この瞬間のためだけに僕はキャンプに来たら誰よりも早く起きる。
トングで小さな枝をつまんで、くわえたタバコに火を点けて、朝の空気と一緒に煙を吸い込み、そこにコーヒーを一口。
最高だ。
「ハルくん、もう起きてるの?」
舞子がゴソゴソとテントから出てきた。
二つに結んだ髪が乱れて実に面白い形になっている。
「舞子、髪型が!わははははは!」
「そんな笑わなくていいじゃん!テントで寝てたんだから仕方ないでしょ!」
そう言いながら手鏡を出して自分の姿を見た舞子も笑い出した。
「すごいねこれ!」
そう言いながら結び目を解き、ブラシを通して結び直す。
見慣れたタレ耳うさぎになった。
「お湯沸いてるけど、紅茶淹れる?ティーバックやけど」
「うん。お願い」
マグにティーバッグを二つ入れ、たっぷりの湯を注ぐ。
チャプチャプしてはいけない。
ゆっくりと紅茶が抽出されるのを待つ間に、コッヘルで牛乳を沸かす。
これまた、膜が張るような沸かし方をしてはいけない。焚き火はもう熾火になっているから、網に乗せて火からの距離を取りながらゆっくりと温める。
マグカップに牛乳を注いで、砂糖を二杯。ティーバッグはそのままでいい。
「ほい」
「ありがとう。あ、おいし」
両手でカップを持って口に運ぶ舞子は、冬のホットカルピスのCMを思い出させた。
♪るふるん、るふるん、雪うさぎ
季節はまだ残暑も厳しい九月の上旬なのだが。
「さて、ほな朝のトースト焼こか」
僕はそう言ってコンテナから、銀色に輝く秘密兵器を取り出した。
「なにそれ?そんなのあったっけ?ていうか、焚火でトーストなんか上手く焼けるの?」
「僕も初めてやけど、こいつでいけるらしいねん」
「へー」
◇ ◇ ◇ ◇
僕がその金網屋さんを見つけたのは全くの偶然だった。
お昼が軽めだったから早い時間にお腹が空いた僕は舞子がバイトに出かけるときに一緒に自転車でアパートを出た。
御所を回避して丸太町から柳馬場に下がる舞子とそこで分かれて二条城の方に向かい、久しぶりにてり丼きんし地獄盛でも食べようかと思っていたのだが、この前の洋食が美味しかった話で盛り上がって二筋ほど一緒に下がってしまった。
「ほな、頑張ってな」
そう言って分かれたあと、なんとなく夷川通や堺町通をクネクネと走っていると、気になる店構えが現れた。
「金網?」
木造りの入り口、大きなガラスのショーウィンドウ、その中には、様々な金網製品が並んでいた。
吸い寄せられるように中に入ると、大小、実にバラエティに富んだ金網製品。
水切りザルや天ぷらを上げる網、湯豆腐を掬う網など一般的な網製品から、コーヒードリッパーなんてものまである。
その中でも一番目を引いたのが、取手付きの二段になった金網だった。
魚焼き網だろうか?
下の段の網は目が細かく、上の段は粗め。
魚焼き網にしては、下の段につき物の石綿が付いていない。
「これ、何に使う網ですか?」
店のおじさんに尋ねてみた。
「焼き網ですな。お肉でもお魚でも美味しゅう焼けます。全部一つ一つ手で作ってますのんえ」
「全部手作りですか!すごいですね」
「ああ、あとね、トーストも美味しゅう焼けるんですえ」
「え?直火で網でトーストですか?」
「へえ。下の目の細かい焼網受が直火を和らげて熱をまんべんなく広げてくれるんですわ。外側はカリッと、中はふんわりしたトーストになります」
そう聞いて僕はにわかにこの網が欲しくなった。
が、値札を見ると結構な金額が書いてある。
う~ん…
「キャンプで焚き火とかでも美味しいトースト焼けますな」
おじさんのその言葉に、もう僕の「欲しい」という衝動が、財布の紐を締める理性を上回った。
かくして、この後、金網を入れた袋を持って山盛りの豚のてりやきと錦糸卵の丼を食べている、奇妙な大学生となってしまったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「すごい!さっそく焼こう!」
僕の話を聞いて、舞子のテンションが上った。
熾火だからかまどの上の網に更にこの網を載せ、位置を調整しながら焼いていく。
前に焚き火でトーストを焼こうとしたときは、あっという間に表面が黒焦げになって、そのくせ中は冷たいままだったのだが、この網を使うとゆっくりとこんがり表面が色づいていく。
「わ。わ。わ」
舞子のワクワクが伝わってくる声を聞きながらパンをひっくり返し、また炙っていく。
やがて表面全体が金色に輝くきつね色になった。
「よし焼けた!」
紙皿に一枚ずつ色っぽく焦げ目の付いたトーストを置く。
焚き火の近くに置いておいたバターも、いい感じに柔らかくなっていた。
トーストにはマーガリンなんか使っちゃいけない。
あれは変な匂いがして、何と言うか悲しい味がする。
「「いただきます」」
カリッ。
香ばしい音を立ててパンの表面が割れる。
中はふわっふわだ。
ぎゅっと噛むと、もちもちとした食感の後からバターがじゅわっと染み出してきて、塩っぱさと香りとパンの甘さとのハーモニーを奏でる。
「これはあれやな。家でやろうとしてもどうしてもでけへんかった、喫茶店のモーニングの厚切りバタートーストの味やな」
「ううん。あれよりもずっと美味しいよ。この香りは焚き火じゃないとだし、こんなにふわふわのトースト知らないもん」
舞子はパンをかじりながら、何かを思い出すように湖の方を見た。
こういう朝を、当たり前みたいに一緒に味わっていることが、少し不思議だった。
最初は、僕が連れてきたキャンプだった。
でも今は、舞子もこの朝の一部になっている。
たしかにそうだ。
こんなトーストは食べたことがない。
このトーストと、淹れたばかりのコーヒー、抜群の朝食だ。
またもや野菜はないけど。
「もう一枚いっとく?」
「もちろん!」
朝陽を受けてきらきらと輝く琵琶湖、繰り返すさざ波の音、朝の涼しい風、美味しいトーストとコーヒー、そして舞子の笑顔。
最高のキャンプの朝だった。
こんな朝を、また一つ覚えてしまった。




