第21回 ラグビーのち、近江牛すき焼き
今回は怪我をしなくて済んだ。
「ハルくん、去年あんな大怪我したから、今回はおとなしくしてるかと思ったのに、ボール持ったらタックル?来てる相手チームの人に思いっきりぶつかっていくんだもん。ヒヤヒヤしたよー」
ノーサイドの後、舞子が僕の汗をタオルで拭きながら言った。
その手つきが、去年より少し慣れている気がした。
高校ラグビー部OBチーム、春先から練習は始まってそれには参加していたが、大事を取って春の大会は出場を見合わせたから、僕個人は右肩を脱臼した去年の秋の試合以来ほぼ一年ぶりの試合だった。
舞子はそう言うが、僕としては、タックルしなければならないシーンで去年の痛みが頭によみがえり、思い切って飛び込めなかった場面が何度もあった。
そのたびに、自分でも悔しかった。
なので、ディフェンスで役に立たない分、せめてオフェンスでは、と思い、相手のタックルには思いっきり左の肩からぶち当たってひっくり返して前に進む、という高校時代から「牛」と呼ばれた得意プレイでチームに貢献しようとしたのだ。
その甲斐あって、秋の大会の第一試合は勝利を収めた。
まあ、トライを挙げたのはフォワードの僕ではなく、ウイングやフルバックのバックス陣だったのだが。
「お疲れー。中田、ええ突進やったな!」
という先輩の言葉と、
「全然止まらへんしこけへんし、どうなってますのん?」
という相手チームのフランカーの言葉がとても嬉しかった。
「あたか飯店の打ち上げ行く人ー!?」
ヒロくんが声を上げる。八割くらいのメンバーが手を挙げた。
「あれ?中田行かへんの?彼女も一緒に連れて来たらええのに」
「彼女ちゃいますよー。ちょっと用事があって」
「なんや、おもんないなー。ほな、次の試合の打ち上げは絶対やぞ!」
「はい!」
試合後のボリュームのある中華は魅力的だったが、先輩の誘いを断ったのには、もちろん理由があった。
「ほな失礼します!──舞子、行こか」
車に乗って、僕は希望ヶ丘の芝生を後にした。
国道8号線をそのまま突っ切って、北へ向かう。
◇ ◇ ◇ ◇
親から、小ぶりな小包が届いたのはこの前の水曜日の事だった。
開けてみると、中は濃口、淡口、ポン酢など、醤油の詰め合わせと小さな封筒だった。
なんだって醤油なんか?と電話をかけると、今年、近所の醤油屋を僕の五つ上のシゲキちゃんが継いだらしく、張り切って半年のうちに新商品を色々出したから、その詰め合わせを御祝儀で買って送ってきてくれたという。
僕が生まれ育ったのは昔ながらの小さな農村で、代々続く造り酒屋や造り醤油屋や「麹屋」や「炭屋」と呼ばれる家なんかがいまだに残る村で、そういった付き合いがまだまだ濃厚だ。
電話をしながら封筒を開けると、近江牛すき焼き肉の商品券が入っていた。
訊くと、襲名祝いに村の各家に配られたからそれも送ってくれたという。
「それ、九月いっぱいやから早よ使い」
と親は言うが、商品券は実家の近所のお肉屋さんのものだった。
「近江牛すき焼き、嬉しいけど、そのためだけに滋賀県か……ガソリン代とどっちが高いんやろ……」
電話を切ってからそう呟いた僕に、舞子が
「週末、ラグビーで滋賀県行くって言ってなかった?」
と言う。
そういえばそうだった。
「じゃあさ、ラグビーの後、キャンプしない?」
「キャンプ?」
「うん。この前のキャンプ、すごい楽しかったし、私、琵琶湖畔でキャンプってしたことないから素敵だろうなあって。キャンプですき焼きしようよ」
「すき焼きキャンプか。ええな。そうしよか。後期の講義もまだ始まってないし、日月で」
「やったー!」
舞子はもう、キャンプを「行くもの」としてではなく、
自分で次を考えるものとして楽しみ始めている。
琵琶湖なら、ラフォーレ琵琶湖の前のなぎさ公園が水場とトイレがあって、あとは自由に使えるからちょうどいい。
希望ヶ丘からも遠くないし、勝手知ったる地元でもある。
中学生の頃から自転車にキャンプ道具やギターを積んでタツヤたちとキャンプに行ってたのもそこだ。
そんなわけで日曜日、アパートで遅いブランチを食べたあと、スパイクやヘッドキャップと一緒にラゲッジスペースへキャンプ道具を積み込んで、僕と舞子は大原を越えて滋賀県に向かったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「まずは平和堂やな」
白菜や白ネギや焼き豆腐、椎茸なんかの定番の具材と卵の他に、買わなければならないものがある。
この前の内定者拘束日の老舗のすき焼きはとんでもなく美味しかったのだが、実は僕には少しだけ不満が残った。
「え?すき焼きに赤こんにゃく入れるの?」
舞子が不思議そうに言う。
そう。すき焼きには糸こんにゃくも悪くはないが、やはり赤こんにゃくが欲しい。
それともうひとつ。
「これこれ。これがないと」
「え?お麩?」
「うん。すき焼きのメインは肉やけど、もう一つの主役は汁をたっぷりと吸ったこいつや」
「えー?それ、鯉の餌じゃないの?」
どうやら舞子は、お麩は池の鯉にあげる餌としてしか見たことがなかったらしい。
失礼な話だ。
恐怖の味噌汁のオチは、どう付けるつもりなんだろう。
ともあれ、今年から始まったHOPカードを出して会計を済ませ、次はお肉屋さんへ。
実家の隣の集落、といっても間には田んぼが広がっているんだけれど、昔ながらの農村の一角に、子供の頃からよく親に連れて行かれたそのお肉屋さんはある。
こじんまりとした佇まいは、本当に庶民的な田舎の個人商店で、実際にその通りなのだが、実はこの店には本物の近江牛が売っている。
店に入ると、「近江牛指定店」という額が壁に掲げられている。
しかも、この店の近江牛は、高島屋の精肉店や、錦市場や枡形商店街のお肉屋さんと比べると、なんと半額近い値札が付いている。
さすが地元という他ない。
すき焼き用特上ロースを五百グラム買っても、商品券プラス千円程度で収まった。
ありがとう、シゲキちゃん。
あとは琵琶湖に向かうだけだ。
夏は水泳客で車を停めるにも一苦労でビーチは足の踏み場もないなぎさ公園も、九月とあって人もまばらで、水場に一番近いところに車を停めてすぐそこに荷物を下ろすことができた。
「テント、私が建てるよー」
舞子はそう言って、テキパキとフレームを立ち上げ、あっという間にフライシートまで張ってしまった。
天橋立のキャンプ場で一回手伝っただけなのに、大したものだ。
僕が手を出す隙がないくらいだった。
僕は椅子とテーブルを広げ、地面に穴を掘ってかまどを作ると早速火を熾しはじめた。
今回はステーキや焼き肉ではなく、また上火も使わないからあまり拘らなくていい。
薪がパチパチと音を立ててしっかり火がついたら、網を乗せてまずは飯盒でご飯を炊く。火加減は位置で調整だ。
その間に舞子は具材を洗い、切ってザルに上げ、僕が言う前にお麩を水で戻しておいてくれた。
ご飯が蒸らしに入るタイミングでトライポッドを立ててダッチオーブンを吊るす。
ダッチオーブンが温まった頃合いを見て牛脂を入れるとじゅうと音がして、すぐに甘い匂いが立ち上がる。
今回は砂糖と醤油ではなく、送ってきたセットの中にあったすき焼きのタレを使う。
最初見た時は、タレなんて…と鼻で笑ったのだが、一応味見をと一口舐めて驚いた。
子供の頃から慣れ親しんだ、家のすき焼きと同じ味、というかそれがグレードアップした美味しいものだったのだ。
さすが同じ村の中の造り醤油屋が作っただけのことはある。
「舞子、卵の用意はええか?」
「溶いたー」
「ごはんもよそった?」
「うん。バッチリだよー」
左手にお椀型の紙皿、右手に割り箸。
大きな目が期待でキラキラと輝いていた。
まずは一枚。
大きなスライスを破れないように広げながらダッチオーブンへ。
じゅーっ。
音とともに、湯気と肉の香りが湧き上がる。
すかさず、地元の醤油屋特製すき焼きのタレをかける。
音は更に大きくなり、肉の甘い香りと砂糖醤油の香ばしい匂いで頭がくらくらする。
一回だけひっくり返し、まだピンクが残っている状態で取り上げなければならない。
「はい、舞子」
「ありがとう。うわ。いい匂い!」
卵を絡めて肉を口に運ぶ。
「!!!」
舞子の顔が、笑みと驚きが混じった表情になった。
ほっぺたをふくらませる暇もなく、飲み下す。
「なにこれ!美味しさだけ残して肉が溶けて消えたよ!」
「そやろ?これが近江牛や」
舞子が僕を見上げて笑う。
お次は自分の肉。
なるほど。今まで普通にやっていた、砂糖と醤油を直接かけて焼くやり方だと、二枚め三枚目と進むにつれて砂糖が焦げ付いてしまったり、醤油が煮詰まりすぎたりしたものだが、このタレを使うとそれがない。
しかも、鰹や昆布の出汁とみりん・酒なんかも入っているから、関西風の力強い味と一緒に、関東風のすき煮のような繊細で複雑な味も加わって、美味しさが指数関数的にあがっているじゃないか。
「うんま」
僕の肉もあっという間に口の中で溶けて消えた。
強烈な旨味だけが口の中に残り、次の肉を待ち構える体制になる。
「舞子、もう一枚いく?」
「うん!お願い!」
次は卵を絡めたお肉でご飯を巻いて食べる。
肉、砂糖と醤油と出汁、卵が、ぴかぴかの白いご飯と絡んでこれまた極上だ。
「これは…エンドレスだねー」
こうして一人三枚も食べると、そろそろ肉だけお楽しみタイムは終了してお鍋モードに突入する。
白ネギ、しいたけ、白菜、赤こんにゃく。
一段と美味しそうなじゅうじゅうという音が上がる。
軽く焼き付けたら日本酒とタレを入れて、アルコールが飛んだくらいで味見。
「タレ、もうちょっとやな」
白菜がクタッとし始めたら、肉とお麩も入れる。
「もういけるかな?」
「うん。お肉の色変わったし、ええで」
うん。
今度はお肉の味に野菜としいたけの優しい甘さも加わって複雑な旨味が生まれた。
ぷりっとした赤こんにゃくの食感がアクセントだ。
季節的に売ってなかったから仕方がないが、春菊が入っていないことが悔やまれる。
「美味しいねー。こんな美味しいすき焼き初めてだよ」
舞子がほっぺたを膨らませながら言った。
「そろそろお麩、いけるな」
「本当に食べるんだ…」
「美味しいって。舞子も一つ食べてみ?」
そう言って舞子の椀に、旨味をたっぷり吸い込んでクタクタに茶色くなったお麩を入れる。
舞子は疑わしげに箸でつまみ、目を細めて口に入れた。
「あっつ!わ!なにこれ!?うま!!!」
「せやろ?」
誇らしげに僕が言うと、舞子はハフハフしながら頷いた。
「ご飯おかわり!」
「僕も!」
「卵もおかわり!」
「僕も!」
あつあつ、ハフハフ、もぐもぐ、うまうま。
肉と白菜とネギと赤こんにゃくのカルテット。
卵とご飯のハーモニー。
そして、お麩のソロ。
壮大な交響楽が奏でられるみたいに、ものすごい勢いでご飯とすき焼きがなくなっていく。
それとともに、目の前の琵琶湖は少しずつ夕方の光を帯びていた。
「さ、そろそろシメやな」
そう言って僕はスチベルから茹でうどんの袋を取り出し、ダッチオーブンのすき焼きの残り汁に投入した。
白いうどんがほどけ、みるみる茶色に染まっていく。
ここで一旦火から下ろして五分待つ。
うどんが汁を十分に吸ってクタクタになったら再びトライポッドの鎖に吊るす。
「さ、もう一個卵割って、食べよ」
「卵、三個目だー」
舞子が笑う。
七味を一振り。
肉と野菜の旨味、砂糖と醤油と出汁。
すべてを取り込んだうどんに卵を絡めて食べるんだから、美味くない訳がない。
「ふわ~!美味しい!お腹いっぱいなのにまだまだ食べちゃう!」
「うん。お腹パンッパンやのにな」
ずるずる。もぐもぐ。ずるずる。もぐもぐ。
「「ごちそうさまでした!!!」」
大満足だ。
これぞ滋賀県のすき焼きだ。
舞子も気に入ってくれたし、琵琶湖はきれいだし、風は気持ちいいし、最高だ。
琵琶湖の向こうの、比良比叡の稜線が夕焼けで赤く染まっていた。
今夜は焚き火を眺めながら、舞子にどんな話をして笑わせよう。
そんなことを考えている自分が、もうすっかり当たり前になっていた。
テントの前で片付けをしている舞子は、もう「連れてきた子」ではなかった。
一緒に来て、一緒に作って、一緒に食べる人だった。
そんなことを思いながら、僕は薪を一本くべ足した。




