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第19回 夏の終わりに鳴る音

アコースティック編成になった新生・鴨川ルクセッションの最初のリハは散々だった。


「お前、ウッベ全然あかんやんけ!」


タカトモに言われるまでもなく、それは自分が一番良くわかっている。

初めてのフレットレスで、ピッチが全然取れていない。

下手したら四分の一音くらいずれてしまう。

右手もウッドベースのスタイルがまだ身についていなくて、タイミングが合わないし、テンポも安定していない。


フラミンゴマスターに紹介してもらったベーシストのショウさんのレッスンは週に一回、これまでに三回通った。

毎週祇園花見小路の店まで自転車で汗だくになって通う。

ウッドベースはショウさんが持ってきてくれているので、そこは非常に助かったのだが。

最初のレッスンは、音の出し方。

音を出すのは、ピチカートかと思っていたら、何と弓からスタートだった。


「弓で弾くと長く音が伸びるからちゃんと正しいピッチで押さえられているかはっきりわかるから」


というのがショウさんの説明なのだが、まずこの弓で音を出すところからが非常に難しい。

開放弦で練習しても、なかなか同じ音量、音色で長く伸ばすことができず、それだけで時間の半分以上を使ってしまった。

不安定ながらも音が出せるようになると、次は左手の基本ポジションだ。

人差し指と小指でオクターブを押さえ、そのまま半音ずつ上げていく。

音が高くなると段々とポジションの幅が狭くなっていくから、指の間隔と、各音のポジションを自分の体の肩や胸などの位置との相対関係で体に覚え込ませろ、というのだが、いきなりそんな事できるわけがない。


レッスンとレッスンの間は、アパートの部屋で練習をする。

弓は持っていないから、右手はエレキベースの弾き方のままだ。


単音のピチカートだと、サステインの短い事もあって、音程は合っているように聞こえるのだが、次のレッスンで弓で弾くとやはり酷いピッチだ。

二回目のレッスンも、オクターブポジションでの弓弾きだけでレッスンの時間は終わった。


「家で練習してきて。それでできるようになってる前提で、次は右手のピチカート教えるから」


そう言われて僕なりに練習して挑んだ三回目のレッスン、冒頭の弓弾きでまたもやショウさんが首をひねりながらも、


「まあとりあえず前に進もか」


と言ってピチカートを教えてもらう。

人差し指の腹を弦に沿わせて強いアタックで弾く。

弾けばとりあえずピックアップが音を拾ってくれるエレキベースと違って、きちんと弾かないとこれもまともな音にならない。

弦を下に押し込んで、指の腹を「ぶりん」と滑るように解き放つと、実にウッドベースらしい色っぽい音が出た。


「お。こっちはできるやん」


「でも、一音ずつしかできないです…連続して何音も出そうとすると、テンポがむちゃくちゃになりますね…」


「まあそれは慣れやな」


ショウさんは笑って、半音ずつキーを上げていってのドレミファソラシドを弾くように言う。

押さえる場所が変わっても、常に基本は人差し指と小指のオクターブポジションに戻るのが基本。

テンポは安定しない、ピッチも安定しない。

細かな調整の指導を受けながら、その日もあっという間に時間が来た。


そんなわけで、でかいウッドベースを車に積んで初めてのリハに挑んだものの、タカトモに


「お前ホンマにレッスン行ってるんか!?」


と笑い混じりで言われてしまう有り様だった。

練習場所を貸してくれているライブハウスのマスターも苦笑いしている。


ケンジが抜ける前の六月時点で予定していた八月のライブは当然延期したのだが、九月に新生お披露目ライブを、という計画もこれでは難しそうだ。

タカトモ、ギターのコウジ、僕の三人で話し合い、あと数カ月は練習期間に当てようということになった。

申し訳ない。


◇    ◇    ◇    ◇


「あれ?今日はバイトは?」


散々だったリハからアパートに帰ると、いつもならもうバイトに出かけているはずの舞子が部屋にいた。


「あれ?言ってなかったっけ?今年はマスターが町内の地蔵盆の役員に当たってて、今日は臨時休業なんだよ」


「あ、そうなんや」


そういうことなら、平日はバイトだと思っていたから諦めていた行きたい場所があった。


「ね、舞子。せっかくやからちょっと出かけへん?早めにご飯食べて嵐山の方」


「え?何があるの?」


「それは行ってのお楽しみ。それに、前にサキチに教えてもらって行ってみたい近所の店もあるし。」


「いいよー。じゃ、ちょっと着替えるからそっち向いてて」


アパートの前に出てタバコを二本吸って戻ると、舞子は、前に貴船へ行った時に着ていた小花柄のダークブルーのワンピース姿になっていた。

髪型は、普段のハムスターの耳みたいに結んだままだったけれど。


「サキちゃんが教えてくれたお店なんだったら、ちょっといいカッコした方がいい店でしょ?多分」


舞子は、そう言って当たり前のように自分で場に合う服を選んでいた。

少し前までなら、どこへ行くにもTシャツと短パンで飛び出していたのに。


僕も、ヘインズに501の上から、金ボタンのネイビーブレザーだけ羽織ることにした。


アパートからは車で五分ほど。

鴨川デルタの北に広がる下鴨神社の糺の森の西側に、こじんまりとしたそのお店はあった。

白と茶色のストライプのテント、ガラスの扉、「営業中」の木の札。

「←P」という案内にしたがって車を駐車場に停める。


「いらっしゃいませ」


店内に入ると、年季の入った外観からは想像できない、清潔に整えられた空間が広がっていた。

クロスの白い壁、ピカピカと光るリノリウムの床、整然と並ぶ真っ白なテーブルと椅子。

天井には焦げ茶色の装飾材が弧を描くように張り巡らされている。

奥の厨房から、デミグラスソースのいい匂いが漂い、胡麻塩頭のシェフが大きな鍋をかき回しているのが見えた。


「お好きなお席にどうぞ」


シェフの奥さんだろうか、上品な御婦人が案内してくれた。

まだ開店時間を過ぎたばかりとあって、客は僕達だけだ。

舞子を壁際のソファに座らせて、僕は天井の装飾材と同じ深い茶色の木の椅子を引いて座った。


「メニューです」


奥さんがお水とメニューブックを置いていく。

メニューブックは一品ずつ写真が添えられていて、「A定食」「B定食」「C定食」「N定食」「S定食」とセットメニューが並んでいた。

メニューの各ページにはのらくろのイラストが添えられている。


──A、B、C、Sはわかるけど、Nってなんだ?

そう思いながら、「店主おすすめ」と書かれたB定食に目がいった。

カニクリームコロッケ、ハンバーグ、エビフライ、そこにライスとスープが付く。


「そこのシェフはね、デミグラスソースもホワイトソースも一から作ってて、フライもののパン粉もまず食パンを焼いてそこから作ってるんですよ」


サキチの言葉を思い出した。

じゃあ、その全てが揃っていて、しかも「店主のおすすめ」までされているこのセットにしよう。


「僕はB定食にするわ。舞子は?」


「私もB定食食べたいんだけど、多そうだし、食べきれなかったらハルくん食べてくれる?」


「もちろん。大歓迎」


舞子は笑って、様子を見てオーダーを取りに来た奥さんに


「B定食二つお願いします」


と注文した。

奥さんが奥に戻ると、すぐに厨房の音が変わる。

油の弾ける音。フライパンの金属音。

静かに流れるイージーリスニングのBGMに乗って、不思議と心地いいリズムを刻んでいた。

漂ってくる香りで、もう美味いのが分かる。

舞子が


「いい匂い……」


と目を細める。

その横顔を見ながら、

ああ、夏の夕方って、こういう時間のことを言うんだな、と思った。


やがて皿が出てくる。


「「いただきます!」」


まずはエビフライを一口。

カリッという音を立てて衣の中から湯気が立ち上って、プリプリのエビの甘さと香りが口中に広がる。


「うん、めっちゃ美味しい」


舞子が声を上げる。カウンターの木目の向こうで、シェフが一瞬だけ、満足そうに目を細めた。

次はハンバーグ。

濃厚なデミグラスソースに彩られたハンバーグは、箸でも切れそうなほどに柔らかく、それでいて肉の食感がしっかりと残っている。

赤ワインベースの芳醇なソースの味と、肉の旨味、スパイスの刺激。


口の中が幸せいっぱいになりながら、クリームコロッケにナイフを入れる。

サクリと音がして割れた衣の中にとろりとした、でも決して流れ出したりしないホワイトソースが顔を出す。

バターの香り、火傷しそうな熱いクリーム、後から鼻に抜ける蟹の風味。


「全部うますぎるな」


「すごいねー」


もうどれもこれも最高すぎる。

いつしか舞子も僕もいつものように無言になって食べ続けていた。


「うー。悔しいけどお腹いっぱい!ハルくん、もうちょっとだけ食べて!」


という舞子の皿から、ハンバーグとエビフライとクリームコロッケの少しずつの残りを自分の皿に取り、ライスの皿も自分の前に。


「ええんか?食うで?」


「うー。食べたい!でももう入らない!」


舞子が笑う。


「「ごちそうさまでした!」」


僕が全部食べ終わるのを待って、二人で声を合わせた。


食後のコーヒーと紅茶をオーダーしてタバコに火をつけようとした時、ふと「禁煙」の文字が目に入った。


「あ、こちら禁煙ですか?」


尋ねると、奥さんが


「いえ、ランチタイムの中で午後一時までは、小学生以下のお子さんとおタバコはご遠慮いただいているんですよ。今のお時間は大丈夫です」


と答える。

確かに注意書きをよく見ると「~十三時」の文字があった。

ゆっくりと食事を楽しんでほしいという思いが伝わってくる注意書きだった。


「美味しかったねー。昔を知ってるわけじゃないけど、『昔ながらの洋食屋さん』って感じだね」


「そうやな。こういうとこ、京都にはまだまだあるんやろな」


「うん。なんか、"町の味"って感じがする」


「そやな。派手やないけど、ちゃんと丁寧や」


コーヒーを飲み終える頃には、外の空が群青に変わっていた。

お勘定をして外に出ると、ふっと夜風が入ってきて、どこか夏草の匂いがした。


「今から嵐山の方行くんだよね?」


「うん。嵐山の近くやけどな。前から一回行ってみたかった行事が、ちょうど今日やねん。舞子が休みで良かった」


そう言って車のエンジンをかける。

ラジオから、井上陽水と玉置浩二の声が重なって流れてきた。

夏の終わりに似合う、少し名残惜しいハーモニーだった。


窓の外を流れていく街の灯りを眺めながら、

僕はふと、舞子の横顔を見る。


店の空気に合わせて服を選び、

洋食屋の味に静かに感動して、

知らないうちに、舞子は少しずつ大人になっていく。


ウッドベースの音程は、まだ全然取れない。

バンドも、この先どうなるか分からない。


けれど、

夏の終わりの夜風の中、

変わっていくものと、変わらないものが、

同じ車の中で静かに並んでいる気がした。

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