表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/35

第17回 リクルートスーツと大阪カレー

「ハルくん普通のスーツ似合わないねー」


久しぶりに出した紺の上下の、いわゆるリクルートスーツを着込んだ僕を見て、舞子はゲラゲラ笑い出した。


自分でも分かっている。

金ボタンのブレザーや、ヘリンボーンのツイードジャケットや、そういったものならそれなりに着こなしている自信はあるのだが、このリクルートスーツってやつはどうにも苦手だ。

シャツの色も襟の開き具合も、ネクタイの柄もノットも、何をどうすれば正解なのかがとんと分からない。


八月二十日 企業研究研修会

十三時 本社会議室にて


八月頭に届いた連絡は、就職協定の企業訪問解禁日に対する建前の、内定者拘束日の案内だった。

僕はいつものように舞子と朝食を摂った後で、今日は汗をかかないように鴨川デルタへの散歩はやめにして、数少ないフォーマルアイテムをスーツに合わせて、ああでもないこうでもないと、この前の舞子の浴衣のように試行錯誤していた。


で、最終的にはなんて事のない組み合わせに落ち着いた。

シャツはオックスフォード地のボタンダウンで、ネクタイは赤紺のレジメンタル。足元はプレーントゥではなく、あえてローファーに赤い靴下。

それが、迫り来る「社会人」という現実に対する、せめてもの僕の抵抗だった。


「じゃ行ってくるわ。夜は懇親会って言ってたから、帰りは結構遅くなると思う」


「はーい。気をつけてね」


なんだかほとんど新婚のサラリーマン家庭の会話みたいだな、と思った。

そう思ってしまった自分に、少しだけ照れる。


僕はバスに乗って河原町まで出て、阪急に乗り換えて大阪へ向かった。

マルーンの車体に、緑のビロードのようなシート。

阪急電車はいつものように、京阪やJRとは一味違う高級感を醸し出していた。


研修会は一時からということで、お昼を食べようと早めに梅田に到着。

前に関大の広研の友達に、「あれ食ったことないのはあり得ない。絶対に食べないと」と言われたカレー屋を目指して三番街に降りる。

カレー屋はすぐに見つかったが、店の前にはエラい行列ができていた。

時間に間に合うかと一瞬怯んだが、結構な勢いで店から人が出て、列も進んでいる。

これならいけるだろうと、僕は最後尾に並ぶことにした。


ほんの五分ほどだろうか、予想通りの回転の早さで、すぐに僕の番になった。

店内に入るとU字型のカウンターのみ。

空いている席に座って水を出され、メニューを探すと、壁に小さな額に書かれている。

カレーライスとハヤシライス、あとは飲み物だけというシンプルさに驚きながら、どうしたものかとしばし悩んで周りの人を観察すると、皆座った瞬間に、


「カレー、卵で」


「大、目玉」


「全卵でお願いします」


と次々に注文していく。

とりあえず大盛りはあるようなので、


「カレー、大盛りでお願いします」


とカウンターの中のお兄さんに注文した。


「お待たせしました!」


全然お待たせされてないスピードで、僕の前にカレーライスと刻んだキャベツの小皿、先を紙ナプキンでくるまれたスプーンが置かれる。

カレーには何個か肉の塊が見えるだけで、ほぼルーのように見える。


「いただきます」


小さくそう言って手を合わせ、まずは一口。


ん?

甘い。


確か関大の友達は、「辛いから覚悟しろ」と言っていた気がするのだが。

もう一口。

やはり甘い。


と思ったところに。


──来た!


フルーツっぽい甘さの奥から、強烈な辛さが襲ってきた。

なんだこれは?

こんなカレーは初めてだ。

甘い。辛い。でもスプーンが止まらない。

とにかく美味い。

が、やがて辛さが僕の口の中の許容量を超えた。

こういう時に水を飲むと、もっと辛く感じると聞いたことがあるので、横に置かれたキャベツを一口。

キャベツは酢漬けで、ほのかな甘味があって、口の中を鎮火するのに絶妙な具合の味だった。

なるほど。このためのキャベツか。

そしてまたカレーに戻る。


甘い。辛い。美味い。

辛い。

辛い。

辛いー!


よくみんな平気でこんな辛いカレーを食べているな、と思って隣の人を見る。

カレーの上に乗った卵黄を、少しずつ崩して混ぜながら食べていた。


確かこの人はさっき「卵」って頼んでいた。

向かいの「目玉」って言ってた人を見ると、崩されているのと別にもう一つ、ルーの反対側に丸い卵黄が乗っている。

なるほど。


「すみません、今から卵乗せてもらうってできますか?」


カウンターのお兄さんにそう尋ねると、


「はいできますよ」


と答えて、僕の皿を取り上げ、白身切りの隙間のあるお玉で卵黄を乗せてくれた。


周りの人に倣って、卵黄を崩して混ぜて食べると──うまい!

まずやってくる甘さと、卵のとろみが溶け合う。

その後にやってくる辛さを、いい具合に包み込んでマイルドにしてくれる。

さっきは分からなかったスパイスの輪郭が立ち上がってくる。

美味い。

甘み、とろみ、コク、スパイス。

ご飯との相性も抜群でいくらでも食べられる。

たまのスプーン休めの酢漬けキャベツが、また次の一口を誘う。


「ごちそうさまでした!」


お金を払い三番街の通路に出ると、背中にびっしょりの汗と共に、僕はこのカレーの魔力に取り憑かれた自分に気づいた。

今度大阪に来たら、絶対また食べよう。

次は最初から大盛り、目玉でいこう。


舞子も連れて来たい。

けれど、辛いのが苦手な舞子は、たぶん最後まで食べられないだろう。

その時は、ハヤシライスを勧めてみよう。


そんなことを考えながら、僕は会社への道のりを歩いて行った。


社会人になるために大阪まで来ているはずなのに、

頭の中にあるのは、次に舞子と何を食べるかだった。


また新しい味を知った、大阪の夏だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ