第16回 送り火
「ね、ハルくん、今回はどうかな?」
「うーん…襟の後ろがちょっと花魁風味かなー?」
「そっかー。じゃあもう一回」
朝からもう何度目だろうか。
舞子は、祇園祭の時に嵯峨のおばちゃんから貰った浴衣を、今日は自分で着ると言って着ては僕に見せ、ダメ出しをするとまた、を繰り返していた。僕はその度に部屋から出てアパートの前でタバコを何本か吸ってまた戻る。
「金沢のお宿では毎日着物着てたんだから、絶対自分で着られるよ」
と言うのだが、よく聞くと、金沢では必ず最後に女将さんの「お直し」が入っていたらしい。
それでも今日は、最初から最後まで自分で着たいのだという。
その顔を見ると、もう「おばちゃんのところで着せてもらえばええやん」とは言えなかった。
僕も着物や浴衣に詳しい訳ではないが、片方だけ裾が長かったり、襟が後ろに抜けてたり、合わせが乱れてたりくらいなら分かる。
「ええかー?」
「もうちょっとー」
「どうー?」
「いいよー」
なんてやり取りを繰り返して、何度目かに見せられた浴衣姿は、やっと素人目にはちゃんと着られているように思えた。
「ええんとちゃう?」
「うん。自分でもそう思うんだけど、帯が後ろから見てこれでいいのかが自分では分からないんだよねー」
帯の具合は、僕にはさすがにそれでいいのかの判断はつかない。
「ほな、嵐山着いたらおばちゃんとこ寄って、最後の調整だけ見てもらおう」
「いいのかな?そんな事」
「大丈夫やろ。今日は送り火やから家いはるやろし。あ、なんか手土産買ってくるわ。ちょっと商店街の方まで行ってくるから、舞子は出かけるまで一回普段着になってゆっくりしとき。もうコツ分かったやろ」
「うん、そうする。ありがとう」
僕は自転車にまたがり、河合橋から鴨川デルタを超えて出町橋を渡った。
鴨川ではいつものように子供たちが水しぶきと歓声をあげて遊んでいる。
それが、せせらぎと蝉の声と一緒になる。
夏も、そろそろ山場を越えた頃だった。
商店街の入り口近くのアーケードの下、行列のできている店がある。
このお店の豆大福「名代豆餅」は、賞味期限当日限り、絶品のお土産ものだ。列は長いが、回転は早く、あっという間に僕の番になった。
「豆餅、五つは贈答用に、それとは別で四つを自宅用にください」
そう言うと、店員さんが手早く詰めて二つの紙袋を渡してくれた。勝手に舞子と御相伴に与ろうと言う算段だ。
「ただいまー。舞子ー、入るよー」
「いいよー」
舞子は三人の子供の雷様の描かれたTシャツとドルフィンパンツという姿に戻っていた。浴衣は衣紋掛けにかかって壁に吊るされている。
「おばちゃんへの手土産と、僕らが今食べる分と買うてきた。あの行列の店の豆大福」
「わ。一度食べてみたかったんだ。お茶淹れるね」
舞子はそういうと、台所に立った。
ほどなく香り高い煎茶の湯呑みと、小皿に豆大福が四つ、テーブルに並んだ。
透き通るような餅の表面に、豆がぽつぽつと浮かび、まるで雪の野に黒曜石を散らしたような美しさだ。
かじると、やわらかな抵抗のあと、すぐに蕩けるように緩む。
その間を縫うように、豆のほくりとした粒感と塩気が、じんわりと舌をなでていく。
続いて、甘さを抑えたこしあんが滑るように広がる。
後には、米の香りと豆の微かな塩味だけが、余韻のように口の中に残った。
舞子は、慈しむように豆餅を見ている。
「かわいい……」
小声でそう言いながら、恐るおそる口に運ぶ。やわらかな餅が歯に触れた瞬間、少し目を見開いた。
「……思ってたより、塩っぱいんだ」
そしてすぐに微笑む。
「でも、この塩気があるから甘くないのに、ちゃんと甘い。なんか、優しい」
言いながら、もう一口。咀嚼のたびに表情がやわらいでいく。最後は目を閉じて、ほんの小さく息をついた。
「これ、毎日食べたくなるやつだね」
僕も久しぶりに、なんとも言えない餅の食感を楽しんだ。
煎茶を一口。
塩気と甘さと渋みのハーモニーが口の中に広がる。
「「はぁ~、美味しかった。ごちそうさま!」」
二つずつ食べ終わると、僕達は深い満足とともに後ろに倒れ込んでソファに体を預けた。
窓の向こうから蝉の声が聞こえた。
──重い。
いつの間にか眠っていた僕は、お腹の上のゴローちゃんの重みで目が覚めた。
舞子も横ですうすうと寝息を立てている。
時計を見ると、三時半。
「舞子、ぼちぼち用意しよか」
「う~ん…はーい」
舞子はもそもそと立ち上がった。
「えーっと、もう一回最初っから着るから、三十~四十分くらいかな?」
「うん。それくらいでできると思う」
「ほな…高野にたこ焼きでも買いに行って来ようかな。お昼、大福だけやったらお腹もたへんやろ?」
「たこ焼きは嵐山の屋台で食べるじゃん。それに私、二つも食べたからお腹いっぱいだし。ハルくん、お腹空いたんなら何か食べてきたら?その間に浴衣着とくから」
お言葉に甘えて、ラーメンでも。
毎度のテンイチはさすがに最近続いてるから、久しぶりに白川のますたにへ。
鶏ガラ醤油に背脂ちゃっちゃの九条ネギ、正統なる京都ラーメンは、やっぱり美味かった。
アパートに戻ると舞子は準備万端だった。
豆餅をお渡し用紙袋に入れ替えて車に積み、西へ向かう。
五山の送り火の日に、出町柳なんかにいちゃいけない。
かといって嵐山周辺は交通規制もあり、とても車で近づけない。
嵐山に行くときのいつものパターン、バイト先の裏口の従業員用駐車場に車を停め、北野白梅町から嵐電で向かうのが正解だ。
僕達がホームに着いた時にタイミング良く入ってきた電車は、これまたタイミング良くあのレトロ風車両だった。
深い緑色に木目のあしらい、車内も木の床に鋳鉄風の網棚にオレンジ色のガス燈風照明。
仄かに薄暗い灯りの中で見る浴衣の舞子は、まるで古い小説の挿絵のようだった。
胸の奥の方が、不思議と切なくなる。
いつからだろう。
舞子を見て、こんなふうに言葉に詰まるようになったのは。
「ん?」
僕の視線に気づいた舞子が首を傾げてこちらを見上げた。
大きな目の中に、ガス灯が映り込んで不思議な光を放っていた。
龍安寺、妙心寺、御室仁和寺、とお寺の名前の駅を過ぎ、帷子ノ辻、車折神社と難読地名を経て嵐電嵯峨駅で降りる。
終点の嵐山まではもう一駅あるのと、送り火に灯が入る時間まではまだ三時間近くあるとあって、あたりはまだそれほど混雑していなかった。
住宅地の方へ歩いていくと、やがてあの茅葺きの家が見えてくる。
今日はおじさんは作業はしていなかった。
「こんにちはー。ハルヒトですー!」
奥に向けて大きな声で呼ぶと、すぐにおばちゃんが出てきた。
「あら、ハルヒトくん、舞子ちゃん、どうしはったん?」
「あー、突然ごめん。舞子が自分で浴衣着たんやけど、帯のあたりがこれでええのか見てもらえたらと思て。あ、はいこれ、お土産」
「あらー!ふたばの豆餅やないの!そんなんええのに、おおきにえー」
そう言っておばちゃんは舞子の浴衣の襟元や合わせや裾を軽く触り、後ろに回って帯を点検した。
「いやー、上手に着られてるわ。舞子ちゃん、さすが金沢のお宿仕込みやねえ。直すとこ、あらへんわ」
「よかった。ありがとうございます」
舞子は、きれいに腰を折って頭を下げた。
「あ、急やから何にも用意してへんけど、なんか食べていくか?」
「いや、今日は嵐山の方歩きながらのんびり屋台のもん買食いするわ。ありがとう」
「そうかー、エラい愛想なしでごめんえ」
「また今度ゆっくり来さしてもらうわ。ありがとう」
「ありがとうございました」
お礼を言い、桂川の方へ向かう。
嵐山駅の方に行ってもいいんだけれど、メインストリートは少しずつ混雑が始まっているだろうから、真っ直ぐ南に下りて川沿いに出ることにした。
ここからだと、すぐに桂川だ。
川の方から吹いてくる風が気持ちよかった。
観光バス用の大型駐車場が並ぶ道を渡月橋の方へ。
あの激辛せんべいの店の前を通り過ぎる。
渡月橋につくと、予想を裏切ってまだそれほどの混雑ではなかった。
中洲の嵐山公園には屋台が立ち並んでいる。
灯籠流しの準備が進められているのが見えた。
カランコロンという舞子の下駄の音を聞きながら、手を繋いで屋台を見て回る。
その音が、去年より少しだけ落ち着いて聞こえた。
綿菓子、リンゴ飴、たこ焼き、焼きそば、フランクフルト、いか焼き、鮎の塩焼き。
そんなお馴染みの店に混じって、最近見かけるようになった、お好み焼きを箸に巻き付けた「はしまき」なんてメニューも見える。
僕はアメリカンドッグ、舞子ははしまきを買って、食べながら歩いた。
浴衣を汚さないように、舞子は少し首を傾けて、器用に箸を運んでいる。
ほおずきを売っているお店もあって、アパートの窓際の舞子の朝顔の横に置こうかと思ったが、このあとまだ二~三時間この辺で歩き回った後で、電車で北野白梅町まで持って帰ることを考えると断念した。
時折吹き抜ける川風、ソースの匂い、アセチレンの光。
発電機の低い唸りが地面の石を震わせるたび、夏の気配がゆっくり夜へと色を変えていく。
まだ明るい川辺に、濃密な夏の夜の空気が漂い始めていた。
「あ、中田さんじゃないですか!」
振り向くと、サキチだった。
今日は萌黄色のワンピースだった。
浴衣の舞子と並ぶと、サキチはサキチで、明るい夏の色そのものみたいに見えた。
「わー!サキちゃん!」
「あ、舞子ちゃんも一緒なんだー!」
二人は手を取ってぴょんぴょん跳ねている。
「サキチも来てたんや。あれ?ひとり?」
「昨日から家族でそこの宿に泊まってて、退屈になったから散歩に来たんです。そしたら中田さんいたから。一緒に回りましょ!?」
サキチはそう言って僕の左手に腕を絡めた。
右手は舞子と手をつないでいるからなかなかに歩きにくい。
奇妙な状態で僕達は射的屋やくじ屋や型抜き屋を冷やかし、金魚は持って帰っても飼えないからヨーヨーをすくい、冷たいラムネを飲み、更に僕は焼きそばを食べた。
と、今度は。
「あれ?ハルじゃない!?来てたんだ!」
よく通る甲高い声がした。
この声は…と恐る恐る振り返ると、やはりユリカだった。
あの赤いプレリュードの阪大院だかの彼氏とは違う、大人っぽい男と手を繋いでいる。
ユリカは僕の両横にいる舞子とサキチを見回し
「どうしたの?舞子ちゃんともう一人、ちびっこ増えてるじゃない?ちびっこハーレム?」
といつもの上から目線のセリフを言った。
舞子はユリカを見た瞬間、繋いだ手に少し力を込めた。
けれど、去年みたいに完全に僕の陰へ隠れることはなかった。
反対にサキチは不敵な笑みを浮かべてユリカの前に出て
「はじめまして。中田さんにお世話になってます、紗季子といいます。はじめまして、お・ね・え・さ・ま」
と挑発するように言った。
多分心の中では「おねえさま」ではなく「おばさま」と言っていることが伝わってくる調子だった。
ユリカは一瞬不快そうな表情を見せたが、すぐにいつもの自信満々の顔に戻り
「これ、私の彼氏。京大理学部の院卒で今、社会人一年目」
と、いつものように訊かれてもいない紹介を始めた。
「来年、卒業したら私この人と結婚するの。ね?」
男は誇らしそうな顔でこちらをみながら頷いた。
話を聞くとユリカの新しい彼氏は、僕の内定先の出版社の親会社になる大手インフラ会社の社員らしい。
どうやら、こういういわゆるエリートを捕まえたものだから、僕へのコンタクトがなくなったらしい。
実にユリカらしい。
「そうか、それは良かった。お幸せに。じゃ、失礼します」
と僕は言った。
舞子は僕の横で、きちんと頭を下げた。
サキチは、
「玉の輿、おめでとうございます。お・ね・え・さ・ま」
とまたもや不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「じゃあ、ちびっこハーレム、楽しんでねー」
ユリカは男にしなだれかかるようにして去っていく。
「今の人、中田さんの何なんですか?元カノとか?」
「当たり。元カノや」
「あーやっぱり!なんか当てつけがましいというか、そんな感じしたんですよ。それに…あ!」
サキチは話しながらふと腕時計に目をやって声を上げた。
「すみません、お父さんたちと屋形船に乗ることになってて、時間なんで行かなきゃ」
「屋形船?」
「ほら、渡月橋のあっちにいっぱい岸に待機してるでしょ?五山の日は毎年家族で前の日から嵐山の旅館で一泊して、屋形船で鮎食べながら送り火を見るのが恒例なんですよ」
「じゃ、サキちゃん、楽しかった!また連絡するね!」
「うん!中田さん、舞子ちゃん、ゆっくり楽しんで下さい!じゃあね!」
そう言ってサキチはいそいそと橋の方へ駆けていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「わ、ハルくん、すごい綺麗だよ」
中洲の横では、灯籠流しが始まっていた。
川面はまるで、夜の底から静かに息をしているようだった。
ひとつ、またひとつと放たれた灯籠が、ゆっくりと流れながら、水面に光の帯を描いていく。
風がやむと、川はまるで鏡のように穏やかで、橙の光が水の揺らぎに合わせてたゆたう。
ぼんやりとしたその明かりが、やがて遠ざかるにつれて、いのちの名残のように小さくなり、静かな暗に吸い込まれていった。
「きれい……」
舞子は手を胸の前で組み、灯籠を見つめていた。
その頬を撫でるように、桂川を渡る夜風が吹き抜ける。
線香の煙と、川面から上がる湿り気が混ざり合い、夏の終わりの匂いがした。
ふと、ざわめきがほどけて、誰かが小さく「来た」とつぶやく。
東の空の端、遠い稜線の上に――「大」が滲むように浮かぶ。
ここからは豆粒ほどだが、夜気の揺らぎに合わせて微かに脈打つその赤は、胸の奥にだけははっきり届く。
その炎は、歪みながら現実と幻のあいだを行き来しているようだった。
舞子はそっと僕の腕を掴んだ。
その指先が、少しだけ震えている。
顔を向けるとその瞳は、今にもこぼれそうな光を宿していた。
「……ほんとに、燃えてるんだね」
その声は驚きというより、何か祈るような響きを帯びていた。
彼女の瞳の奥に、あの山の炎が小さく揺れている。
そして、少し間をおいて──
西の山のほうから、歓声が上がった。
曼荼羅山の鳥居形がぱっと灯り、橙の輪郭が闇に立ち上がる。
川面の灯籠の列と炎の舟が重なり、帰るべきところへ帰っていく気配が水の上を静かに進む。
「……わあ……」
舞子が小さく息を漏らす。
その光は、灯籠の光の流れと重なり、
無数の魂が静かに帰っていくように見えた。
その光景を見つめながら、舞子は両の手を合わせ、そっと目を閉じた。
唇が、ほんの少しだけ動く。
誰かの名を呼んだのか、それともただ、ありがとうと呟いたのか。
風が吹き抜け、舞子の浴衣の裾が柔らかく揺れた。
その柄の朝顔が、ゆらめく火の色を映して、
まるで生きているかのように淡く咲いていた。
僕はただ、その横顔を見つめていた。
燃えるような光と、川の冷たい風と、舞子の静かなまなざし。
その全てがひとつに溶け合って、夏の終わりの夜が、静かに続いているような気がした。
去年、送り火を一緒に見られなかったことを、ふと思い出した。
今年は、隣に舞子がいる。
それだけのことが、どうしてこんなに胸の奥を熱くするのか、まだうまく言葉にはできなかった。
京都の夏が、ゆっくりと往く。
川風に、線香の匂いが細く残っていた。




