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第15回 灼熱の牡丹鍋

9号線の市内行きが少し渋滞していたこともあって、堀川あたりまで戻ってきた頃にはもう舞子のバイトの時間ギリギリだった。


「このまま直接バイト先まで車で行って舞子降ろして、その間に実家に道具置きに行ってまた十時頃迎えに行くわ」


「えー、今から滋賀県往復大変じゃない?ハルくんもずっと運転で疲れてるでしょ?」


「ま、んー、大丈夫」


「ねえ、キャンプすごい楽しかったから、秋にまた行こうよ。それまで道具、部屋に置いといたらいいじゃない?」


「それはええけど、場所がなあ」


「今、押入れってどうなってるの?私、もう押入れに住んでないよ?」


あ。

確かにそうだ。


舞子がソファベッドで寝るようになって、押入にはもう『巣』はない。

そのことに今さら気づいた自分が、少しおかしかった。


「テント、スチベル、ダッチオーブン、トライポッド、大物はそのへんか。入るな」


「でしょ?ごめんけど、その片付けとお迎えだけお願いできる?ごめんね」


ということで、烏丸を上って舞子を御池あたりで降ろし、僕は出町柳に戻った。

荷物を下ろす前に、まずはお腹が空いたので…と思ったが、ここで先にご飯を食べると間違いなく片付けが嫌になって車に積んだままにして寝てしまう、と思い直した。


「ふがー!みゃ!みゃ!みゃー!」


ドアを開けると、ゴローちゃんが怒り心頭で出迎える。

出かける前に二日分のカリカリをたっぷりと皿に盛り、水もたっぷり、トイレも普段より二箇所多く設置して砂も掃除していった。

それなのに、どうやら初日に「わーい!カリカリいっぱいー」とばかりに一気に食べ尽くして、今日は何も食べていないのだろう。


「ちょっと待ってな、ゴローちゃん、とりあえずこの荷物下ろしたらあげるから」


そう言ってテントを押入に放り込み、カリカリを入れる。

飛びついたゴローちゃんは満足げに食べ始めた。


その間に残りの荷物も運び、スチベルの中の猪肉と黒ちくわは冷蔵庫に。

一息ついたら、やはり猛烈にお腹が空いてきた。

焼肉とか食べたい気分なんだが、さとのやの"元気コース"は二人から。今日は一人だ。

よし、ハイライトのチキン南蛮定食ダブルだ。

自転車に乗り百万遍を目指す。


夕方の店内は京大生で一杯で賑わっていた。

もも肉二枚分を揚げた上にたっぷりのタルタルソース、大盛りのご飯に赤だし。

相当なボリュームのはずなのだが、今の僕にかかればなんてことはない。

あっという間に平らげてしまった。


お腹が満たされると、急激に睡魔が襲ってきた。

僕はフラフラになりながら何とかアパートまで自転車で戻り、舞子を迎えに行く時間まで目覚ましをかけて寝ることにした。

五秒で落ちた。


目覚ましの音で起きるまで、実際には二時間ほどはあったはずなのだが、体感は十秒くらい、この分なら舞子も、バイトはフラフラだろう。

帰ってすぐに眠らせてやりたいところだが、昨日海に入ってから、二人とも風呂に入っていない。

銭湯は行かねばなるまい。

迎えの車に着替えとお風呂セットを積んで行って直行すればいいのだけれど、さすがに下着とかを触るのははばかられるので、一回帰ってくるしかなさそうだ。



「えー?お風呂ー?帰って寝るー」


車に乗り込んだ舞子は案の定そんなことを言い出した。


「あかんて。昨日も入ってへんし、しかも海の水でベタベタやん。銭湯行くで」


「着替え持ってきてくれたら良かったのに」


「いやいや、舞子の下着とか用意できひんやん?」


「そっかー。じゃ今度から、一回分のお風呂着替えセット、いつもトートバッグにまとめて置いとくことにするよ。」


それはいい案だ。

舞子はもう、「連れて行ってもらう側」じゃなくなってきている。

そんなことを、ふと思った。


とりあえず今日は、一回アパートに戻り、着替えを持って自転車で銭湯に向かった。


今日もジョンとポールの声が、脱衣場の古いスピーカーから流れていた。

やたら疲れた夜に似合いすぎる曲で、湯船に浸かった途端、僕はそのまま眠ってしまいそうになった。


お風呂から帰ってくると舞子は、ソファベッドを広げる間もなくそこに横になって寝てしまった。

僕はブランケットをかけて、自分もベッドに横になった。

またもや五秒で落ちたことは言うまでもない。


◇    ◇    ◇    ◇


翌日、二人とも目が覚めるともう十時だった。

やはり真夏の太陽と、海遊びと、テント泊と、長距離ドライブの疲れは半端じゃない。


「今から野菜買いに行って帰ってきて鍋やと、朝昼兼用やなー」


「そうだねー」


冷蔵庫の猪肉はまだ半解凍状態でかなり固い。

パックのままキッチンに出し、ゴローちゃんに狙われないようにタッパーに入れて蓋をして、イズミヤに買い物に出かけた。

野菜売り場を見ると、やはり白菜は四分の一玉で百二十円。なかなかの値段だ。

仕方ないからかごに入れ、にんじん、えのき、ごぼう、しいたけ。春菊はなかったので水菜も入れる。

ごぼうは何となく笹掻きにして入れたら美味しそうな気がして入れることにした。

あとはニンニクと生姜。


僅かな距離とはいえ、アパートとイズミヤの自転車往復だけでも汗だくになる。


「ねえ、本当に今からやるんだよね?お鍋」


「やるでー。灼熱の牡丹鍋」


「考えただけで汗が増えるー!」


二人でゲラゲラ笑いながらペダルを漕いだ。


部屋はもちろんクーラーをガンガンにかけたまま出かけている。


「ひゃー!!!!」


「生き返るー!!!!」


とりあえず冷蔵庫の麦茶をごくごく飲んで、汗が引いたら準備開始だ。


タッパーの猪肉はいい感じに解凍されている。

土釜での炊飯は舞子に任せて、僕はまずベースになる味噌ベースのスープ作りだ。

昆布を洗って手鍋の水に沈めて十分。

その間に、にんじんは薄切りに、きのこ類は石づきを取ってざっと洗って小分けにする。

ごぼうは笹掻きにして水に晒す。

白菜と白ネギと水菜も洗って適当に切ってバットに入れた。


昆布の鍋に火を点けて、沸騰する前に昆布は取り出す。

火を弱めて鰹節をどっさりと投入し、これもグラグラと沸き立つ前にザルで濾して土鍋に移す。

土鍋を弱火。生姜をすり落とし、次にニンニク。香りが立つまで待つ。

火を止めてからお玉に味噌をのせ、箸先で崩す。白濁がゆっくり広がる。


「舞子、味見ー」


「はーい。わ!何このパンチのあるお味噌汁!」


「な。美味しいけど、なんか力あるよな」


「あーお腹空いてきた!ご飯も、もうちょっとしたら蒸らし上がるし、食べ始めようよ」


「そやな」


ソファの前のローテーブルにカセットコンロを置いて土鍋をセットし、火を点ける。

まず、パックを切って猪肉を半量程度、剥がしながら投入。

続いてきのこも野菜も全部入れる。

一度だけ強火で沸かし、すぐ弱火。あとは任せる。


「はーい。ご飯できたよー」


舞子がお茶碗を置いた。


土鍋の蓋を開ける。

クーラーの冷気の中に、鍋の湯気が立ち上がる。


灼熱の牡丹鍋、開演。


味噌とごぼうと猪肉の、野趣あふれる香りが広がった。


「わー!たまらん!」


「「いただきます!!!」」


お玉でスープと一緒に猪肉と野菜を手元のボウル皿に取り、まずは猪肉から。

箸で掴んで口元に寄せるだけで、何とも美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。

舞子も恐る恐る肉を口に入れた。


「わ!」


「んー!」


なんだこれは!めちゃくちゃ美味い!

猪肉は固くて臭いなんて聞いたことがあるが、それは真っ赤な嘘だ。

しっかりとした歯ごたえと溶けるような柔らかさが同居し、歯を押し返しながらほどけていく。

独特の野趣は、こういうのは「臭い」というのではなく「香り高い」と言って欲しい。

変な猪肉を変な調理で食べた先人には同情するばかりだ。


柔らかい。旨味が濃い。溶ける。――豚じゃない、猪だ。

特に、真っ白な脂の部分の甘さときたら、どんな上等な豚シャブのお肉でも届かない。

というか、別物だ。


その猪肉の味を吸った他の具材も言わずもがな、スーパーで買っただけの野菜もきのこも、自身の味に猪の旨味をプラスして、極上の濃い味になっている。

ニンニクと生姜の入った力強い味噌のスープがその味を後押しする。

予想通りごぼうの笹掻きもその力強い味を更に強化していた。


「うんま!」


「なにこれ!?なにこれ!?」


鍋とご飯が止まらない。

二杯目の牡丹鍋には、七味を軽く振る。

これまた香りが広がった。


「この前の七味屋さんで、買っておけばよかったねー」


という舞子の言葉、たしかにそうかも知れない。

でも、このスーパーの七味でも、この鍋にかかったらランクが上ったような気すらした。


途中からほぼ無言でほっぺたを膨らませて食べ続けた僕達の前に、用意した猪肉もきのこも野菜もあっという間に空になった。


「さて、ほな、締めいこうか」


そう言って僕は冷蔵庫から卵を持ってきた。


「雑炊!?雑炊するの!?」


舞子の大きな目がキラキラと輝く。


「まあ待て待て。この前テレビで丹波篠山の牡丹鍋屋さん紹介してて、そこでやってた食べ方を試してみるから」


僕はそう言って火を強めて、土鍋に残ったスープを一旦ぐつぐつと沸かしたあと、火を弱めて卵を二つ割り入れて蓋をした。

舞子がワクワクした顔で手元を見つめている。

待つことしばし、再び蓋を取ると、ほわぁと舞い上がった湯気の下に、ふるふると固まった白身をまとった卵の姿があった。


「舞子、ご飯お願い」


「はーい」


「えっとな、このご飯の上に、お玉で卵をスープと一緒にすくってかけるねん。スープは後からもう一杯入れてじゃぶじゃぶにする」


言われた通りに舞子がお茶碗のご飯にとスープをかける。


「そしたら、そこに七味ちょっとかけて、食べる!」


お茶碗には鍋に少し残ったお肉や野菜やきのこの切れ端と一緒に、スープに浸かった半熟卵と白いご飯。

ふるふるの白身が箸に触れ、そっと割れた。黄身が、熱い出汁にほどける音がした。

行儀悪くお茶碗ごと口に運んで掻き込むと、ここまで食べてきた牡丹鍋の全ての旨味が再結集して、更に卵という援軍を得て一気呵成に攻めてきた。

まるで、最終回でそれまで出てきたライバルたちが一致団結して味方になって巨大な敵に攻め込むシーンのようだ。


「!!!」


舞子はもはや何も言葉にならない。

お茶碗の端に口をつけ、ひたすら掻き込んでは咀嚼し、飲み下し、また掻き込み、を繰り返していた。

もちろん僕も。


「は~こんな豪華な卵かけご飯、初めてだよー」


食べ終わった舞子が言う。

僕もこんなの初めてだ。


「せやなー。牡丹鍋、最初っから最後まですごかった!」


猪肉、恐るべし。

そしてクーラーの効いた部屋で、真夏の灼熱鍋、最高だ。


「「ごちそうさま!!」」


手を合わせると二人でそのまま後ろに倒れ込んだ。


「…ハルくん、後片付けしないと…」


「うん…分かってる…分かってるねんけどな…」


「ハル……くん……あと……かた……」



──にゃー!!!!


耳元で響いた、腹を空かせたゴローちゃんの怒りの声で叩き起こされた時、時計はもう夕方近くになっていた。

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