第14回 天橋立、夏三昧
朝からテントを撤収すると、僕達は車を駐車スペースに移動して天橋立の方に歩いた。
「テント、広くて快適だったねー」
「うん。しかも建てるのも片付けるのもすごい簡単やった。さすが山用やな」
「そうだね。タツヤさんたちのテント、片付けるの大変そうだったもんね。」
「それにあの、朝ごはんのホットドッグも美味かった」
「うん。あんな風に作れるんだね」
叔父さんが教えてくれたキャンプにピッタリのホットドッグの作り方はシンプルだった。
買ってきたコッペパンに切れ目を入れて、そこにウィンナーを挟む。もちろんシャウエッセンだ。
そしたらそれをアルミホイルで包んで、乾かして持ってきた牛乳パックの中に入れて端から火を付ける。
牛乳パックは内側が防水のためにコーティングされていて、これがジワジワと消えず燃え上がらずいい具合で燃え続けるのだ。
パックが全部燃え尽きたら、アルミホイルを剥がせばパンはこんがりふんわりと焼けて、ウィンナーもパリッとジューシーに火が通っている。
ケチャップとイエローマスタードをかけたら、美味しいホットドッグの出来上がりだ。
朝から淹れたコーヒーと一緒に食べれば、完璧な朝食だった。
またもや野菜がない気はするけれど。
天橋立のメイン通りは、まだ人はまばらだった。
廻旋橋がゆっくりと回るのを待って、昨日遊んだ海水浴場のある方へ歩いていく。
橋から左手に、「観光船乗り場」という看板が見えた。
「ねハルくん、観光船だって。後で乗ってみる?」
「う~ん…とりあえず歩いて向こうまで行ってみよう?」
「分かったー」
そう言って松林の中を歩き出した僕の判断は甘かった。
松の根を踏むたびに砂が鳴った。
風の向きで潮の匂いが変わる。
自然にできた砂州だし、地図とかでみるとほんのちょっと歩いたら向こうまで行けそうな気がしたのだが、歩けども歩けども先が見えない。
朝とはいえ真夏の太陽はすでにジリジリと照りつけ、汗が吹き出す。
「ここって天橋立全体のどれくらいの地点になりますか?」
向かいから歩いてきた老夫婦に尋ねると
「この辺でだいたい半分くらいやねー」
という返事が返ってきた。
まだ半分…御夫婦にお礼を言って舞子と顔を見合わせた。
舞子が松の根に腰を下ろして、額の汗を拭った。
波は穏やかで、セミだけが鳴いている。
「戻ろっか」
舞子はそう言って立ち上がると、Tシャツの裾で額の汗を拭った。
少し前までなら、
「もう歩けない~」
とか、
「おんぶー」
とか言っていた気がする。
けれど今の舞子は、文句も言わずに自分の足で歩いていた。
僕たちは松の影を抜けて、いま来た方へ歩き出した。
見上げると、松の葉の間から真っ白な雲が流れていた。
──「ふう、やっと戻ってきた」
僕達はとりあえずクーラーの効いた土産物屋さんに避難した。
黒ちくわをはじめとした海産物の加工品、黒豆せんべい、丹後ちりめんのタオル、「天橋立」と書かれたお決まりの提灯やペナント。
見るともなく見ていると、ふと壁の観光ポスターが目に入った。
「伊根の舟屋」「伊根湾めぐり遊覧船」
そう描かれたポスターには、民家の一階がそのまま船着き場になっている集落の写真があった。
「あ、あれ、テレビで見たことある!一度行ってみたかったんだ!」
舞子が言った。
僕も写真だけは見たことがある風景だった。
「あの、伊根湾めぐり遊覧船ってこの近くですか?」
レジに黒ちくわを出しながらお店の人に尋ねる。
「湾沿いに、車で三十分くらいですかねえ。お車ですか?」
「はい。キャンプ場の駐車場が夕方まで停めててもええいう事やったんで、そこに停めてます。」
「そしたら、もし行かはるんやったら、先にこの辺で智恵の餅でも食べて、そこのリフトでビューランド上って股のぞきでもしはってから、最後に車で行かはるんがええんとちゃいますかねー」
股のぞき。聞いたことがある。
山の上で股の間から覗くように天橋立を見ると、まるで龍が宙を舞っているように見えるのだと。
お店の人にお礼を言って、教えてもらった智恵の餅の店へ。
「三人寄れば文殊の智恵」
という言葉は、この天橋立にある知恩寺の文殊菩薩に由来があるらしく、「文殊の智恵」にちなんで、食べると智恵を授かると伝えられるのがこの智恵の餅だという。
「奥へどうぞ」と案内され、暖簾をくぐるとそこには表からは分からなかった広い客席があった。
智恵の餅と抹茶のセットを頼む。
ほどなく出てきた智恵の餅は、まん丸でころころと可愛く、こし餡とつぶ餡を混ぜたような餡の衣をまとっていた。
伊勢の赤福に似ているが、赤福よりも小ぶりで、口に入れると小豆の風味がしっかりと感じられる。
「あ、美味しい。」
舞子が顔をほころばせながら言った。
「甘さ控え目でそれがええな」
一つ食べて抹茶を一口。
甘くなった口の中が、爽やかな苦味でリセットされる。
「なんだか口の中が涼しくなるようなあんこだね」
舞子の言う通り、しっかりとした豆の味がするのに後口にベタベタと残らないのは、抹茶の効果だけではない気がする。
三つ乗った智恵の餅は、あっという間になくなった。
残りの抹茶を飲み干し、お勘定をして店の外へ。
案内板を見つけて確認すると、ビューランドに上がるリフトの乗り口は、ここから歩いて三百メートルほど。五分もかからない距離だ。
さっき買った黒ちくわの袋を車のスチベルに入れてこようかとも思ったのだが、この距離なら持ってリフトに乗ったほうが良さそうだ。
夏休みとはいえ、月曜日の朝のリフト乗り場は空いていた。
「わーい。高ーい!」
賤ヶ岳の古戦場以来のリフトに舞子は大はしゃぎだ。
けれど、はしゃぎ方が少し違っていた。
前みたいに子どもみたいに腕を振り回すんじゃなくて、
ちゃんと景色を見て、
ちゃんと感動している。
それがなんだか少しだけ、
僕を落ち着かなくさせた。
片道六分、結構な距離と高低差を登り切ると山上には小さな遊園地があった。
家族連れの子どもたちが歓声を上げている。
「観覧車だー!」
走り出そうとする舞子の手を繋ぎ止め、目的の股のぞき台へ。
「飛龍観」と書かれた看板の横の手すり付きの台に二人で上がり、足を広げて頭を下げる。
「わーすごい!」
「へー!綺麗やなー」
股の間から覗いた天橋立は確かに海ではなく空にかかっているように見えて、天に舞い上がる龍に
──見ようと思えば見えないこともない。
まあそれはそれとして、絶景であることに間違いはなかった。
二人同時に頭を上げる。
売店のソフトクリームの模型看板が目に入り、列に並んだ。
「バニラ二つ下さい」
山上は多少涼しいが、それでも八月、かなり暑くてソフトクリームの冷たさが心地よかった。
「観覧車乗ろうよー」
「いや、夏の観覧車の箱の中は灼熱地獄やろ…」
「あー、確かにそうだね。じゃ、あれ乗る!あれなら涼しいでしょ?」
舞子の指さした先を見ると、空中に張り巡らされたレールの上を、ペダルを漕いで渡っている親子が見えた。
乗り場を探し、チケットを買って順番に並ぶ。
僕達の番はすぐに回ってきた。
サイクルカーのレールの上は舞子の言う通り風が吹き抜けて気持ちがいい。
それに何より、眼下に広がる風景が素晴らしかった。
真っ青な海と真っ青な空と、一本まっすぐに走る天橋立。
空に舞い上がっていなくても、それだけで充分神秘的で美しい。
根本の海水浴場の砂浜に並んだパラソルがミニチュアみたいだった。
ペダルを漕ぐと、ふと意識からレールが消えて、まるで空中を二人で散歩しているみたいだった。
隣で風に髪を揺らしている舞子は、
もう最初に信州で出会った頃の、
小さな迷子みたいな女の子ではない気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
「綺麗だったねー」
そう言いながら車を停めたキャンプ場に向かう。
次は車で北へ移動して伊根湾めぐりの遊覧船だ。
キャンプ場の入口にある管理棟のプレハブのところで、入った時には気付かなかった手描きの看板が目に入った。
【猪肉あります。三百グラム:千円】
プレハブの前のパイプ椅子に座った麦わら帽子にサングラスのおっさんに尋ねると、
おっさんは猟師が本業で、禁漁期の夏はここでキャンプ場をやっているという。
冬に撃って冷凍した猪肉を、キャンプ場にきた客には格安で分けているのだと。
確かに、猪肉なんて珍しい肉なのに、百グラムあたり三百円ちょっとは格安だ。
牛肉より安い。
「どうやって食べるのが美味しいですか?」
と訊くと、
「まあ、夏やから焼肉みたいにして食べてもええけど、やっぱり一番美味いのは鍋やな。味噌にちょっとだけニンニクと生姜すり下ろして鍋にしたら最高や。猪肉は豚と違ごて、炊けば炊くほど柔らこうなって最高やで、お兄さん」
と答えてくれた。
「鍋…ええな、舞子。部屋でクーラー効かせてやったら楽しいかも」
「うん。でも、白菜どうしよう?商店街の八百屋さんにはこの季節置いてないし、この前イズミヤで見かけたのは四分の一に切ったやつで百円越えてたよ?」
「う~ん…ほな水菜でええかな…いや!やっぱり鍋は白菜や!この前買うた美味しい味噌もまだあるし、ここは白菜いっとこ」
「そうだね。分かった。じゃあ明日の朝から買い物行ってお昼だね」
話はまとまった。
「すみません、三百グラム下さい」
「はいおおきに。お兄さんら、若いのにご夫婦?」
おっさんは余計なことを言いながら奥の冷凍庫からカチカチに凍った猪肉のパックを渡してくれた。
車に戻ってスチベルを開けると、昨日買った氷がまだ解けずに残っている。
猪肉自体も凍っているからここに入れておいたら今から一日経っても全然問題はなさそうだ。
袋の黒ちくわも一緒に入れて車に乗り込み、伊根に向かって出発した。
宮津湾沿いに車を走らせる。
右側は天橋立で切り取られた阿蘇海だ。
178号線を北上し、三十分も走ると、右手に【伊根湾めぐり遊覧船】という看板が見えてきた。
駐車場に車を停め、案内所らしきところに向かう。
観光バスから降りてきた団体客が、白い遊覧船の前で写真を撮っている。
船体には「丹後海陸交通」の青いロゴ。派手な飾りは何もない。
風に乗って、軽油の甘い匂いと、船底を叩く波の音が混じって流れてきた。
チケットを買う。
次の出港は十分後だった。
案内された列に並ぶとすぐに鎖が外され乗船になった。
船はゆっくりと離岸した。
デッキの欄干にもたれると、背中に陽があたって温かい。
乗り場が少しずつ遠ざかり、海上を横切っていく。
波間にカモメが一羽、浮かんでは沈んだ。
少し沖へ出ると、風が変わった。
海は群青に深まり、船は北へ向かって進む。
舳先から霧のような飛沫がかかり、舞子の髪が頬に貼りついた。
その頬をぬぐいながら、彼女は言った。
「こんな海の色、京都にもあるんだね」
舞子は欄干に手を置いたまま、
しばらく海を見ていた。
その横顔が妙に大人びて見えて、
僕はなんとなく視線を逸らした。
やがて、伊根の舟屋の集落が見えてくる。
ぐるりと半円を描いた入江の奥に、木造の家々が海面に突き出して並んでいる。
二階建ての下がそのまま船着き場になっていて、
戸口の向こうに小舟の船首が覗いていた。
「ほんとに、家の下に船があるんだね……」
舞子の声が、潮風にかき消される。
船は速度を落とし、ゆっくりと湾の中を回る。
どの家の軒先にも、網や浮き玉が吊るされていて、
洗濯物が風にそよいでいた。
海は驚くほど静かで、舟屋の影がそのまま水面に映っている。
船内アナウンスが流れる。
「こちらは伊根の舟屋でございます。およそ二百三十軒、江戸時代から続く漁師町の風景で――」
観光案内の声を聞き流しながら、僕は欄干に肘をついた。
時代を越えて脈々と息づく生活の風景。
午後になったばかりの光の中、舟屋の屋根がきらりと光った。
舞子は珍しく何も喋らなかった。
ただ静かに海を見ている。
その横顔を見ながら、
僕はふと、
この時間がずっと続けばいいのに、と思ってしまった。
それは景色のせいだったのか、
それとも隣にいるのが舞子だからだったのか、
自分でもまだよく分からなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「なんだか神秘的やったな」
「そうだね。なんだか違う時間が流れてるみたいだったね」
しかし、僕達のこの時間は普通に現実的な時間が流れていて、今はもう午後一時だった。
そろそろお昼を食べて京都に向かわないと舞子のバイトの時間がある。
「お腹すいたな。何食べよ?」
「あ、ハルくん、さっき宮津の駅前通った時に、『海鮮天丼』って看板あって気になってたんだけど、そこ行ってみない?」
ということで、宮津の駅前に戻る。
「あ、あそこあそこ」
店の前の道路脇に車を停めて入口横に出でているメニューを見ると、観光地にも関わらずどれも普段遣いの値段だった。
お昼を少し過ぎていたので席は空いていた。
湯呑みで冷たいお茶を持ってきてくれた店員さんに、すぐに海鮮天丼二つと注文する。
迷う余地はなかった。
「楽しみー」
「どんなんやろな?」
やがて、店の奥から、油の香ばしい匂いとともに湯気が流れてきた。
店員さんが木の盆を手にして現れる。
黒い漆塗りの丼の上には、少し艶のある蓋が乗っている。
「お待たせしました、海鮮天丼です。」
目の前に置かれた瞬間、湯気が蓋の縁からふっと漏れた。
手のひらでその温もりを感じながら、ゆっくりと蓋を持ち上げる。
──ふわり、と甘辛いタレの匂いが立ちのぼった。
揚げたての衣がまだ呼吸しているように、
カリ、と小さく音を立てながら湯気をまとっている。
大ぶりのキスが丼の中央で身を反らせ、
その下に、透き通るような地エビ、金色に光るアジの開き、
そしてイカの白が柔らかく並ぶ。
端にはナスとシシトウが添えられ、
焦げた衣に染みたタレが、つやつやと光っている。
箸を入れると、衣がかすかに音を立てて割れ、
下から白いごはんが顔をのぞかせた。
タレがしみて、米が飴色になっている。
「「いただきます!」」
ひと口目、箸で持ち上げたキスの天ぷらが、まだわずかに湯気を立てていた。
衣の表面は軽く、指先で触れればカサ、と音がする。
かぶりつくと、衣が小さく弾け、内側から熱い油の香りと白身の甘さが立ちのぼった。
ほろりとほどける身が、タレの甘辛をやわらかく吸って、舌の上で消えていく。
二口目はアジ。少し厚みのある身を噛むと、ほのかな脂がじんわりと広がる。
潮の匂いに似た塩気が舌をくすぐり、噛むほどに衣の香ばしさと混じり合った。
「うわ、これ……海の味がする」
舞子は口を押さえて、小さくつぶやいた。
イカは歯を入れるとぷつりと切れて、次の瞬間、やわらかな甘みが舌に残る。
噛むたびに、衣のカリッという音がかすかに耳に届いた。
その音が、どこかで寄せては返す波の音に似ていた。
箸の先でエビをつまみ上げる。
地の小エビは姿のまま揚げられ、殻の香ばしさがそのまま香りになる。
舞子が箸でエビの尻尾をつまんで「これ、カリカリでお菓子みたい」と笑った。
噛めば頭の中にまで広がるような旨み。
丼の底のごはんには、タレがしみて艶めいている。
ひと粒ひと粒が、甘い魚の出汁のような香りを含んでいた。
「「はあ、ごちそうさま」」
僕と舞子は小さなため息をつくように、箸を置いた。
「この匂い、なんか潮風と同じやな」
窓の外では、真夏の阿蘇海が光っている。
丼の湯気と、遠くから吹き込む風が、同じ匂いをしていた。
舞子は満足そうにお茶を飲みながら、
「今日、すごく楽しかったね」
と言った。
その笑顔を見て、
僕はまた少しだけ困った。
最近、舞子が綺麗になっていく。
その変化を、
僕だけがまだちゃんと認められていない気がした。




