第13回 ビッグ・ウェンズデーとタリアータ
真夏とはいえ、やはり日本海の波は荒かった。
一メートルほどの高さの波が打ち寄せていた。
昼食のバーベキューの後、タツヤたちはテントを撤収して車に積み込むと水着に着替えて夕方まで海で遊ぶという。
僕と舞子は今日が泊まりだから、勿論ハナからそのつもりだった。
工事現場みたいなプレハブの灼熱更衣室で水着に着替えて出てきた女性陣は実に華やかだった。
蛍光色のビキニ、セパレート、ワンピース、みんな岡本夏生みたいな切れ込むハイレグで、目のやり場にちょっと困る。
「わ。タカさんの彼女さん、めちゃくちゃグラビアモデルみたいですね!」
サキチが思わず叫んだくらい、ビキニのミナコのスタイルは圧巻で、本当にFineの誌面から杉本彩が出てきたみたいだった。
そういうサキチは、上は青白ボーダーのビキニに、下はデニムショートパンツみたいなスタイル。
一緒に出てきた舞子は、今年はちょっとだけお腹を出したピンクのセパレート水着だった。
二人とも小さいものだから、僕の両側に並んで歩くと、なんだか幼稚園のプールの時間の引率の先生みたいな気分になる。
「ハルヒトー。両手に花、というかお父さんみたいやなー」
タツヤがからかう。
空は青く突き抜け、太陽はギラギラと照りつけ、真っ白な砂浜に続く碧い水平線の向こうの入道雲はこれまた眩しいほどに白く、青と白のコントラストの中を色とりどりの浮き輪を持ってビーチまで移動した。
なんとか場所を見つけてレジャーシートを敷き、四隅に荷物を置く。
ヒロくんがパラソルをレンタルしてきた。
マサキのラジカセのラジオからは、プリプリの夏の曲が流れていた。
「ほら、舞子」
波打ち際から少し海に入ると、舞子の肩くらいまで来る波が打ち寄せて流されていきそうだったので、僕は手を差し出して舞子の手を握った。
「私も~!」
サキチも付いてきて手を差し出す。
本当にお父さんみたいだな、と思いながら二人の手を引いて僕は歩いた。
ビーチは結構な遠浅だったが、進むにつれて波の高低差が激しくなっていって、背の低い二人はアップアップして進めなくなる。
「これはあかん。一回ビーチ戻ってなんか浮くもん持ってこんと」
そう言って浜に戻ると、タツヤが見慣れないものを持ってニコニコしていた。
「なにそれ?」
「そこの海の家でレンタルしてた。『ブギーボード』って書いてたんやけど」
「なんかでっかいビート板みたいやな。なにするもんなん?」
「店の人に聞いたら、寝そべってサーフィンみたいに遊ぶらしい」
「へー。面白そうやん。僕も借りてこよ!」
海の家から戻ってくると、舞子とサキチが浮き輪でぷかぷか浮いているのが見えた。
タカトモやミナコをはじめのみんなは少し深いところに浮かべられた浮島の上にいるのが見える。
マサキが地元の小学生らしい男の子をからかって遊んでいる。
僕は待っていたタツヤと一緒に、ボードを持って海に走り出した。
「ヒャッハー!」
去年の琵琶湖のウィンド対決を思い出す。
波打ち際まで走るとボードの上に体が乗るようにダイブする。
瞬間、ボードが波を捉え滑るように…あれ?
──進まない。
イメージとしては、腹ばいではあるが、ビデオで見たことのあるグレート・バリア・リーフのサーファーのように華麗に波の上を縫って滑っていくはずなのに、その場でびったんと止まっただけだった。
「なんか違うな」
「おう。ウィンドと違ごて、波打ち際からやとスタートでけへんな」
「どうしたらええんやろ?風やなくて、岸に打ち寄せてくる波に乗らなあかんねんから…もしかして沖スタート?」
「あ。そういえば、前観た『ビッグ・ウェンズデー』で、最初はみんなでボードに腹ばいになって沖に向かって手で漕いでたわ」
「やってみよか」
今度は足が着くところまではボードを持って歩いていき、そこから上に乗って手をクロールする。
「中田さーん!西村さーん!」
「ハルくーん!」
手を振るサキチと舞子に手を振り返して、もっと沖へ。
「このへんかな」
そう言って岸の方に向き直して後ろから来る波を見て、波のピークが来るタイミングで乗ってみる。
が、波は僕達を越えていくだけで、その場から動かない。
十回以上それを繰り返した頃、ふとタツヤが
「おー!」
と声を上げた。
タツヤが波に運ばれて行くのが見えた。
でも少し進んだあたりでまた波頭において行かれる。
「ちょっと分かったかも」
僕のところまで腹ばいクロールで戻りながらタツヤが言う。
「これな、波来てからやったら遅いんやわ。波の一番高いトコが来るちょっと前で、バタ足で前に進むねん。そしたら、フワーって浮いて波に乗れるわ」
そこから何十回繰り返しただろうか。
何回もすかされ、やっと少し進んでは止まり、を繰り返していく内に段々とコツが分かってきた。
やがて──
「ヒャッハー!!!!」
大きな波を上手く捉えることができた僕は、そのまま一気に岸まで波に乗ってたどり着くことに成功した。
「気持ちえー!!!!」
「くそ!俺も!お!いけたー!!!!」
二人とも完全に掴んだ。
もうそこからはエンドレス。
岸まで滑っては沖に戻り、また岸まで。
何度繰り返しただろうか。
気がつくと夏の太陽は少しずつ傾き、ビーチから帰り支度を始める人が目立ち始める頃まで僕達は波に乗り続けていた。
初めて二人でウィンドサーフィンに立つことができた日と同じだった。
「おーい!そろそろ上がろうかー!?」
タカトモの声がした。
板を持ってみんなのところに行く。
「お前ら、熱中しすぎやろ」
「そろそろ俺らは帰らんと」
みんな日に灼け、真っ黒になっている。
女の子たちの濡れた髪が夕方の太陽にキラキラと輝いていた。
「ほな、一回みんな見送りに行くわ。僕らは今日が泊まりやし」
僕と舞子以外は皆荷物をまとめ、キャンプ場の駐車場の方へ。
「ごめん、舞子ほったらかしで」
「ううん。サキちゃん、すっごい面白くてずっと遊んでたし」
「ユリカみたいに、仲いいふりして意地悪してきたりしなかった?」
「大丈夫。サキちゃん、ほんとにいい子だよー」
それは良かった。
晩ご飯の支度の話をしながら駐車場に着いた。
「何この車?」
マサトが鍵を開けて皆が荷物を入れ始めた車をみて僕は絶句した。
「すごいやろこれ?迎えに来てくれた時俺もビビったわ!」
マサキが言う。
「マサトが新しい大きい車買ったから乗っていきますか?って言ってくれてな。朝早くからみんなの家回って迎えに来てくれたねん」
それはいい。
件のマサトの車は、こんなのどこで売ってたんだ?というシロモノだった。
小豆色とベージュのツートンに塗られた、丸い鼻先のエンジンフード。
古い日本映画に出てくるボンネットバスを、そのまま小さくしたような姿だった。
運転席側のドアとは別に助手席側と後部座席の共用で立ったまま乗り込める大きな折りたたみドアが付いている。
後部座席は、電車のシートみたいな長いベンチで、進行方向に対して横向きに並んで座れる形式だ。
最後部のハッチの前に広い荷物スペースがあって、レンタルしてきたという十人用テントを積んでもたっぷりと余裕があった。
「どうしたんこれ?どこで買うたん?」
「払い下げ品ですわ。ええでしょ?」
マサトが満面の笑みとともに指さしたフロントフェンダーには、何やら漢字の上からボディカラーのペンキで塗りつぶした跡がある。
『陸上自衛隊第3師団 今津駐屯地』という文字がうっすらと、いや、はっきりと透けていた。
「ほなな!」
「ハルヒト!またバンドの件連絡するわ!」
「ばいばーい!」
みんな口々にそう言って、慣れた様子で行軍兵士になって車に乗り込んでいく。
「あれ?サキちゃんは乗らないの?」
舞子の声に振り向くと、サキチとメグミちゃんは車に乗っていない。
とそこへ、黒塗りの大きなセダンがやってきた。
クジラみたいなその車はサキチたちの前で停まり、運転席からスーツの紳士が降りてきて後ろの席のドアを開ける。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
二人はそう言ってクジラに乗り込みかけてもう一度戻ってきて
「それじゃ皆さん、キャンプめっちゃ楽しかったです!ありがとうございました!」
「またバイトでよろしくお願いしますね~!では、ごきげんよう!中田さん舞子ちゃん、楽しんでね!」
と皆に挨拶して再び車に乗り込んだ。
クジラは音もなく駐車場を滑り出していく。
僕と舞子が呆気にとられていると、タツヤが
「来るときもあれで来たねん。あいつ、ナニモンや?」
という。
「そういえば前にお父さんの会社がどうとか言うてたわ」
「お嬢か…まあええわ。ほなハルヒト、舞子ちゃん、楽しんでな!」
「ありがとう!」
「ありがとうございます!」
バタンと大きな音でドアが閉まり、大げさなセルモーターの音の後で「バフン!」と大きな音がしてエンジンが掛かった。ディーゼルエンジンの音と匂い、マフラーからは黒煙。
「じゃ!」
そういって出発したマサトの従軍トラックは、さっきのクジラの20倍くらいの音を立てて走り去った。
◇ ◇ ◇ ◇
すっかり人気のなくなったビーチでは、子どもたちが石を投げて水切りの回数を競っている。
昼間の喧騒は嘘のように静まり、夕方の凪で穏やかになった波の音だけが静かに繰り返していた。
海と空の境界がオレンジ色に曖昧になり、上下に向けて紺色に溶けていく。
そのグラデーションの移りゆくさまを眺めながら、僕と舞子は砂の上に座っていた。
「そろそろテント戻る?」
「もうちょっと」
真夏の太陽の光の最後の一滴まで逃さないように、僕達は黙って座っていた。
──「さ、ごはん作ろう!お腹ペコペコ!」
舞子はそう言って立ち上がり、砂を払った。
テントに戻ると、かまどを埋め戻されることもなく、キャンプ場はすっかりがらんとしていた。
僕は自分のテントの横に車を持ってきてダッチオーブンやなんやの道具を下ろす。
舞子は折りたたみテーブルを広げて、テキパキと晩ご飯の用意をはじめた。
かまどに薪を並べて火をつけ、炎の中に木炭を入れて白くなるのを待つ
上に網を載せ、その間の火を使って舞子は飯盒でご飯を炊き始めた。
あたりはすっかり薄暗くなっていた。
「舞子舞子、ジャン!」
僕はそう言って、先週こっそり手に入れたお宝を取り出した。
「え!?なにそれ?かっこいい!」
「ガソリンランタン!コールマンの286A!前に叔父さんのお土産のアメリカの雑誌で見てカッコええなあ思ってたん、好日山荘にあったから買ってもうた!」
「どうやって使うの?」
「ちゃんと調べてあるで。」
まず、上のネジを回してベンチレーターを取り、ガラスのホヤも外す。
マントルをセットして糸を縛り、ライターの火を点けて空焼きする。
全体が白い灰みたいになる。でも、丸い形は保たれたままだ。
そうしたら下部のフュールキャップを開けてホワイトガソリンを漏斗で注ぐ。
このとき、満タンにしてはだめだ。上部に二割くらいの空気を残す。
キャップを締め、火力ノブが閉まっていることを確認したらポンププランジャーをピストンして中の空気を圧縮する。
二十回ほどポンピングしたら、今度は縦に走っている金属のジェネレーターをバーナーで炙る。
充分に予熱したらノブを開く。
一瞬ぼっと炎が上がるがすぐに落ち着いて、マントルが白く輝き出した。
最後にホヤとベンチレーターを戻してネジを締めたら着火完了だ。
「わー。すごい明るいねー」
「すごいな。ほんでこの、シュコー!いう音がたまらんな」
オレンジ色の光の中に、日焼けした舞子の顔が輝いている。
僕は一瞬ドキッとしたが何気ないフリで
「ほな、炭火がそろそろええ感じやからダッチオーブンセットするな」
そう言ってかまどの周りにトライポッドを立ててダッチオーブンを吊るした。
飯盒はすでに蒸らし状態だ。
スチベルからお肉を取り出した。
言われたように二日前から冷蔵庫で解凍し、昨日の夜から塩胡椒とハーブで漬け込んだイチボのブロック。
教えてもらったとおりにまず周囲を焼き付け、網に載せて蓋をして上に炭を並べる。
上が七、下が三。
密閉されているダッチオーブンの蓋の僅かな隙間から漏れ出る湯気の匂いがもうたまらない。
──ぐぅ
二人同時にお腹がなって、顔を見合わせて笑った。
頃合いを見て蓋を開け、肉にナイフを突き刺す。
抜いて唇に当てると、ほんのりと温かく、多分いい感じだと思う。
こんがりとたまらない匂いを出しているお肉を取り出し、しばらくアルミホイルで包んで休ませてからスライスする。
ランタンを近づけて確認すると、よし!ちゃんとマットなピンク色。成功だ!
あとは飯盒からご飯をよそい、肉を並べ、中央に卵黄を落とし…
「あ!」
「どうしたの?」
「エバラ焼肉のタレ!ヒロくんが持って帰った!」
「あはははは。本当に好きなんだね、ヒロさん」
「笑い事ちゃう。どうしよ?」
「大丈夫。実はね、焼肉のたれのローストビーフ丼、すごい美味しかったけど、ちょっと私には味が強すぎたんだ。タレかけすぎたのかもだけど。それでね、バイト先のシェフに叔父さんが言ってたこと伝えてみたの」
「え?バルサミコとかパルミジャーノとか、呪文みたいなやつ?」
「そうそう。そしたらね、シェフが『ああ、それはタリアータやね。イタリアの』って教えてくれて」
「それで?」
「私、お店ですっごい気に入られてるみたいでね、シェフがなんとそのタリアータ用のソース作ってくれて、あとそのパルミジャーノっていうチーズも削ってタッパーに持たせてくれて。『あとは、このベビーリーフ並べてその上にお肉並べなさい』って、なんかおしゃれな葉っぱもくれたんだよ」
「え!すごい!」
ということで、舞子が用意してくれていた大きめのお皿にベビーリーフってやつを敷き詰め、スライスした肉を並べ、ブラックペッパーとパルミジャーノチーズを振りかける。
「わ!おしゃれー!」
「ハルくんの就職先の雑誌の写真みたいだね!」
「でもこれで食べるの、ご飯か?パンちゃうん?」
「まあそのへんはいいの!日本人なんだから!」
そう言って舞子が小さい紙皿にご飯をよそってくれた。
では。
「「いただきます!」」
舞子がソースをまわしかけ終えると、闇に溶けかけていた焚き火の赤がまたひときわ強くなった。
ふわりと甘酸っぱい香りが立ち上がる。焦げたハーブと肉の脂、そしてバルサミコの酸味が混ざりあって、夜の海辺の空気をやわらかく包みこんだ。
「これ、ホンマに僕らが作ったんか……?」
思わず息をのむ。焚き火とランタンの炎がタリアータの表面で反射して、油の粒が小さく光る。舞子がチーズをもう少し削り足しながら笑った。
「すごいよね。ほら、食べてみて」
フォークで薄切りの肉をすくい、バルサミコのソースを少し絡めて口に運ぶ。
──うまい。
炭の香りをまとったイチボの柔らかさと、ソースの酸味が見事に合っている。噛むたびに旨味が滲み出して、最後にほんのりと甘い余韻が残る。
「これ……肉丼の世界じゃないな」
「でしょ? ここだけイタリアだよ」
舞子がいたずらっぽく笑う。紙皿に盛られたご飯に肉をのせてみると、意外にもそれがまた合う。バルサミコの酸味がご飯の甘みを引き立て、口の中が幸せでいっぱいになる。
「ヒロくんがこれ食べたら、びっくりするやろな」
「うん、タレどころじゃないもんね」
ふたりで顔を見合わせて笑う。風が海を抜け、焚き火の火の粉が小さく舞い上がる。遠くで波の音が聞こえ、飯盒のふたが「コトリ」と鳴った。
「次はな、これに赤ワインあったら完璧やな」
「残念。忘れたから今日は水で乾杯」
紙コップを軽く合わせた。
「「おつかれさま!」」
夜は深まり、タリアータの香りがまだ残る鍋のそばで、ふたりはしばらく何も言わず、ただ満ち足りた沈黙を味わった。
昼に波を掴み、夜に火を掴んだ。どちらも、僕らにとっては小さな初体験だった。
「わ」
舞子が空を見上げて、小さく声を漏らした。
見上げると、まさに降るような、今にもこぼれ落ちてきそうな満天の星空だった。
昼に波を掴んで、夜に火を囲んで、最後に星まで降ってくる。
「すごいね」
舞子がそう言った。
僕は何も言わずにうなずいた。
ランタンのシュコーという音と、遠くの波の音だけが、二人の間に静かに残っていた。




