3話 ぶつかる
足裏に伝わる感触は、硬く冷たい石畳ではなく、湿り気を帯びた土だった。
そこは、訓練場というよりは単なる空き地に近い場所だった。地面は長年の足跡によって踏み固められているものの、決して平坦ではない。一歩足を踏み出すごとに、僅かに土が沈み、均衡を崩しそうになる。
誰も、何も言わなかった。
ただ、そこに二十人の若者が立ち並んでいる。
二列。
左側には、汚れ一つない、あるいは汚れたことを呪うような顔をした貴族子女たち。
右側には、剥き出しの敵意を隠そうともしない平民の若者たち。
その間には、ぽっかりと不自然な空白が空いていた。
最初から、そこには断絶があった。互いの存在を認めないという、強固で一方的な拒絶の壁が。
風が吹き抜ける。
乾いた風だ。それは舞い上がった土埃を連れて、二十人の間を通り過ぎていく。誰も動かない。動けば、この辛うじて保たれている静寂が決壊することを知っているからだ。
「……近くねぇか?」
沈黙を破ったのは、小さな、しかし棘のある声だった。
平民側の中心人物であるガイルが、不快そうに鼻を鳴らし、一歩前へ出る。
すると、呼応するようにカイルが、全く同じ歩幅で前へ踏み出した。
二人の距離が消失する。
数センチの至近距離で、高貴な血筋と路地裏の牙が火花を散らす。
「どけよ、金持ち」
ガイルが、地を這うような低い声で言った。
「お前こそ、その薄汚い体を下げろ」
カイルが、冷徹な瞳で応じる。
そのまま、ぶつかった。
肩と肩。肉が当たる鈍い音。それは小さな音だったが、波紋のように周囲へ広がっていく。二人とも、一歩も引かなかった。押し合う力が均衡し、衣服の布地が擦れる嫌な音が響く。
それを見て、ロイドが下卑た笑いを浮かべた。
「下民が、誰に触れていいと思ってんだよ。不潔だ」
ロイドが、ガイルの足元を無造作に蹴る。それは攻撃というよりは、害虫を追い払うような、侮蔑に満ちた仕草だった。
だが、平民側のエマが、電光石火の速さで反応した。彼女の足が、ロイドが足を引くよりも早く、全く同じ強さでその脛を蹴り返す。
「クズ」
短い一言。エマの瞳には、一切の慈悲はなかった。
空気が、鋭い音を立てて割れた。
もう、言葉による虚飾は必要なかった。そこにあるのは、純粋な嫌悪と反発だけだ。
セレスティアが、優雅に扇子を畳んで大きなため息をつく。
「ほんと、最低。どうして私たちが、こんな家畜のような連中と同じ空気を吸わなければならないの?」
彼女が誰に向けてその言葉を放ったのかは分からない。あるいは、この状況そのもの、自分をここへ連れてきた世界そのものを呪っているのかもしれない。
平民側のナナが、くすくすと嫌な笑い声を上げた。
「鏡でも見てから言いなよ、お姫様。あんたのその顔、今、最高に醜いよ」
「……面白いじゃん」
ダリルが肩をすくめ、愉快そうに目を細める。
一瞬。
二十人全員の視線が、空中で複雑に交差した。
憎悪、軽蔑、優越感、劣等感。それらが複雑に絡み合い、火薬のようにいつ爆発してもおかしくない緊張感を生み出している。
誰も引かない。
プライドがあるから。あるいは、守るべき矜持すら持たないゆえの、剥き出しの意地があるから。
ミレイナが、その気圧されるような空気に耐えかねて、半歩後ろに下がろうとした。だが、その瞬間、彼女の腕を強い力が掴んだ。
平民側のリナだった。
「下がんな。あんたが引いたら、こっちの調子が狂う」
低い、威圧的な声。リナはミレイナを助けたわけではない。ただ、逃げ出すことを許さなかっただけだ。
剣士志望のフェリクスが、居心地が悪そうに視線を逸らす。その様子を、平民側のユウがじっと見つめていた。ユウは何も言わない。ただ、フェリクスの持つ洗練された、だが実戦の匂いがしない細い指先を観察していた。
「並べ」
不意に、後方から声が飛んできた。
ユリウスだ。
彼は相変わらずの無表情で、混乱の渦中にある二十人を見下ろしている。
だが、誰も動かない。
自分たちを打ち負かした相手とはいえ、今の彼らの脳内は、目の前の「敵」への怒りで支配されていた。
「並べ」
もう一度。今度は少しだけ、声に重みが乗る。
ロイドが、地面に唾を吐いて笑った。
「聞こえねぇな。ああん? 誰に指図して――」
次の瞬間。
音もなく地面が揺れた。
地震ではない。ユリウスが踏み出した一歩から、爆発的な衝撃波が地面を伝わったのだ。
ロイドが、声を上げる暇もなく地面を転がった。
何が起きたのか、誰の目にも見えていない。ユリウスは動いていない。最初と同じ位置に、最初と同じ姿勢で立っている。だが、物理的な結果だけがそこにあった。
「並べ」
三度目の言葉。
今度は、誰も笑わなかった。
嘲笑の代わりに、冷たい沈黙が場を支配する。
若者たちは、ゆっくりと動き出した。
それは服従というよりは、生存本能に近い。
嫌々ながら、足を引きずるようにして、列を整えようとする。
それは、お世辞にも整然としたものとは言えなかった。歪で、今にも崩れそうな二列の隊列。だが、先ほどまでの「断絶した空白」は、少しだけ狭まっていた。
「……近いんだけど」
エマが、隣のカイルに対して不快そうに呟く。
「お前こそ、離れすぎだ。列が乱れるだろうが」
エリシアが、反対側から冷たく言い放つ。
両側から、同時に不満が漏れる。しかし、その声はどこか、先ほどまでの鋭利な殺意を欠いていた。
ユリウスは、その光景をただ見ていた。
肯定も否定もしない。ただ、そこにある事実を受け入れるような眼差し。
「いい」
それだけを言った。
「ここでやる」
沈黙。
「まず、組め」
「は?」
二十人の声が重なった。
「二人一組。貴族一人、平民一人だ。今すぐ組め」
ユリウスが指で示す。
誰も、指一本動かそうとはしなかった。
「無理だろ」
「誰が、こんな連中と」
「触るな、汚らわしい」
「近寄るな、殺すぞ」
罵詈雑言が飛び交う。平民も貴族も、この点においてだけは、驚くほど意見が一致していた。
ユリウスは、何も言わなかった。ただ、一歩。その一歩が持つ重圧だけで、全員の言葉を封じ込めた。
その重圧の中で、最初に動いたのはガイルだった。
彼は舌打ちをしながら、のろのろと前に踏み出す。
目の前にいるのは、ロイドだった。先ほど地面に転がされ、泥だらけになりながら立ち上がろうとしている最中だ。
二人の目が合う。
火を吹くような睨み合い。
「……チッ、ほらよ」
ガイルが、汚れた手を乱暴に伸ばした。
それは握手ではなく、単なる「動作」としての介助だった。
ロイドは、その手を蛇を見るような目で見つめ、叩きつけるようにして振り払った。
「……触るな」
低く唸るような声。だが、ロイドはガイルの差し出した手の勢いを利用して、ふらつきながらも立ち上がった。
それを見て、他の者たちも重い腰を上げた。
カイルとエマ。
二人は互いの視線がぶつかったまま、一歩も動かずに立ち尽くしていた。
「……最悪ね」
「全くだ」
口を揃えてそう言ったが、二人は背中を向けることなく、互いの距離を詰めて並んだ。
一組、また一組。
まるで、磁石の同じ極同士を無理やり押し付けるような、不自然で歪なペアが出来上がっていく。
列ができる。波打ち、歪み、不満が充満した列だ。
「始めろ」
ユリウスから、具体的な説明は一切なかった。
「何を」とも「どう」とも言わない。ただ、始めろとだけ。
沈黙が数秒、続いた。
次の瞬間、破裂音が響いた。
拳が出たのだ。
誰が先だったか、もう重要ではなかった。
カイルの拳がガイルの頬を掠め、エマの蹴りがロイドの腹部を捉える。
セレスティアとナナは、互いの髪を掴み合わんばかりの勢いで組み合い、土煙を上げている。
それは、訓練と呼べるものではなかった。
洗練された技術も、磨かれた魔法もない。
ただの醜い、剥き出しの喧嘩だった。
誰も、止めなかった。
ユリウスは、ただその光景を静観していた。
背後に控えるリリアたちも、動く気配はない。ジミーは口角を吊り上げて楽しそうに眺め、ミオは冷徹に彼らの動きを分析するように目を細め、ルークはただ虚空を見つめている。
土が舞い上がる。
荒い呼吸。
怒号。
皮膚が裂ける音。
服が破れる音。
「……最悪だな、これ」
誰かが、息を切らしながら吐き捨てた。
誰の口から出た言葉かも分からない。だが、それに異を唱える者は、ここには一人もいなかった。
殴り合いの中で。
掴み合いの中で。
泥にまみれ、相手の体温と、相手の汗の臭いを、嫌というほど近くに感じながら。
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
相手の呼吸と、自分の呼吸が重なる瞬間があった。
次にくる攻撃を予見し、同時に身を翻すような、奇妙な同調。
それはすぐに、激しい拒絶によって崩れ去る。
だが、確かに。
何かが、ズレた。
昨日までの、触れることすら拒んでいた完全な「断絶」から。
今は少なくとも、相手を殴るために、その存在を認めざるを得ない距離にいる。
土埃に染まった訓練場に、二十人の「最悪」が転がり、喘いでいた。
空は、不気味なほどに赤く染まっていた。




