2話 集められた
広間は、広かった。
それは王立の訓練施設の一角にある、歴史だけは無駄に積み重ねられた古びた大広間だった。高い天井は煤け、かつては豪華だったであろうシャンデリアが、埃を被ったまま無機質にぶら下がっている。
そのがらんとした空間に、一つの音が響いた。
靴音。
一つ。また一つ。石造りの床を叩くその音は、鋭く、傲慢で、それでいてどこか苛立ちを含んでいた。
貴族子女たちが入ってくる。
昨日の乱闘の爪痕は、隠しようもなかった。カイルの口角にはどす黒い痣が残り、ロイドの歩き方はどこかぎこちない。それでも、彼らの顔からプライドが消えることはなかった。むしろ、理不尽に叩きのめされたという屈辱が、彼らの特権意識をより先鋭化させていた。
「……最悪」
セレスティアが、扇子を激しく動かしながら吐き捨てるように言う。彼女の端正な顔は、不快感で歪みきっていた。
「呼び出しなんて、一体何の冗談よ。お父様はこの件を騎士団に報告すると仰っていたわ。こんな場所に集められるなんて、本来ならあり得ないことなのよ」
「呼び出しって何だよ。誰が何の権限でこんな真似を……」
ロイドが乱暴に椅子を引き、音を立てて座る。そのまま行儀悪く足を机に乗せた。普段なら教官たちが血相を変えて注意するような振る舞いだが、今は誰も彼を止めない。それどころか、他の貴族たちも各々に不満を露わにし、広間の空気を険悪なものに変えていた。
少し遅れて、別の足音が広間に入り込んできた。
軽い。そして、どこか荒々しい。
貴族たちの洗練された歩法とは対照的な、地面を蹴るような足音。
平民の若者たちだった。
総勢十人。彼らの服は安価な布地で、あちこちが擦り切れ、泥に汚れている。姿勢もバラバラで、ある者は周囲を威嚇するように睨みつけ、ある者は不安げに視線を彷徨わせている。
「……は?」
ダリルが、端正な眉を跳ね上げた。
「なんで“こいつら”がここにいるんだよ。ここは貴族の養成施設だろうが」
その言葉が導火線となった。広間の空気は、瞬時に歪み、熱を帯びる。
「は? こっちの台詞だろ、金持ちの坊ちゃんよ」
平民側の先頭に立つガイルが、一歩前に出る。彼は街の裏通りで名を馳せる荒くれ者だ。貴族に対する根深い憎悪が、その瞳の中でぎらついている。
二人の距離が、急速に縮まる。火花が散るような視線の応酬。
「臭ぇな。野良犬の匂いが充満してやがる。窓を開けろ、空気が腐る」
ロイドが鼻をつまみ、嘲笑う。
「黙れよ、クズ。その綺麗な服を真っ赤に染めてやろうか」
平民側の少女、エマが一歩踏み込む。彼女の手は、隠し持ったナイフの柄に伸びかけていた。
一瞬。
誰も動かない。だが、誰も引かない。
広間の中央には、明確な対立の軸ができあがっていた。
「……やめとけって」
平民側の一人、トーマスが小声で宥めるように言う。だが、その言葉は怒号の渦に飲み込まれ、誰の耳にも届かない。
その時だった。
「お前ら、座れ」
背後から、低い声が飛んできた。
全員が弾かれたように振り向く。
そこには、ユリウスが立っていた。
昨日と同じ、埃っぽい外套。腰に吊るした抜かれることのない剣。何も変わらない、感情の起伏を感じさせない顔。変わっているのは、彼と彼らとの距離だけだった。
誰も座ろうとはしない。
貴族たちは、自分たちを力で屈服させた男への反発心から。
平民たちは、得体の知れない強者への警戒心から。
二十組の瞳が、一斉にユリウスという一点に集中する。
「……聞こえなかったか?」
ユリウスの声が、さらに一段低くなる。
ただそれだけのことなのに、広間の温度が数度下がったかのような錯覚を全員が覚えた。心臓を直接掴まれるような、逃れようのない圧迫感。
ガイルが激しく舌打ちした。
「……チッ。分かったよ、座ればいいんだろ」
渋々といった様子で、ガイルが適当な椅子に腰を下ろす。それを皮切りに、他の平民たちも座り始めた。
貴族たちも、ユリウスの視線の重さに耐えかね、一人、また一人と席に着く。
だが、そこには自然と「境界」ができていた。
右側に貴族。左側に平民。
中央には、誰も座ろうとしない大きな空白。
目に見えない、だが鉄条網よりも強固な壁がそこには存在していた。
最後に入ってくる影があった。
リリア、ジミー、ミオ、ルーク。
ユリウスが連れてきたと思われる四人の若者たちは、広間の隅に静かに佇む。彼らは何も言わず、ただ無表情に事の成り行きを見守っていた。
「……何だよ、これ。おままごとか?」
カイルが椅子の背もたれに深く寄りかかり、薄笑いを浮かべる。その瞳には、昨日受けた屈辱の炎がまだ消えずに残っていた。
「遊びか何かか? 侯爵家の嫡男である俺をこんなところに閉じ込めて。何の目的だ」
ユリウスは、その問いに正面から答えることはなかった。
彼は無造作に歩み寄ると、一枚の古びた紙を机に置いた。
静まり返った広間に、紙が擦れる音だけが不気味に響く。
「お前らは、今日からここでやる」
短い言葉。あまりにも簡潔すぎる宣言。
沈黙は長くは続かなかった。瞬時に、不満のダムが決壊する。
「は? 何をよ!」
「ふざけるな! 俺たちに平民と一緒に何かをしろと言うのか!」
「誰がやるか、そんなこと!」
「俺たちに命令するな! お前は何様だ!」
一斉に声が重なる。怒号、嘲笑、拒絶。広間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
だが、ユリウスはそれらの声を一切聞いていないようだった。
「貴族十。平民十」
彼は淡々と、まるで備品を数えるような口調で言った。
「まとめて俺が面倒を見る」
「断るわ」
エリシアが、凛とした、だが氷のように冷たい声で即答した。
「あなたのような素性も知れない人間に教わることなんて何もない。私たちは、一流の教官から教育を受けているの。こんな不潔な場所で、不潔な人たちと一緒に過ごす理由がないわ」
「俺たちも同じだ」
平民側のトーマスが、今度ははっきりと言った。
「あんたが強いのは分かった。でも、俺たちは俺たちのやり方で生きてきた。貴族の連中と仲良しごっこをするつもりはない」
ユリウスは、その言葉を黙って聞いた。
そして、一度だけ深く頷いた。
「いいぞ」
全員の動きが止まった。あまりにもあっさりとした肯定に、拍子抜けしたのだ。
「帰りたければ、今すぐ帰ってもいい。俺は止めない」
軽く、突き放すような言い方だった。
一瞬、張り詰めていた空気が緩む。
ロイドが鼻で笑いながら立ち上がった。
「なんだ、案外話が分かるじゃないか。じゃあ、俺は帰らせて――」
ドサリ。
重い音がした。
ロイドの膝が、何の前触れもなく崩れたのだ。
彼は声も上げられず、まるで糸が切れた操り人形のように、そのまま床に突っ伏した。
「……は?」
誰も、何が起きたのか理解できていない。
ユリウスは動いていない。ロイドに触れてもいない。
ただ立っているだけだ。なのに、ロイドは立ち上がることすらできず、床を這っている。
「帰るなら、自分で帰れ。自分の足で、外までな」
ユリウスの静かな声が、ロイドの耳元で響いた。
ロイドは必死に顔を上げようとするが、まるで頭の上に巨大な岩が乗っているかのように、ピクリとも動けない。
誰も動かない。動けない。
これが「力」なのだと、彼らは直感的に理解した。
「ここは訓練の場だ」
ユリウスが、倒れたロイドを見下ろしたまま続ける。
「お前たちが何を考え、誰を憎んでいようと俺には関係ない。だが、一つだけ覚えておけ」
彼はゆっくりと顔を上げ、二十人の顔を順番に見据えた。
「弱い奴は、死ぬ」
言葉が石のように重く落ちる。
誰も笑わない。冷やかしの言葉すら出てこない。
昨日の暴力は、ただの序幕に過ぎなかったのだ。
ガイルが、震える拳を隠すように舌打ちした。
「……脅しかよ。力でねじ伏せて、従わせるってわけか」
ユリウスの視線がガイルを射抜く。
「違う」
「現実だ」
沈黙が、さらに長く、重くなる。
広間の空気は完全にユリウスに支配されていた。
貴族側のミレイナが、耐えきれずに視線を落とす。
平民側のリナが、深く、重い息を吐く。
剣士を目指しているフェリクスが、折れんばかりの力で椅子の端を握りしめた。
「……最悪だな」
誰かが、ぽつりと漏らした。
その言葉に対する否定は、誰からも出なかった。
これ以上の最悪が、これから始まる予感だけが全員を包んでいた。
ユリウスは、それ以上言葉を重ねることはしなかった。
彼は踵を返し、出口に向かって歩き出す。
「来い」
それだけを言い残して。
誰も返事をしない。
「はい」とも「嫌だ」とも言わない。
だが、誰もその場に留まり続けることはできなかった。
今の自分たちの無力さを突きつけられ、この男に従う以外に、この停滞を打破する方法がないことを、野生の勘が教えていた。
一人、立ち上がる。
誰が最初に立ったのか、誰も見ようとはしなかった。
次に、もう一人。
バラバラに、不揃いな足音を立てて、彼らはユリウスの後を追う。
貴族と平民。
その間にある距離は、依然として埋まっていない。
互いを軽蔑し、憎み、壁を作ったまま。
それでも、彼らは同じ方向へと歩き出していた。
空気は最悪のまま。
何も解決せず、何も好転していない。
それでも、何かが決定的に始まってしまった。
重い扉の向こう側、夕闇が迫る訓練場へと、二十人の「最悪の連中」が吸い込まれていった。




