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教えない勇者に育てられた俺たち、命令がない世界で最強になる  作者: 慈架太子


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1話 最悪の連中



乾いた音が響いた。


骨が軋む音ではない。乾いた木が折れる音でもない。それは、湿り気を帯びた人の肉と皮膚が、硬い拳によって強引に押し潰される音だった。


「……あ?」


殴られた男が、力なく地面に転がる。石畳の冷たさに頬を擦りつけながら、男は何が起きたのか理解できていない呆然とした顔をしていた。口の端から垂れた鮮血が、歴史ある街の舗装を汚していく。


その男を見下ろして立っているのは、一人の少年だった。


仕立ての良い豪奢な外套を羽織り、一筋の乱れもない整った髪を夕日に光らせている。育ちの良さを誇示するかのような立ち姿だが、その口から漏れる声は、酷く鼻に付く傲慢さに満ちていた。


「……目、合わせんなって言ったよな」


カイル・フォン・アルヴァレス。この地を治める侯爵家の嫡男であり、次期当主と目される少年だ。彼は転がった男の胸ぐらを、磨き上げられた革靴の先で踏みつける。ゆっくりと体重をかけ、逃げ場を奪うように。


「民ってのはな、常に地面を見て、俺たちを見上げるもんなんだよ。分をわきまえろ、ゴミが」


カイルが低く笑う。すると、それに応じるように周囲から卑屈で、それでいて残酷な笑い声が広がった。


そこにいたのは、彼と同じく高貴な血を引く貴族の子女たち、総勢十人。放課後の気晴らしにでも興じるような軽い足取りで、彼らは一人の平民を囲んでいた。


「やめなよ、カイル。そんなのを踏んだら、お気に入りの靴が汚れるでしょ」


エリシアが、少しだけ眉を寄せて冷ややかに言い放つ。だが、その言葉に制止の意図はない。ただ汚物を見るような視線が、地面の男を突き刺しているだけだ。


「ほんと、臭い。近寄るだけで気分が悪くなるわ」


セレスティアが豪華な刺繍の施された扇子で口元を隠し、大げさに顔を背ける。


「おい。お前、通行料はどうした? この道を通るなら、俺たちに敬意を払うのが筋だろう」


ロイドと呼ばれた大柄な少年が、横たわる男の脇腹を無造作に蹴り上げた。


「……は、払ってる、昨日……払ったはずだ……」


男が、震える声で命乞いをする。昨日、彼はなけなしの生活費を彼らに差し出したばかりだった。しかし、その言葉は火に油を注ぐだけだった。


「昨日の分だろ? 今日の分はどうしたって聞いてるんだよ」


ダリルが嘲笑を浮かべて、男の指を靴先でなぶる。


周囲の空気が、少しずつ歪んでいく。暴力と侮蔑が渦巻くその場所を、遠巻きに見ている者は大勢いた。だが、誰も止めない。誰も近づかない。彼らがこの国の法であり、権力そのものだからだ。人々はただ、嵐が過ぎ去るのを待つように目を伏せていた。


その時。


――一歩、音がした。


軽い足音だった。しかし、騒がしい嘲笑を切り裂くような、確かな重みを持った止まる音。


「……どけ」


低い声が響く。それだけで、場を満たしていた粘りつくような熱気が、一瞬で凍りついた。


カイルが苛立たしげに振り向く。


「……あ?」


そこに立っていたのは、一人の男だった。


腰に剣を帯びている。だが、抜く素振りは見せていない。身なりは決して高価なものではなく、むしろ旅の埃が幾重にも重なり、使い古された外套はあちこちが擦り切れていた。


ユリウス。そう呼ばれるその男は、感情の読めない瞳でカイルたちを見据えている。


「そいつ、これ以上やれば死ぬぞ」


言葉は短く、淡々としていた。正義感に燃える英雄の叫びではない。ただ、目の前にある事実を、事務的に指摘したに過ぎない。


ロイドが顔を真っ赤にして笑い飛ばした。


「は? お前、誰に向かって口を利いて――」


ロイドの言葉は最後まで続かなかった。彼の体が、唐突に重力から解放されたからだ。


一瞬。本当に、一瞬だった。


次の瞬間には、ロイドの巨体は石畳の上に叩きつけられ、肺の中の空気をすべて吐き出していた。ヒュー、という情けない呼吸音だけが漏れる。


「……なに?」


エリシアが、初めてその細い目をさらに鋭くした。空気が一変する。遊びの時間は終わり、そこには実戦の緊張感が漂い始めた。


カイルが、口角を吊り上げる。


「へぇ……面白い。やるじゃん」


パチン、と指を鳴らす。それが合図だった。周囲を囲んでいた貴族の子女たちが、一斉に動く。彼らもまた、幼少から高度な武術と魔法の教育を受けたエリートたちだ。


「殺すなよ? じっくり教育してやるんだから」

「顔だけにしとけ。後で誰か分からなくなると困る」

「服、汚したくないし、一発で終わらせよう」


口々に放たれる言葉は、どこまでも軽い。彼らにとって、この状況すらも娯楽の延長でしかなかった。


ユリウスは、動かない。ただ、押し寄せる殺気の渦の中心で、静かに相手を観察している。


「……終わりか?」


彼がそう呟いた瞬間、世界が加速した。


否、ユリウス一人だけが、異次元の速度で動いていた。


次に周囲の人間が目撃したのは、十人の貴族子女が同時多発的に、糸の切れた人形のように地面へ沈んでいく光景だった。


順番も、繰り出された技も、誰の目にも映らなかった。


ただ、終わったのだ。嵐が過ぎ去った後のような静寂が、辺りを支配する。


「が……はっ……」


地面に這いつくばった貴族たち。その息だけが、荒く石畳を叩く。殴られた痛みよりも、自分たちが一瞬で無力化されたという事実が、彼らのプライドをズタズタに引き裂いていた。


ユリウスは、彼らには目もくれず、視線を足元へ落とす。そこには、先ほどまで踏みつけられていた平民の男が、まだガタガタと震えながら座り込んでいた。


「……立てるか」


男は声が出ないのか、ただ必死に首を縦に振った。ユリウスはそれ以上、慰めの言葉をかけることも、手を貸すこともしない。ただ背を向け、歩き出そうとする。


「……待てよ」


カイルの声だった。地面を這いながら、彼は笑っていた。口から血を吐き、端正な顔を歪ませながらも、その瞳には異常なまでの執着が宿っている。


「……なんだよ、それ。最高じゃねぇか」


カイルがゆっくりと立ち上がる。生まれたての子鹿のように足が震えているが、それでも彼は立ち上がった。


「お前……誰に手を出したか、分かってんのか? アルヴァレスの名を汚して、ただで済むと思うなよ」


ユリウスは立ち止まったが、振り向きはしなかった。


「分かってるなら、その程度の実力で来るな。名前が泣いているぞ」


一言。氷のような冷たさを残して、彼は再び歩き出す。


沈黙。エリシアが、泥に汚れたドレスの裾を払いながら立ち上がる。その顔には、先ほどまでの余裕はない。


「……教育が必要ね」


誰に向けて放たれた言葉か。自分たちか、それとも去り行く男か。


その場にいた全員の視線が、ユリウスの背中に集中していた。剥き出しの敵意。耐え難い屈辱。燃え上がるような怒り。そして、それらとは別に、心の奥底に芽生えた「理解不能な存在」への恐怖。


遠くの路地裏では、別の視線があった。


「……最低だな、ほんと。あいつら」


平民の若者たちが、腕を組んでその様子を眺めていた。十人。彼らもまた、街で「手に負えない連中」と疎まれている荒くれ者たちだ。


「貴族ってのは、どいつもこいつもあんなクズばっかりか?」

「ああ。反吐が出るぜ」


彼らは笑う。だが、その目は笑っていない。自分たちの無力さと、目の前で起きた「秩序の崩壊」に対して、どうしようもない昂ぶりを感じていた。


ユリウスが歩き去るのを、止める者は一人もいなかった。彼が放つ圧倒的な威圧感が、物理的な壁となって追随を許さなかった。


後ろで、誰かが地面に唾を吐き捨てる音がした。


「……絶対、潰してやる」


誰の声かは分からない。だが、その場に残された二十人の若者たちは、立場も身分も違えど、皆一様に同じ「最悪」の顔をしていた。


その日の夕方、街には瞬く間に噂が駆け巡った。


「あのアルヴァレス家の嫡男が、無名の男に敗北した」

「それも、取り巻き全員まとめてだ」

「たった一人の男に」


噂は尾に尾をつけ、夜の帳が下りる頃には、権力者たちの耳にも届く。


そして深い夜。街の喧騒から離れた一室で、簡潔な指示が下された。


「……あの男に、すべてを任せる」


それは合意でもなければ、信頼でもない。ただの実験、あるいは掃き溜めの整理のような、冷酷な決定だった。


翌朝。


指定された広場に、彼らはいた。


貴族子女、十人。

平民の若者、十人。


昨日、同じ場所でいがみ合い、泥にまみれた二十人だ。彼らは互いに顔を合わせるなり、殺気立った視線をぶつけ合う。


「なんで平民のゴミと一緒にいなきゃならないのよ」

「あ? それはこっちのセリフだ、お高くとまった人形が」


一触即発の空気。そこへ、昨日と同じ埃っぽい外套を纏った男――ユリウスが現れた。


彼は二十人の前に立ち、短く言った。


「やるぞ」


それだけだった。


誰も頷かない。誰も返事をしない。互いへの嫌悪感と、ユリウスへの屈辱。それだけがこの場を繋ぎ止めている唯一の感情だった。


しかし、誰一人としてその場を立ち去る者はいなかった。


最悪の連中が、ここに揃った。

この不快な静寂こそが、新しい時代の産声だった。


ここから、すべてが始まる。

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