14話「先に立つ」
朝の空気は、肺の奥を刺すように冷え切っていた。
世界は静寂に包まれている。鳥のさえずりも、風に揺れる木の葉の音も、今の彼らには届かない。
そこには規律正しい整列も、教官を待つ緊張感もなかった。
ただ、そこに集まっている。目的を失った群れのように、あるいは何かに縛り付けられた囚人のように、ただ互いの存在を確認できる距離に留まっているだけだった。
地面は、昨日のままだった。
激しい戦闘の跡、破られた柵、そして何よりも消し去ることのできない「遅れ」の記憶が、土の上に刻み込まれている。
昨日の惨劇から、一歩も進めていない現実がそこにあった。
ミレイナは、昨日から時が止まったかのように同じ場所に座り込んでいた。
泥に汚れた服も、乱れた髪もそのままだ。視線は虚空を彷徨い、その体からは生気が失われている。
リナは、すぐ横にいた。
その距離は、物理的には触れられるほどに近い。しかし、彼女は決してミレイナに触れようとはしなかった。かけるべき言葉が見つからないのではない。安易な接触が、今のミレイナを壊してしまうことを直感的に理解していた。
少し離れた場所では、ロイドが立ち尽くしていた。
いつもなら無意味な冗談を飛ばし、場の空気を無理やりにでも明るくしようとする男が、今は石像のように動かない。
ガイルもまた、その隣にいた。二人は目を合わせることもなく、ただ同じ方向??昨日、子供が倒れていたあの場所??を見つめ続けていた。
「……水、取ってくる」
沈黙を裂いたのは、サラの枯れた声だった。
誰からの返事も期待していない。期待する側も、それに応える側も、今は等しく疲弊していた。
サラは一人で歩き出す。誰の許可も得ず、ただ自分の意思だけで。
「俺も」
ナナが、それに続くように腰を上げた。
誰も止めない。誰も行くなとは言わない。
二人の姿が、静かに集団から離れていく。
しばらくして、残された者たちの元へ二人が戻ってきた。
手には、冷たい水。
それを、ただ無言で地面に置く。
「飲め」とも「休め」とも言わない。ただ、生きていくために最低限必要なものを、そこに提示した。
リナが、その中の一つをミレイナの前に静かに置く。
「……飲め」
短く、突き放すような響き。だが、そこにはリナなりの不器用な気遣いが滲んでいた。
ミレイナはすぐには動かなかった。死人のような瞳で水筒を見つめていたが、やがて、震える手がゆっくりと伸びた。
水筒を掴み、少しだけ、喉を鳴らして飲む。
すぐに動きは止まったが、彼女はその水筒を離さなかった。
ガイルが、じっと地面を見つめていた。
泥にまみれた拳を、白くなるまで強く握りしめる。
「……やるか」
それは誰かに向けた問いかけではなかった。自分の中に巣食う後悔と、濁った感情を吐き出すための独り言だった。
ロイドが、ゆっくりと顔を上げた。
何も言わなかった。軽薄な笑みも、不敵な態度もそこにはない。
ただ、重い足取りで一歩、前に出る。
エマが立ち上がる。
だが、貴族側の生徒たちは動かない。
カイルは唇を噛み締めたまま動かず、エリシアは誇りを傷つけられたかのように視線を落とし続けている。
セレスティアは崩れ落ちたまま、ダリルは不敵な笑みさえ忘れて沈黙していた。
先に動き出したのは、平民側だけだった。
整った隊列ではない。バラバラに、しかし確実に、彼らは訓練の形を作ろうとしていた。
雑に、不揃いに。それでも、彼らは自らの足で立ち、昨日までの「地獄」の続きを選ぼうとしていた。
「……始める」
トーマスの重い一言が、朝の静寂を揺らした。
頷く者はいない。鼓舞する者もいない。
それでも、彼らは動き出した。
走り始める。その足取りは重く、速度は昨日の半分も出ていないだろう。
転ぶ。
ナナが足を取られ、派手に土を噛んだ。
しかし、彼女は叫びもしない。痛がる素振りも見せず、ただ泥を払って起き上がり、再び前へと足を出した。
ガイルが、横を走るロイドを見た。
ロイドもまた、ガイルを見た。
言葉は交わさない。ただ、互いの呼吸の乱れを感じ取り、歩幅を合わせようとする。
昨日と同じ動作。だが、そこにある動機は全く異なっていた。
リリアが、少し離れた場所からその光景を見ていた。
何も言わず、ただ見ている。
その横にはミオも、ルークもいた。
彼ら教官陣は、誰一人として手を出そうとはしなかった。
倒れた者を助けることも、迷う者に道を示すこともしない。
ただ、彼らが自分たちの力で「先に立つ」瞬間を、冷徹に見守っている。
ミレイナが、ゆっくりと立ち上がった。
足は震え、膝は今にも折れそうだ。
だが、彼女は立った。
リナが、その横にピタリと寄り添う。
支えることはしない。ただ、並んで立つ。
二人が走り出す。
遅く、無様な走り。
そこへ、フェリクスが戻ってきた。
ユウと一緒に。
二人は迷いながらも、走る列の末尾へと加わった。
貴族側は、まだ動かない。
彼らにとって、平民の後に続くことは屈辱以外の何物でもないのだろう。
それでも、彼らは見ていた。
泥にまみれながらも止まらない、あの無様な連中を。
空気が、わずかに動いた。
まだ重く、絶望の色は消えていない。
けれど、時計の針は止まっていない。
リリアが、ほんの少しだけ、誰にも気づかれないほど微かに頷いた。
生徒たちは誰もそれを見ていない。
ただ、自分たちの足元の土を見つめ、一歩ずつ、昨日よりも重い地面を蹴り続けている。
第十四話「先に立つ」
教官の命令でも、義務でもなく。
ただ、立ち上がらなければ死んだも同然だという、その本能だけが彼らを突き動かしていた。




