37話「終末市役所」
土嚢の隙間を、埃っぽい風が抜けていく。
終末市役所の正面は、有刺鉄線と土嚢、積み上げた事務机で塞がれていた。
バリケードというより、寄せ集めの壁だ。
奥から声が聞こえる。
シュプレヒコールとも怒声ともつかない、判然としない塊。
姿は見えない。
「誰だ」
声は頭上から降ってきた。
バリケードの脇に組まれた見張り台から、若い男が覗いている。
二十代前半で、目つきだけが妙に醒めていた。
笹川が助手席の窓を下ろし、見張り台を見上げる。
「二人だけです。敵意はありません」
「何しに来た」
「情報を伝えに来ました。ゾンビの群れがこっちへ向かってます、二百体規模です」
男の眉が、わずかに動く。
信じたようには見えない。
「証拠は」
蓮が、左手首のリストバンドを二度叩く。
羽音とともにドローンが降下し、男の目の前で止まった。
「これで偵察してた。映像もある。見たいなら、話の分かるやつを出せ」
男は舌打ちし、ドローンを一瞥する。
表情は動かない。
羽音が高くなり、機体が見張り台の上へ戻っていった。
「……待ってろ」
男は無線機を口元に寄せ、背を向けて何か話し始めた。
内容までは聞き取れない。
その向こうで、シュプレヒコールが変わらず続いていた。
しばらくして、男が振り返る。
「中に入れ。その後はこっちの指示に従え」
駐車場には、給水車と燃料車が列をなしていた。
雑草は刈られ、手入れが行き届いている。
ジムニーを停める。
助手席から、笹川が降りた。
警備班の数人が、無言で二人を取り囲む。
先頭の男が、蓮の腰回りと背負った得物に目を留め、眉を寄せた。
「武器は全部、車に置け」
拳銃、散弾銃、剣鉈、それに長バール。
一つずつ、助手席に並べていく。
笹川も、散弾銃と拳銃、警棒を後部座席に下ろした。
男の手が、二人のポケットの上を順に叩いていく。
私情のない、事務的な手つきだった。
連れていかれたのは、プレハブの詰め所だった。
パイプ椅子と、スチールデスクが二つ。
壁際の棚に、無線機とファイルが雑然と積まれている。
奥の椅子から、男が一人立ち上がる。
無精髭に、濃い隈。
「桐山だ」
張りのない声だった。
用件を尋ねるでもなく、こちらを見ている。
「市街地から、ゾンビの群れがこっちに向かってます。二百体規模です」
笹川が切り出す。
蓮はスマホを取り出し、ドローンの映像を桐山へ向けた。
画面の奥で、黒い塊がうごめいている。
桐山は画面を見つめ、指で目頭を揉んだ。
「……ありがとよ、助かる」
「それで、目的は」
「そちらのスカイリンク、まだ通じてますか。副首都の状況と、この辺り一帯が今どうなってるか、情報をいただきたくて」
笹川が続ける。
蓮は、壁の向こうへ顎をしゃくった。
「あいつらの声に反応しているぞ」
桐山は、ため息とも笑いともつかない息を吐く。
「市民様だ。上からの指示で、従うしかない。俺たちは公務員なんでな」
後ろで、さっきの若い男が床を蹴った。
「カス市民どもですよ。ゾンビにも人権が必要とか、ほざいてるんです。あんなの、死んでも問題ないでしょう」
「蜂谷」
桐山は振り向かず、名前だけを呼ぶ。
若い男は口を閉じて、壁にもたれた。
「情報のことは、俺一人じゃ決められん」
桐山が、机のファイルを指先で叩く。
「うちのスカイリンクも、繋がる相手は同じ端末を持ってる役所や施設だけだ。副首都の情報を回してもらえるかどうかも、上の判断次第でな。明日の会議には出しとく。早くて三日後には返答が出る。その時にまた来てくれ」
無線機を掴み、桐山は背を向けた。
「全員配置に戻れ。二百規模の群れが接近中だ。デモ隊は……知らん、好きにさせとけ」
詰め所を出たところで、笹川が息を吐く。
「この世になっても、まだお役所仕事なんですね」
ジムニーに戻ると、開放したインカムにキーロンが割り込んだ。
「群れの速度が上がっている。音源に向かって一直線だ。あと十分で接敵する」
十分。
蓮は敷地を出て、少し離れた路肩にジムニーを寄せた。
フロントガラス越しに、笹川が市役所を見つめる。
「大丈夫ですかね、あの人たち。助けに入りましょうか」
蓮は答えない。
目はドローンの映像から離れず、瞬きも止まっていた。
代わりに、インカムからキーロンの声がした。
「介入するなら、今はまだ早い。混乱が最大になるのは、接敵からおよそ十五分後だ。今動いても警備隊の邪魔になるだけで、恩も売れない」
土嚢の隙間に、予備の槍が運び込まれた。
蜂谷が、隊列の位置を怒鳴って整えていく。
少し離れた路肩のジムニーに、目を向ける者はいない。
十分後、北の道路を埋めて、黒い塊が押し寄せてきた。
長槍を構えた警備隊が、北側の柵の内側に並ぶ。
合図とともに、穂先が一斉に突き出される。
狙いはすべて首元。
柵の隙間から伸びた刃が、先頭の喉を貫いた。
一列目が引くと同時に、二列目が突き出す。
絶えず入れ替わる律動で、距離を保ったまま迎撃が続く。
崩れた個体が、柵の足元に折り重なっていった。
南の搬入口には、見張りが一人立つきりだ。
人手のほとんどが、北の群れに吸われている。
隊列は崩れない。
そう見えた矢先、背後で怒号が上がった。
プラカードを手にした一団が、柵に取りついていた。
隊員の腕や、槍の柄に掴みかかる。
「殺すな! ゾンビにも人権がある、お前たちは人殺しをしているんだぞ!」
槍を引こうとした隊員の腕が、途中で止まる。
隣の隊員も足を取られ、たたらを踏んだ。
「下がれ! 邪魔をするな!」
振り払っても、また別の手が伸びてくる。
警備隊の怒声とデモ隊の絶叫が入り混じった。
穂先が、行き場をなくして宙で止まる。
隊列を仕切っていた蜂谷の顔から、血の気が引いていく。
白くなった頬に、こめかみの血管が浮き上がっていた。
「……もういい」
蜂谷は槍を下ろし、無線機を掴んだ。
「三班、俺についてこい。デモ隊を黙らせる。手加減はいらねえ」
周囲の隊員が、一瞬固まる。
警棒を手にした三人ほどが、蜂谷のそばへ寄っていった。
無線に、桐山の声が割り込む。
「待て、蜂谷。手を出すな」
「邪魔されてるのはこっちなんですよ! これじゃ群れを止めきれない!」
「デモ隊はこっちで下げる。お前は槍を群れに戻せ」
無線の向こうで、誰かが指示を飛ばしている。
ほどなく、デモ隊の背後から別の一団が割り込んだ。
柵に伸びていた腕が、じりじりと剥がれていく。
「邪魔がなくなった。蜂谷、踏ん張ってくれ」
蜂谷は下がっていくデモ隊を一度睨み、槍を構え直す。
「……後で覚えてろよ、あいつら」
穂先が、まっすぐ群れへ戻った。
住民エリアの裏手、南側の搬入口。
北の騒ぎを背に、男が一人、閂へ手をかけていた。
周囲を一度確かめ、頷く。
重い音を立てて、扉が内側から開いた。
男は外へ向かって、大きく手を振る。
応えるように、遠くでエンジン音が一斉に吹き上がった。
砂埃を巻き上げ、バイクの群れが搬入口へ雪崩れ込む。
改造マフラーの爆音が重なり、住民エリアの空気が震えた。
先頭の一台が物干し場を薙ぎ倒し、後続がそれに続く。
十数台、いや、もっといる。
鎖や鉄パイプを振りかざした男たちが、敷地に散っていった。
「ヒャッハー! お前ら行くぞ、暴れろ、殺せ、楽しめ!」
洗濯物を抱えた男の背後に、影が迫る。
振り向く間もなく、鉄パイプが後頭部に叩き込まれた。
乾いた破裂音に似た、骨の折れる音。
男が動かなくなっても、鉄パイプは止まらない。
「女は生かせ、他は殺せ!」
誰かが、下卑た笑い声を上げる。
悲鳴の質が変わった。
老人が鎖に絡め取られ、地面に引きずり倒される。
もがく腕を、誰かが面白がって踏みつけた。
「ボーナスタイムだ、急げ!」
その最後尾に、一台だけ動かないバイクがある。
跨ったまま、男は仲間の背中を眺めていた。
剃り上げた頭に、鶏冠のように逆立つ髪。
革ジャンの上からでも分かる肩パッドに、無骨なタトゥーの腕。
見た目だけなら、この中の誰よりも凶暴だった。
建物の陰に、逃げ遅れた女が一人うずくまっている。
膨らんだ腹を、両腕で庇うように抱えていた。
暴徒の一人がそれを見つけ、口の端を吊り上げる。
「おい、こっちにも一人いたぞ。……中身入りだ、役に立たねえ」
女は震えながら首を振る。
鉄パイプが、ゆっくりと振り上げられた。
鈍い音。
女はそれきり動かない。
遠く北側では、槍の突く音と号令が続いていた。
ハンドルを握るモヒカンの拳が、白くなる。
バイクが発進した。
振りかぶった鉄の棒が、女を殺した男の頭へ落ちる。
「汚物は消毒だ!」
頭部が弾けた。
男は悲鳴も上げずに、膝から崩れる。
場が、一瞬静まった。
「腹の子ごと殺るのかよ」
モヒカンは棒を握り直す。
「俺も最低だったが、そこまでは落ちれねえ。……消毒してやるよ」
「ああん、お高くとまってんじゃねーぞ」
元仲間の一人が凄む。
「お前も同じことしてただろうが。今更悔い改めたとでも言うのかよ」
周りの顔から、戸惑いが消えていく。
複数のバイクが、モヒカンを取り囲む。
モヒカンはアクセルを煽り、包囲の隙間へ突っ込んだ。
すれ違いざま、鉄の棒が一人の側頭部を捉える。
男が地面へ吹き飛んだ。
車体を傾け、二台目の脇をすり抜ける。
振り下ろされた鎖を躱し、返す一撃で手首を叩き折った。
続けて、三台目の前輪へ棒を叩き込む。
車体が乗り手ごと横滑りしていった。
急停止から、半回転。
伸びてきた腕を、棒の柄で弾き返す。
追ってきた一台が曲がりきれず、縁石へ乗り上げた。
バイクを操りながらの立ち回りは、他の連中と明らかに質が違う。
だが、数が違いすぎた。
前後左右から得物が飛ぶ。
肩に、背に、避けきれない衝撃が重なっていく。
鎖がハンドルに絡み、車体が大きく傾いた。
バイクが横転する。
勢いを殺せず、モヒカンの体は壁に叩きつけられた。
肘をついて、上体を起こす。
右足に体重をかけた瞬間、膝から力が抜けた。
棒を杖代わりに、もう一度立とうとする。
「まだまだ……終わらん」
仲間だった男たちが、周りを囲む。
とどめのために、得物が構え直された。
そこで、記憶が途切れる。




