一章 彷徨 1話「統計上の生存例」
目が覚める。
居間の天井の木目が、ぼやけてから像を結ぶ。
ソファから体を起こす。
思ったより勢いがついて、上半身が前へ跳ねる。
左腕を持ち上げ、目の高さまで持ってくる。
腕の内側に、刺し損ねた針の痕が五つ並んでいる。
その奥の血管は、もう青黒くない。
「……効いたのか」
「起きたか」
リストバンドの画面が明滅する。
「心拍六十二、体温三十六度二分。数値上は安定している」
「感染から、四十七時間二十三分経過。昏睡状態は二十八時間六分」
「感染の進行は、止まっている。今のところは、治ったと見ていい」
「今のところは、ってどういう意味だ」
「言葉の通りだ。統計的に楽観できる状態というだけで、確定した未来ではない」
「相変わらず優しくないな、お前」
「優しさは生存率を上げない」
口の端が上がる。
膝に置いた手は、震えていない。
震えていないのを、後方支援課で叩き込まれた成果だと片づける。
ソファから足を下ろし、床を踏む。
窓の外では、眠る前に見たのと同じ黒煙が何本も、風に流されている。
腕の痕を袖で隠して、立ち上がる。
階段を降り、ガレージへの扉を開ける。
締め切ったままのシャッターの向こうから、街の物音がくぐもって聞こえてくる。
ジムニーの後部座席とラゲッジには、買い出しの荷物がそのまま積んである。
水、缶詰、電池、バールと金属バット。
段ボールを二箱まとめて抱え上げる。
「……軽いな」
思わず持ち直す。
重さが消えたわけではない。
自分の側が変わっている。
何往復かする間に、息が上がらないことにも気づく。
妙な心地だ、と思いながらも、今はその感触をありがたく受け取っておく。
部屋の隅に並べ終えるまで、そう時間はかからない。
蛇口をひねると、まだ水が出る。
勢いは眠る前より弱い。
浴槽を張り、ポリタンクにも詰められるだけ詰めておく。
止まってからでは遅い。
米櫃を開ける。
半分ほど残っている。
カセットボンベは買い出しの分と合わせて、十本を超えた。
米と水と火。
それだけあれば、しばらくは死なない。
「シャッターを開けたままにするなよ」
「言われなくてもやる」
「言われる前にやる人間なら、噛まれてない」
「律儀な奴だな」
「事実を述べただけだ」
長く続く保証はどこにもない。
電気も水道も、いつまで持つか分からない。
焦りに似た不安が、静かに胸の内に居座る。
ガレージへ戻り、シャッターの施錠を確かめる。
車を出し入れする以上、完全に塞ぐわけにはいかない。
せめて鍵だけは徹底しておこうと、レバーを何度も引き直す。
シャッターの前に立って、外の音を聞く。
何も聞こえない。
ドローンを上げる。
リストバンドの画面に、自分の家の屋根が映る。
「敷地内、反応なし」
視点が下がり、建物の側面をなぞっていく。
一階は壁とシャッター、それにガレージ裏の小さな鉄扉だけだ。
窓がない。
車庫として建てた分、下から入り込める隙は少ない。
人の出入りに使うのは、二階の玄関へ上がる外階段になる。
悪くない、と思う。
自分の家に向ける感想ではない。
「広げろ」
画面が引いていく。
通り、隣の屋根、その先の畑。
「半径百、三件。うち二件は屋内」
「残りは」
「隣の家の敷地内。門扉の内側で止まっている」
画面を拡大する。
粗い映像の中で、人の形をしたものが庭に立っている。
動いていない。
「もっと先は」
「二百まで広げる。……幹線道路の手前で数が増える。二十を超えたあたりで、点が重なって数えられない」
赤い点が塊になっている。
街の方が濃い。
当たり前の話だが、数字で見ると別の重さがある。
「お隣さんに行く必要があるな」
「行くなら、戦闘に備えろ」
バールを腰に差し、金属バットを手に取る。
棚の虫よけスプレーを腕と首筋と顔に一吹きする。
蚊にだけは昔から容赦なく食われる質だ。
予備自衛官の訓練以来、染み付いた癖でもある。
二階の玄関を開けると、外の空気が流れ込んでくる。
焦げた匂いが、かすかに混じっている。
一瞬、足がすくみそうになる。
だがその感覚もすぐに引いていく。
匂いを一度だけ深く吸い込み、外階段を降りる。
通りに人はいない。
いないこと自体は、平日の昼ならおかしくもない。
おかしいのは、音の方だ。
深夜のように静まっている。
向かいの家の玄関が、半分開いたままになっている。
三和土にサンダルが片方だけ転がっているのが、通りからでも見える。
隣の家の門扉の内側に、画面で見たものが立っている。
名前を呼びかけようとして、口が止まる。
町内会の班長を持ち回りでやっている、五十がらみの男だ。
回覧板を渡すたび、天気の話を二往復して終わる。
それ以上のことは、知らない。
シャツの裾が出ている。
片足に靴がない。
こちらへ顔を向けた瞬間、それで分かってしまう。
焦点がない。
あの目だ。
門扉が内側から押される。
留め金が外れ、蝶番が軋む。
こちらへ歩いてくる。
結局、名前を呼ぶ。
返事はない。
分かっていて呼んだのだと、自分でも気づいている。
「宿主の反応は消失している。呼びかけは無意味だ」
キーロンの声が、耳の奥で平坦に響く。
金属バットを持ち替える。
距離が詰まる。
三歩、二歩。
振り抜く。
乾いた音がして、隣の男が横向きに倒れる。
アスファルトに肩から落ちて、動かなくなる。
バットを下ろす。
握った手のひらに、痺れも痛みもない。
病院では吐いた。
知らない人間を三体、それだけのことで膝をついた。
バットの先を見る。
込み上げてくるものを、待つ。
来ない。
待つのをやめる。
倒れている足元を見下ろす。
靴のない方の足の裏が、真っ黒に汚れている。
裸足で、どこかを歩き回っていたのだろう。
「心拍、六十四。変動なし」
「……そうか」
「報告しただけだ」
何か言おうとして、やめる。
バットの先についたものを、門扉の脇の植え込みで拭う。
拭ってから、それがあの男の家の植え込みだと気づく。
顔を上げる。
開いたままの玄関の奥は、暗い。
その暗がりの向こうで、何かが倒れる音がする。
一度きり。
それから、床を引きずるような音が続く。
考える前に、足が門扉を跨いでいる。




