3話「境界」
ジムニーのエンジンをかける。
後部座席に積んだままの買い出しの袋が視界の端に入るが、今それを気にしている場合ではない。
出発前に、ドローンを起動する。
リストバンドの操作パネルからコマンドを送ると、玄関先に置いていた機体がゆっくりと浮上し、上空へと消えていく。
操作自体に、戸惑いはない。
畑違いの人間ばかり集められた新設の運用隊で、飛ばすことだけは嫌というほどやらされた。
「先行させとく。何かあれば言う」
「頼む」
ハンドルを握り、キーロンの示すルートに従って走り出す。
「次の交差点を右だ」
「わかってる」
走り慣れた道のはずなのに、景色がどこかよそよそしい。
信号無視で突っ切った車が路肩に乗り上げたまま放置されている。
歩道にはコンビニ袋や靴が散らばり、持ち主の姿はない。
「……昨日までと同じ街とは思えないな」
「感傷は後にしろ。もうすぐ着く」
キーロンの声には相変わらず抑揚がない。
それが今はかえって落ち着く。
病院の敷地が見えてくる。
正面玄関に近づくにつれ、異変の輪郭がはっきりしてくる。
人だかりのように見えたものは、統率の取れない群衆だ。
怒号、悲鳴、何かがぶつかる鈍い音。
救急車のサイレンが遠くで鳴り続けているが、誰も動かす気配がない。
車を減速させる。
正面玄関の自動ドアは開けっ放しで、中から白衣の人影がよろめきながら出てくるのが見える。
歩き方がおかしい。
この距離でも、そこだけははっきり分かる。
「正面は無理だな」
「同感だ」
「他に入り口は」
「搬入口がある。裏手だ。人が少ない可能性が高い」
ハンドルを切り、建物の裏へ回り込む。
駐車場を突っ切り、フェンス沿いの細い道へ入っていく。
裏手に着くと、確かに正面ほどの騒ぎはない。
搬入口らしきシャッターは半分開いたままになっている。
中は暗く、何があるか見通せない。
車を停め、エンジンを切る。
静寂が急に重くのしかかってくる。
「……病院、昔から苦手なんだよな」
理由を深く考えたことはない。
あの匂いと静けさが、どうにも性に合わない。
「行くしかないんだよな」
「他に選択肢があるとでも言うのか」
言葉に詰まる。
後部座席に積んだままのバールを引き抜き、手に握る。
重さが、いつもより気になる。
深呼吸をひとつ挟み、車を降りる。
搬入口のシャッターの隙間に体を滑り込ませ、院内の暗がりへ足を踏み入れる。
院内は薄暗い。
非常灯の緑色の光だけが、廊下の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「ドローン、先行させる」
リストバンドの操作パネルに触れると、搬入口の天井付近で待機していた機体が音もなく動き出し、廊下の奥へと消えていく。
「映像、見えてるか」
「ああ。左に進路取れ。突き当たりにエレベーターホールがある」
キーロンの指示に従い、足音を殺しながら進む。
壁伝いに歩を進めるたび、非常灯の光が影を長く伸ばす。
どこか遠くで、何かが崩れ落ちるような音がする。
一度、二度。
規則性はない。
「進行方向とは逆だ。優先度は低い」
感情の読み取れない声が、そのまま判断の根拠になる。
止まる理由がないなら、進むしかない。
「保管場所はどこだ」
「中央検査室。三階だ。輸血用の血液パックは、通常そこの冷蔵設備にまとめて保管されてる」
「三階か……エレベーターは」
「使うな。動いてる保証がない。階段だ」
階段の入り口までは、思ったより静かに辿り着ける。
踊り場の窓から差し込む外光を頼りに、一段ずつ上っていく。
踊り場を折り返したところで、ドローンが不意に高度を落とし、天井際の暗がりに張り付く。
「どうした」
「黙ってろ。二階の非常口、内側からドアを叩いてる音がする」
耳を澄ますと、確かに一定の間隔で、鈍い打撃音が響いているのが分かる。
誰か、あるいは何かが、閉じ込められているのか、閉じ込めようとしているのか。
判断はつかない。
「進めるか」
「今のところは。ドローンは戻す、目立たせたくない」
二階の踊り場を過ぎたところで、ドローンの映像に動きが映り込む。
「止まれ」
声に反応して足を止める。
リストバンドの画面には、廊下の先で何かが動いている様子が映っている。
「……何だ、あれ」
「元患者だろうな。点滴スタンドを引きずってる」
画面の中の人影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
距離はまだある。
だが、廊下の構造上、避けて通る道はなさそうだ。
「戦うしかないか」
「他に案があるなら聞くが」
ない。
バールを両手で握り直し、階段を上がりきる。
人影――患者衣をまとった、かつては入院患者だったのだろう男が、こちらに気づいて動き出す。
歩みは遅いが、着実に距離を詰めてくる。
その後ろの暗がりから、もう二つの影が壁伝いに現れる。
「三体」
バールを握る手のひらが汗ばんでいる。
柄を握り直す。
まだ重い。
一歩、二歩。
相手の足音が、自分のそれと重なる。
振り下ろした一撃が、頭部を捉える。
湿った音とともに、目の前の人影が崩れ落ちる。
手の中のバールを見下ろす。
軽い。
こんなに軽かっただろうか。
「残り二体。左奥」
言われた通りに踏み込む。
一体目。振り抜く。二体目。返す刃で、というほど上等な動きでもない。
ただ腕を振っただけだ。骨の砕ける感触が、掌に届く前に終わっている。
喉の奥から込み上げてくるものがある。
堪えきれずに、その場でえずく。
「間抜け、ぼさっとするな。動体反応、まだ拾ってる」
口元を拭って顔を上げる。
噛まれた腕が、鈍く疼く。
廊下の壁に手をつく。
こんなものに慣れる日が来るとは思えない――そう考えている自分の呼吸が、もう整っていることに気づく。
「別の階からもう一体、こっちに向かってる」
「……ちょっと待て」
「待てない」
三階に上がると、案内表示に「中央検査室」の文字を見つける。
ドアは半開きになっている。
中を覗くと、幸い人の気配はない。
冷蔵設備を開けると、整然と並んだ血液パックが目に入る。
棚の下段には、輸血用のチューブや器具一式が収められた箱もある。
「これで全部か」
「必要な分は揃ってる。持てるだけ持って戻れ。処置は家だ、ここは長居する場所じゃない」
パックと器具をリュックに詰め込んでいく。
手が微かに震えているが、作業自体は止まらない。
リュックの重さを背負い直し、来た道を引き返す。
階段を駆け下りる。
柄を握る手のひらが、さっきの感触をまだ覚えている。
自宅に戻り、リュックの中身をリビングの床に広げる。
血液パック、チューブ、針、その他見覚えのない器具がいくつか。
何から手を付ければいいのか、正直分からない。
リストバンドの画面から検索をかける。
スマホは相変わらず圏外のままだが、こちらの回線だけは問題なく繋がる。
「輸血 やり方」「静脈路確保 自己」
出てくるのは医療従事者向けの情報ばかりだ。
それでも動画をいくつか流し見ながら、手順をなぞっていく。
「随分と付け焼き刃だな」
「うるさい。他に方法があるなら言えよ」
「ない。だから見てるんだろう」
突き放すような物言いのまま、キーロンは要点を淡々と読み上げていく。
針の角度、血管の位置、固定の仕方。
感情の抜けた説明が、かえって落ち着きを与えてくれる。
腕の内側、青黒く血管が浮き出た箇所を消毒する。
針を近づける手が震える。
一度、目を閉じてから開ける。
「躊躇うな。時間の無駄だ」
「わかってるよ」
一気に刺す。
だが、狙った角度が甘かったのか、血管を捉えきれない。
「外れてる。角度が浅い」
「言われなくても分かってるよ」
位置を変えて、もう一度。
それも駄目だ。
三度目、四度目と繰り返すうちに、腕の内側はまともに見られない有様になっていく。
「五回目だ。次で決めろ」
「うるさい」
奥歯を噛んで、針を刺し直す。
今度は、鈍い痛みと共に赤い色がチューブに流れ込み始めるのを確認する。
血液パックをソファの背もたれより高い位置に吊るし直すと、赤い筋がゆっくりと腕へ向かって下りていくのが分かる。
肩の力が抜ける。
ようやく、という気持ちが一瞬だけ胸を過ぎる。
うまくいっているのかどうかも判断できないまま、ソファに背を預ける。
天井を見上げる。
腕の付け根から、じわりと熱のようなものが広がっていくのが分かる。
血液が体に入っていく感覚なのか、それとも別の何かなのか、区別がつかない。
「……効いてる、のか」
「データ上は、進行してる」
「進行って、良い方にか」
返事はない。
「おい」
答えが返ってくる前に、視界が急に霞む。
体の力が抜けていく。
何かを言おうとした声が、うまく音にならない。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
目を開けると、部屋は薄暗い。
カーテンの隙間から、高い日の光が差し込んでいる。
体を起こそうとして、体の節々が軋むのを感じる。
リストバンドの画面に触れる。
日付の表示が、記憶にあるものから丸一日以上進んでいる。
「……何時間、寝てたんだよ」
答えるキーロンの声は、いつも通り抑揚がない。
「かなり長い間だ。詳細な数字を知りたいか」
「今はいい」
「一つだけ言っておく。例の締切――七時間のカウントは、とうに過ぎてる。それでもお前はまだそこにいる」
その一言をどう受け止めればいいのか、すぐには分からない。
体を起こし、ソファから立ち上がる。
腕の包帯を見下ろす。
染みができているが、それ以上のことは分からない。
窓に近づき、カーテンに手をかける。
一瞬、開けるのを躊躇う。
開けた先に何があるのか、分かるのが怖い。
それでも、指先に力を込めてカーテンを引く。
外の景色に、思わず息を止める。
見慣れていたはずの街並みが、どこか違って見える。
あちこちから、細く黒い煙が立ち上っている。
数えきれないほどの数だ。
遠くでは何かが崩れる音が、鈍く響いている。
自分の体に何が起きたのか、輸血がうまくいったのかどうかさえ、まだ分からない。
窓の外を見つめたまま、しばらく動けずにいる。




