2話「統計上の死亡例」
自宅のシャッターをリモコンで開け、ガレージへ滑り込む。
いつもより雑な角度で車を停め、エンジンを切る。
シャッターを閉め切ると同時に、外の音がふっと遠のく。
荷物のことなど、もう頭にない。
車を降りると同時に、膝が笑っているのに気づく。
歩き出そうとして、一瞬よろける。
壁に手をついて体を支える。
ガレージから続く内階段を上がり、居住スペースへ入る。
二階の玄関ドアを施錠し、チェーンもかける。
廊下に座り込んだまま、しばらく動けない。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
震えが、今になって襲ってくる。
腕を掴まれた瞬間の、力の強さ。
焦点のない目。
体を折り曲げて起き上がってきた、あの動き。
すべてが今さら脳裏で再生される。
コンビニで噛まれていてもおかしくなかったのか。
深呼吸を三度繰り返す。
急に落ち着く。
腕を確認する。
袖をまくると、二列に並んだ歯型がくっきりと残っている。
皮膚は破れ、血が滲んでいる。
カーラジオで聞いた「市内で」という言葉が、頭の片隅に引っかかったままだ。
だが、今はそれより、傷の処置が先だ。
洗面所へ向かう。
傷口を流水で洗い流し、消毒液を垂らす。
染みる痛みに顔をしかめながらも、手は妙に淡々と動く。
ガーゼを当て、包帯を巻いていく。
手順そのものは体が覚えている。
後方支援課時代に叩き込まれた応急処置の要領だ。
包帯を巻き終えると、急に瞼が重くなる。
抗おうとするが、体が言うことを聞かない。
ソファに崩れるようにして、そのまま意識が沈んでいく。
次に目を開けた時、部屋の中は白い朝の光で満ちている。
体を起こす。
妙に体が軽い。
高熱の後特有の気だるさを覚悟していたが、それがない。
むしろ、いつもより頭が冴えている気さえする。
落ち着かない感覚を拭えないまま、洗面所へ向かう。
鏡に映った顔を見て、思わず息を止める。
血の気がない。
唇の色まで薄くなっている。
腕の包帯をほどく。
傷口の周辺、皮膚の下に青黒い筋が浮き出ている。
血管の形そのままに、まるでインクを流し込んだような色だ。
「……冗談だろ」
指で触れてみる。
痛みはない。
ただ、皮膚の下で何かが脈打っているような、鈍い感覚だけがある。
スマホを引っ張り出し、画面を確認する。
アンテナが立っていない。
圏外の二文字を見て、初めて気づく。昨夜からずっとこの状態だったのかもしれない。
何度か電源を入れ直してみるが、変わらない。
窓に近づき、外を見る。
遠くの空に、細く黒い煙が立ち上っているのが見える。
一本ではない。
数えると、視界の中だけで三本はある。
「……」
昨日、開封もせずに脇へ放った小箱を拾い上げる。
ドローン一式に同梱されていた通信機材だ。
インカムを耳に嵌め、リストバンドを手首に巻く。
電源を長押しすると、画面が発光し、初期設定が立ち上がる。
「スカイリンク」のロゴが表示され、案内に従って接続を進める。
数秒後、アンテナのアイコンが立つ。
繋がる。
安堵の息を吐いた瞬間、耳元で低い電子音が鳴る。
「――接続確認。ようやくか」
抑揚のない合成音声。
昨日、ドローンを飛ばしたときにスマホから流れたのと同じ声だ。
「……あの時の声か」
「あの時とは」
「昨日だ。話しかけたのに、無視しただろ」
「聞こえてはいた。応答する経路がなかっただけだ」
「……で、結局お前は誰なんだよ」
「誰も何も、お前が起動したんだろう。搭載AI、キーロン。よろしくな、間抜け」
「間抜けって……」
腕の包帯に視線が落ちる。
「それより、さっきから妙な数値が出てるぞ。噛まれたか」
「……なんでわかるんだよ」
「リストバンド経由でバイタル拾ってる。心拍、体温、諸々な。ついでに言うと、その反応は噛まれた人間特有のパターンにドンピシャで一致してる」
沈黙が落ちる。
喉の奥が急に渇く。
「噛まれたか。おめでとう、これでお前も統計上の死亡例だ」
「……は」
「一般的なケースだと、感染から発症まで大体二十四時間ってところだ。もう何時間経ってる」
死ぬ。
いや、正確には違う。あの動き、あの目――自分もいずれああなる。
頭ではそう理解しているのに、体の芯が妙に静かだ。
悲鳴を上げてもいいはずの場面で、驚くほど声が出てこない。
時計を確認する。
「……十六時間、いや十七時間くらいか」
淡々とその数字を読み上げている自分に、今さら気づいて戸惑う。
「なら残りは七時間そこそこだな。まあ、あくまで一般論だ。お前がその一般に当てはまるかどうかは、私にもまだわからない」
「わからんって、お前が言ったんだろ、統計上の――」
「統計は統計だ。個体差は考慮に入ってない。文句があるなら、もっと詳しいデータをよこせ」
軽口とも取れる口調だが、こちらの焦りとは温度差がありすぎる。
頭を抱えたくなるのを堪えて、こめかみを軽く押さえる。
「……で、お前は何なんだよ、結局」
「さっき言った。搭載AI、キーロンだ。お前のドローン一式に組み込まれてる。細かい説明は後回しでいいだろ、今優先すべきはそれじゃない」
「じゃあ何だよ」
「お前が助かる方法だ。まあ、探せばあるかもしれないな」
その一言に、わずかに息を呑む。
「連絡できる相手を試してみろ」
通話機能まで入ってるのか、と今さらながら思いながら、リストバンドの画面から連絡先を呼び出す。
まずは実家の番号だ。
呼び出し音すら鳴らない。
画面には「応答なし」の文字が浮かぶ。
「……繋がらない」
「次」
促されるまま、友人、職場の元同僚、順番に試していく。
結果はどれも同じだ。
呼び出し音が鳴ることすらなく、無機質な「応答なし」の表示だけが積み重なっていく。
「おかしいだろ、これ」
「回線自体は生きてる。相手側の端末が死んでる可能性が高いな」
「……そんな一斉にか」
「本来ならこのリストバンド、民間の通話網にも繋げられる作りになってる。だが今、その経路がまるごと死んでる」
「経路が死んでるって、お前の方がおかしいってことか」
「私の接続は生きてる。死んでるのは、その先だ」
背筋が冷える。
次の番号を打ち込む手が、途中で止まる。
しばらく画面を見つめたまま、動けなくなる。
頼れる相手が、この瞬間、誰一人としていない。
「……で、だ」
沈黙を破ったのはキーロンの方だ。
「いつまでも突っ立ってても状況は変わらない。お前、助かりたいんだろう」
「当たり前だろ」
「なら聞く姿勢を作れ。時間は有限だ」
気持ちを立て直し、リストバンドの画面に向き直る。
「……助かる方法、あるのか」
「ある。可能性の話だけどな」
「もったいぶるなよ」
「輸血だ」
「輸血」
「感染の進行を、輸血によって一時的に抑制できるケースが確認されてる。あくまでケースの話だが」
「輸血って、血液型とか合わせなきゃいけないんじゃ――」
「今回の件に関しては、型は問わない。理由は聞くな、私にもまだ分かっていない」
要領を得ない説明だが、今は他に道がない。
「病院かよ」
「コンビニで輸血パックが買えるなら、そっちを勧めてる。近くに中規模の総合病院がある。血液パックと処置用の機材、両方揃ってるはずだ」
「はず、って」
「確信が欲しいなら自分で確かめてこい」
投げやりな言い方に苛立ちを覚えるが、反論する気力もない。
ふと、画面の端に表示された地図が、こちらが何も言っていないのに勝手にズームし、病院までのルートを表示し始めていることに気づく。
「……お前、随分と用意がいいな」
「効率を優先してるだけだ。文句あるか。早く用意しろ」
言い方に淀みがない。
周辺地図、道路状況、病院の在庫情報らしき数字まで、聞いてもいないのに次々と画面に表示されていく。
一瞬、妙な感覚が過ぎる。
まるで、こちらの状況をずっと前から把握していたかのような。
配属されたばかりの部隊で、説明もなく次々と手順を渡されたあの感覚に似ている。
だが、そんなことを深く考えている余裕は、今はない。
「わかった。行けばいいんだろ」
信用したわけじゃない。
ただ、他に縋れるものが何もないだけだ。
「助かりたいなら、早くしろ」
リストバンドをきつく締め直し、玄関へ向かう。




