1話「日常の終わり」
振り下ろした一撃が、頭部を捉える。
湿った音とともに、目の前の人影が崩れ落ちる。
手の中のバールを見下ろす。
軽い。
こんなに軽かっただろうか。
「残り二体。左奥」
言われた通りに踏み込む。
一体目。振り抜く。二体目。返す刃で、というほど上等な動きでもない。
ただ腕を振っただけだ。骨の砕ける感触が、掌に届く前に終わっている。
喉の奥から込み上げてくるものがある。
堪えきれずに、その場でえずく。
「間抜け、ぼさっとするな。動体反応、まだ拾ってる」
口元を拭って顔を上げる。
噛まれた腕が、鈍く疼く。
――どうして、こんなことになった。
二日前。
自動ドアが開く音と同時に、店内の空気が入れ替わる。
深夜二時、コンビニには他に客がいない。
蛍光灯の白い光が妙に眩しく感じられるのは、ここ数日ろくに外に出ていなかったせいだろう。
レジ横の唐揚げケースを覗きながら、今日の献立を頭の中で組み立てる。
カップ麺、おにぎり、缶コーヒー、それから――
ふと視線を上げた先、雑誌コーナーの陰に一人の男が立っているのに気づく。
立ち読みにしては、雑誌を手に取る素振りすらない。
背を向けたまま、微動だにしなかった。
気にせず奥の冷蔵棚へ向かう。
缶コーヒーを二本、カゴに放り込んだところで、背後に人の気配を感じる。
振り返る間もなく、腕を掴まれる。
「うわっ」
咄嗟に振り払おうとするが、指の力は異様に強い。
見れば、さっきの男だ。
何かをぶつぶつと呟いている。
聞き取れるほどの声量ではない。
「ちょ、放せって」
呼びかけにも反応せず、腕を掴んだ手に力がこもる。
カゴを床に置く。
掴まれた腕を回し、親指を外側へ返す。
体が勝手にやっている。
男の指がほどけた瞬間、肩を押して距離を取った。
加減したつもりだったが、男は足がもつれたように陳列棚へ倒れ込む。
カップ麺の山が崩れて、乾いた音が響いた。
「……なんだよ、酔っ払いか」
自衛官を舐めるなよ、元だけどな――柄にもなくそんなことを思いながら、棚から距離を取る。
息はまだ整わない。
店員が奥から飛び出してきて、慌てた様子で男に駆け寄る。
「大丈夫ですか、お客さん」
声をかけられた男は、呻きとも返事ともつかない音を漏らすだけだ。
会計を済ませ、逃げるように店を出る。
外の空気は冷たく、頬に張り付くようだ。
歩きながら振り返ると、店の中では店員が男に声をかけているのが見える。
救急車でも呼ぶのだろう。
薬物か何かかもしれない、と勝手に結論づけて、それ以上考えるのをやめる。
自宅までの帰り道、コンビニ袋を提げた手が微かに震えているのに気づく。
腕を掴まれた瞬間の、指の力。
思い出すと背筋に嫌な感触が走った。
家に戻り、鍵をかける。
玄関で靴を脱ぎながら、まだ抜けきらない怠さを感じる。
ワクチンを打ってから三日、高熱でほとんど寝込んでいた。
起き上がれるようになったのが昨日だ。
カップ麺に湯を注ぎ、三分待つ間におにぎりの封を開ける。
スマホの通知欄には、見慣れたアイコンが並んでいる。
食べ終える頃には、瞼が重くなっていた。
容器を流しに置き、照明を落とす。
窓の外で遠くサイレンが鳴っている気がしたが、気のせいだろうと目を閉じた。
目が覚めると、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。
スマホを手に取ると、ニュース速報が何件も積み上がっている。
「原因不明の集団パニック、市内で相次ぐ」「暴行事件、注意呼びかけ」
見出しをタップする。
中身は驚くほど薄い。
目撃者の証言と、ぼやけた映像が並んでいる。
「……デマだろ」
別のアプリに切り替える。こちらは打って変わって騒がしい。
「噛まれたら人が変わる」「もう感染してる奴がいる」
出所不明の動画がいくつも流れてきては、拡散数だけを伸ばしていく。
どれも画質が粗く、決定的な瞬間はいつも画面の外だ。
昨夜の男の顔が一瞬よぎった。
スマホを伏せる。
クローゼットの奥から、例のケースを引っ張り出す。
送り主不明のまま届いたドローン一式だ。
同梱の専用機材にも目が留まる。
今はスマホと繋げば十分だろうと、開封もせず脇に置く。
起動スイッチを入れる。プロペラが低い音を立てて回り始める。
二階の窓から飛ばし、上空の映像をスマホに表示させる。
行き交う車。
歩道を歩く人影。
『対象を捕捉。人間、二十七。異常なし』
合成音声だった。抑揚がない。
「……喋るのかよ、これ」
『……』
返事はない。
「拍子抜けだな」
旋回させながら、ふと部隊にいた頃を思い出す。
治験薬の投与、原因不明の発熱、そのまま除隊。
あの時の熱と今回のワクチンの熱は、時期も症状も違う。
無関係のはずだ、と自分に言い聞かせる。
除隊後、自宅に届いたのがこのドローン一式だった。
差出人の記載はどこにもない。
理由は今もわからないままだ。
ドローンを着陸させ、電源を落とす。
過去を掘り返しても答えは出ない。
「……腹減ったな」
冷蔵庫の中身は心許ない。
水も缶詰も切れかけている。
上着を羽織り、財布とスマホを掴む。
玄関で靴を履きながら、窓の外を一瞥する。
空はよく晴れている。
世界の終わりが始まっているようには見えない。
車に乗り、走り出す。
ホームセンターの駐車場は、いつもより空いている。
ジムニーを端に停め、エンジンを切る。
降りてドアを閉めると、軽自動車にしては無骨なフロントマスクが目に入る。
道さえ選ばなければどこへでも行ける、というのがこの車の取り柄だ。
店内に足を踏み入れると、普段の休日より人影がまばらだ。
レジには数人並んでいるだけで、通路もがらんとしている。
「まあ、平日の昼だしな」
独り言を漏らしながらカートを押す。
水の二リットルケースを二つ、カートに積む。
缶詰の棚でツナとサバの味噌煮を適当に見繕い、電池とカセットボンベをまとめてカゴに放り込んでいく。
「単一もいるか。ラジオ、あれ単一だったよな」
用途も曖昧なまま、パックを一つ追加する。
懐中電灯コーナーに寄ると、値札にルーメン数がでかでかと書かれている。
USB充電式の棚が目立つ位置に並んでいるが、素通りする。
「充電式は、そのうち詰む」
誰に言うでもなく呟いて、パッケージを裏返す。
このルーメン、明るすぎだろ――。
大型を一本、小型を二本、カゴに放り込む。
カートが徐々に重くなっていく。
品揃えを眺めながら、ふと妙な高揚感が湧いてくるのに気づく。
まるでサバイバル映画の主人公にでもなったような気分だ。
「災害用備蓄、って言い訳にしてはちょっと張り切りすぎだな」
自嘲気味に呟きながら、工具コーナーへ足を向ける。
壁に並んだ工具類の中に、バールが掛かっているのが目に入る。
手に取ってみると、ずしりとした重みが手のひらに伝わる。
「まあ、車のタイヤ交換くらいには使えるか」
自分に言い聞かせるように呟いて、カゴに入れる。
続いてスポーツ用品のコーナーへ移動し、バットを一本選ぶ。
釘バット、という単語が一瞬よぎる。いや無理だろ。
金属バットをカゴに入れて、レジへ向かう。
会計を済ませ、カートを押してジムニーまで戻る。
荷物を後部座席とラゲッジに積み終え、空になったカートをカートスタンドへ押していく。
カートスタンドまであと数歩というところで、横合いから人が現れる。
避けきれず、肩がぶつかる。
「あ、すみません」
反射的に頭を下げる。
相手は中年の女性だ。
買い物袋を提げたまま、その場に立ち尽くしている。
顔を上げたところで、何かが引っかかる。
女性の目に焦点がない。
虚空の一点をぼんやり見つめたまま、動かない。
呼びかけようとした瞬間、女性の体がこちらに傾く。
「ちょ――」
言い終わる前に、腕に鈍い痛みが走る。
噛まれた、と気づくまでに一拍かかる。
「痛って!」
腕を引き抜くと、女性はよろけて後ろに倒れ込む。
買い物袋が落ち、商品が地面にぶちまけられる。
倒れたはずの女性が、すぐに動き出す。
関節の使い方がおかしい。
腕の振り方も、首の傾げ方も。
ぎこちなく体を折り曲げながら起き上がり、こちらへ向かって距離を詰めてくる。
あの目だ。
「……マジかよ」
声が掠れる。
腕を押さえながら後ずさる。
女性はなおも近づいてくる。
迷う暇はない。
腕の痛みを押さえたまま、ジムニーへ走る。
ドアを開け、乗り込み、キーを回す。
エンジンがかかると同時に、サイドミラーに女性の姿が映る。
両手を前に伸ばしたまま、なおもこちらへ向かってくる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込む。
タイヤが軽く軋み、車体が前へ出る。
バックミラーに映る駐車場の光景が、みるみる遠ざかっていく。
信号を無視して交差点を抜ける。
カーラジオが唐突に切り替わった。ノイズ混じりの機械音声。
「緊急放送。政府より発表します。原因不明の暴力行為が市内で――」
声が途切れ、ノイズだけが車内に残る。
信号で停まる。
腕の傷を、初めてまともに見た。
歯形に沿って血が滲んでいる。
押さえていた掌が、赤く濡れていた。
――噛まれたら人が変わる。
画面の中の、出所も分からない文字が浮かぶ。
消毒しないと。
それから病院。
順序を頭の中で並べていく。
ハンドルに手を戻して、気づく。
震えていない。
自分の手を、まじまじと見る。
昨夜、コンビニで腕を掴まれただけのときは震えた。
今は噛まれている。
なのに、何ともない。
おかしいだろ、と思う。思うだけだ。
後ろでクラクションが鳴る。
青信号だった。
キャラ増やしてAI臭減らして作り直しました
前のタイトル忘れました




