2話「スーパー」
玄関の三和土に、靴が二足並んでいる。
「屋内二件。奥の部屋に一件、廊下に一件」
バールに持ち替える。
バットは音が大きすぎる。
上がり框を跨ぐと、饐えた匂いが鼻をつく。
生ゴミの匂いと、それだけではない何かが混じっている。
廊下の突き当たりに、背を向けて立っている。
壁に向かったまま、動かない。
足音で振り返る。
振り返りきる前に、叩き潰す。
エプロンをつけていた。
妻だったのだろう。
奥の部屋の襖が、半分開いている。
介護用のベッドが窓際に置かれている。
柵の上がったままのベッドの上で、痩せた体が身を丸めていた。
手首に巻かれた抑制帯が、動くたびに軋む。
襖の音で、こちらを向く。
跳ねる。
抑制帯が引き絞られ、ベッドの脚が浮くほどの力で暴れ出す。
骨の細い腕が、革のベルトを軋ませ続けている。
自分の手首が千切れるかどうかなど、勘定に入っていない動き方だ。
柵の上から、振り下ろす。
一度で済む。
静かになった部屋で、ベッドの脚がまだ小さく揺れている。
部屋を出る。
台所の食卓に、湯呑みが三つ並んでいた。
どれも中身が半分ほど残ったまま、埃が浮いている。
そこで、手が止まる。
何を考えようとしたのか、自分でも分からない。
三つ、と数える。
数えたところで、湯呑みから目を離す。
「反応、消失。屋内クリア」
「……ああ」
もう回覧板は回ってこないな。
自宅の外階段を上がる前に、ガレージ脇の立水栓でバールを洗う。
赤黒いものが、コンクリートの上を伝って側溝へ流れていく。
水がまだ出るうちにやっておきたい。
蛇口の脇の固形石鹸で、手を洗う。
爪の間まで洗う。
外階段を上がり、二階の玄関に入る。
鍵をかけ、チェーンもかける。
コップに水を汲んで、一息に飲む。
「偵察はどうだ」
「継続している。範囲を広げるか」
「三百まで」
画面が引いていく。
「八件。いずれも移動なし」
昨日までなら、この数字だけで安堵していただろう。
動いていないというだけでは判断がつかない。
死んでいるのか、まだ息をしているだけなのか、この距離では分からない。
「近いのを先に潰す。歩きだ」
「了解。上から見ている」
角を二つ曲がれば、あのコンビニだ。
昼でも夜でも、必要なものはだいたいそこで足りていた。
歩いて数分の距離を、バール一本提げて歩く。
道に人はいない。
電柱に貼られたままの選挙ポスターが、風で端をめくらせている。
看板が見えてくる。
昼間なのに、店内の蛍光灯がついたままになっている。
駐車場に、一体だけいる。
白線の内側を、ゆっくりと横切っていく。
行き着いた先で立ち止まり、また向きを変えて戻ってくる。
同じ幅を、何度も往復しているらしい。
「動体反応、一件。移動速度、毎秒〇・四メートル」
足が止まる。
雑誌コーナーで、背を向けたまま動かなかった男だ。
あの夜、腕を掴んできた。
振り払ったとき、崩れたカップ麺の山の音まで思い出せる。
まだここにいる。
三日近く、ここから離れなかったのか。
「知り合いか」
「……知り合いのようなもんだ」
名前も知らない。
知っているのは、指の力の強さだけだ。
距離を詰める。
男がこちらに気づいて、向きを変える。
あの夜と同じ動きで、両手が上がる。
振り下ろす。
一撃で終わる。
あの夜、振り払うのにあれだけ力を使った腕が、今は何の抵抗にもならない。
バールの先を、倒れた男の服の裾で拭う。
汚れたままにしておきたくない、というだけの話だ。
自動ドアの前に立つ。
センサーは反応しない。
電気は生きているはずなのに、と思いながら、隙間に指をかけて押し開ける。
棚は倒れ、床に値札が散っている。
水も食料もほぼ空、残っているのは缶コーヒーが数本と雑誌程度。
いなり寿司の空きパックが床に散らばっているが、中身はどこにもない。
誰かが根こそぎ持ち去った後の店内は、静かすぎて逆に落ち着かない。
「回収率が高すぎる。統計的に不自然」
キーロンが言う。
「争った跡もない。誰かが先に、静かに持ち去った可能性がある」
「組織的にってことか」
「断定はしない。可能性の一つとして記録する」
レジのドロワーが引き出されたまま空になっている。
硬貨だけが小銭入れに残り、紙幣がきれいに抜き取られている。
指で底をなぞって、それだけで興味を失う。
雑誌コーナーの前を通る。
崩れたカップ麺は、そのままになっている。
誰も片づけなかったのだろう。
その山を跨いで、奥へ進む。
バックヤードを覗く。
制服のまま、壁にもたれて座り込んでいる。
床に染みが広がっている。
腕にも首にも、噛まれた跡がいくつもある。
顔を上げる。
あの夜、奥から飛び出してきた店員だ。
大丈夫ですか、と男に駆け寄っていった。
立ち上がろうとして、脚がもつれる。
それでも壁に手をついて、こちらへ向かってくる。
振り下ろす。
崩れた体が、また元の位置に戻るように壁際へ滑り落ちる。
バールの先を見る。
駐車場で拭ったばかりだ。
舌打ちが出る。
結局また洗うことになる、それだけの理由で。
棚のペーパータオルを一束抜き取って、拭いてから店を出る。
「スーパーに行くか」
小さい店を何軒も回るより、一回で片づけたい。
燃料も時間も惜しい。
口にしてから、自分でも迷っていなかったことに気づく。
「判断が早い」
キーロンの声に、わずかに含みがある。
「振りかぶるまで、二秒」
「早いに越したことはないだろ」
「駐車場では、三秒かかっていた」
返す言葉を探して、見つからない。
帰り道の途中、キーロンの言葉が妙にはっきり残る。
家に戻り、ガレージのシャッターを上げる。
ジムニーのエンジンをかけ、畑の間を抜けて幹線道路に合流する。
数日前まで軽トラが行き交っていた道に、今はまるで車がいない。
潮の匂いが強い。
窓を少し開けると、生ぐさいものの混じった風が入ってくる。
路肩には乗り捨てられた車が点々と放置されている。
ドアが開けっぱなしのもの、追突したまま止まっているもの。
中を覗く気にはならない。
信号は、誰もいない交差点で律儀に色を変え続けている。
しばらく走ると、看板のやけに明るいスーパーの建物が見えてくる。
大きな駐車場を挟んで、店の入口は思ったより遠い。
駐車場に入った瞬間、キーロンの声が変わる。
「反応十一。密集」
見渡すと、乗り捨てられた車の間からゆっくりと立ち上がる影がいくつも見える。
発生初期、ここに人が集まっていたのだろうと察しがつく。
入口の庇の下まで後退し、ガラス戸を背にする形で足を止める。
来る方向は、ここしかない。
バールを握り直す。
数を捌く動きに切り替える。
一体、また一体、狙いを外さず倒していく。
振り下ろす。
崩れる。
次へ。
横から回り込もうとした一体に、間一髪で振り向きざま合わせる。
息が上がり始めた頃、ようやく数が尽きる。
呼吸を整えながら、周囲をもう一周見る。
倒れた相手より、まだ立っている相手を探す。
崩れていく体の大半は老人か中年で、若い顔は一つもない。
統計として知っていたものが、今は足元に転がっている。
最後の一体を沈めたところで、背後で自動ドアが開く。
分厚いガラス戸が、駐車場の音を締め出していたらしい。
棚は倒れていない。
商品もほとんど手つかずのまま整然と並んでいる。
発生から何日も経っているとは思えない、そのままの光景だ。
カートを引っ張り出す。
車輪が乾いた音を立てて転がる。
精肉・鮮魚コーナーからは、饐えた臭いが漂っている。
パック越しにも分かる変色を横目に、その通路には入らない。
青果コーナーも大半が萎びて溶けかけているが、りんごや柑橘は、まだ形を保っている。
棚を素通りし、缶詰と乾物の並ぶ通路へ向かう。
欲しいものを全て詰め込んでいく。
生活のために本当に必要なものと、そうでないものの境目が、途中からもう曖昧になっている。
誰にも見咎められない、というだけでこんなに軽くなるものかと思う。
果物コーナーでリンゴを一つ掴む。
手のひらで軽く拭ってから、そのままかじりながらカートを押して回る。
店内には、咀嚼する音だけが響く。
冷えてはいないが、水気が旨い。
これが最後の一個になる日も来るのだろうな、と思いながら芯まで齧る。
「もったいないな」
誰に言うでもなく呟く。
外にゾンビの群れが転がっている店内で、リンゴをかじりながらカートを押している。
酒コーナーで、見慣れたジムビームの瓶に手が伸びる。
値段を確かめもせず、当たり前のようにカートへ落とす。
その横、箱入りの一本が目に留まる。
値札の桁が明らかに違う、普段なら手に取ることもない品だ。
今ならいいか、と抜き取ってカートに入れる。
菓子コーナーでは板チョコの棚をまるごと両手で抱え込む。
高級チョコの包装が積み重なってカートから溢れる。
「今さら節約してもな」
独り言のつもりで零す。
返事はない。
キーロンは在庫リストの更新と経過時間の報告を淡々と続けるだけで、軽口にも茶化しにも反応を返さない。
「賞味期限、平均で四百二十日残存」
「聞いてない」
「記録として発言している」
数字だけを並べる声は、こちらの気分などまるで関知していないかのように平坦だ。
カート二台分を積み終え、ジムニーのラゲッジに押し込む。
タイヤが沈むほどの重さになったラゲッジを見て、満ち足りた息を吐く。
リンゴの芯を放り投げ、運転席に手をかける、そのとき。
近くで、女の悲鳴が聞こえる。
若い声だ。
恐怖でひしゃげてはいるが、叫びというより、助けを呼んでいる響きに近い。




