35話「笹川」
帰り道を変えた先は、瓦礫の積もった路地だった。
ジムニーが、その隙間を縫うように進んでいく。
変えた経路は、屋根に見張り台を組んだ公民館のそばを通る。
キーロンに、その周辺の熱源を監視させていた。
助手席の菱沼は、頬杖をついて窓の外を見ていた。
ふと、その頬杖が外れる。
「……止めてください」
「何だ」
「あそこ、瓦礫の陰」
指差す先、崩れたコンクリートの隙間から、足が一本だけ覗いていた。
動かない。
速度を落とし、その足を見る。
やがて、ブレーキを踏んだ。
「報告がなかったな」
「対象は単独で、熱源の動きもほとんどない。移動できない状態と判断し、報告から外した。死にかけの一人に進路を割くのは、効率が悪い」
「見つけたのは私です」
言うなり、菱沼は先に車を降りた。
瓦礫に近づくと、男が一人、力なく倒れていた。
肩口の服が、血で黒く固まっている。
菱沼が身をかがめる。
瞼が薄く開き、濁った目がこちらを捉えた。
震える腕が、鞘から刀を抜いていく。
「来るな……」
喉の奥で、男が唸る。
焦点が、こちらと菱沼の間を行き来していた。
定まらない切っ先が、こちらへ向けられる。
菱沼の半歩後ろで、剣鉈の柄に手を添えた。
いつでも割って入れる距離だ。
菱沼は動じなかった。
懐から筒を取り出し、口元へ当てる。
短く、息を吐く音。
男の目から力が抜けた。
刀を握ったまま、前のめりに崩れ落ちる。
「クーゲルシュライバー、よくやりました」
菱沼が、小さく胸を張った。
二人がかりで男を後部座席に押し込み、モールへ向けて車を出す。
瞼を開けると、知らない天井があった。
肩に、鈍い痛みがある。
指先で触れると、包帯の感触があった。
体を起こそうとして、呻く。
白装束、矢、逃げた記憶が、切れ切れに戻ってくる。
視線を巡らせた先で、見覚えのない女がパイプ椅子に腰掛けていた。
「あ、やっと起きた。丸一日寝てましたよ」
軽い声だった。
その女を、睨みつける。
「誰だ、てめえ」
「質問はこっちが先です」
「答えになってねえだろうが」
上体を起こし、腕に刺さった点滴の管を引きちぎる。
寝かされた場所にも、体を触られたことにも、何一つ覚えがない。
「勝手に運んで、勝手に触りやがって」
ベッドの脇に、刀が立てかけてあった。
手を伸ばす。
「返せ、それは俺の――」
伸ばした手より早く、女が刀を蹴り飛ばした。
床を転がった刀を、そのまま足で踏みつける。
「駄目です。治るまで、これは没収です」
女が、ふと真顔になった。
「そもそも、眠らせて運んで治療したのは私です。わ、た、し、が、助けたんです。わかりますか」
舌打ちして、震える足で立ち上がった。
「舐めてんじゃねえぞ」
肩を怒らせて詰め寄ろうとした膝が、力なく崩れかける。
足元で、低い唸り声がした。
見下ろすと、片耳の欠けた茶白の猫が毛を逆立てている。
女の前に立ちはだかったまま、動かない。
「……悪かった」
肩から、力が抜けていった。
「その猫、下げてくれ。頼む」
女はしばらく黙って見下ろしていた。
やがて、猫の背を一撫でする。
唸り声が止んだ。
その頃、笹川を助手席に乗せて、ジムニーを走らせていた。
笹川が、防弾チョッキの留め具を確かめている。
窓の外、崩れかけたビルの合間を、ドローンが低く抜けていく。
「ドローンの映像を共有する」
笹川の膝のタブレットに、俯瞰の映像が映った。
見覚えのある通りだ。
崩れたバリケードに、散らばった机と椅子。
「……あそこ」
笹川の声が低くなる。
以前訪れた、中学校の避難所だった。
黙って、ハンドルを切った。
校門の前で、エンジンを切った。
虫の羽音しか聞こえない。
崩れたバリケードの隙間から、腐敗臭が流れてくる。
校庭の土には、タイヤの跡が何重にも弧を描いていた。
笹川が真っ先に足を踏み入れ、すぐに動きを止めた。
視線の先は、校庭の中央だ。
木の柱に縛りつけられた死体に、矢が何本も突き立っている。
急所を外れたものが多い。
その奥、体育館の鉄骨から、別の死体がぶら下がっていた。
風もないのに、わずかに揺れている。
校舎の壁際には、原形をとどめない亡骸が一つ。
刃物の跡ではない。
素手か鈍器で、滅多打ちにされていた。
「……クソが」
笹川が呻き、傍らの瓦礫を思い切り蹴った。
崩れた煉瓦が、乾いた音を立てて転がる。
「何なんだよ、これ」
もう一度、蹴る。
声が掠れていく。
敷地のあちこちに、死体が転がっていた。
それをまたぎ、昇降口の崩れた棚に目を向ける。
空の缶詰の箱が、いくつか残っているだけだ。
振り返ると、笹川はまだ校庭にいた。
転がる死体を、一体ずつ見て回っている。
「物資は残ってない。行こう」
笹川が振り返り、口を開きかけて、閉じた。
その言葉を待たず、ジムニーへ足を向けた。
中学校を離れ、帰り道に戻る。
走り出して間もなく、キーロンが割り込んだ。
「二キロ先の保育園に、避難者が立てこもっている。その周囲に複数の熱源反応があり、武装集団による襲撃が進行中だ」
「バイク集団か」
「マッドマックスの可能性が高い。複数のバイクの排気音を確認している」
ハンドルを握ったまま、少し考えた。
フロントガラスの先に、崩れた街並みが続いている。
ジムニーを、路肩に寄せた。
「笹川」
振り向いた笹川と、目を合わせる。
「お前はどうしたい」
笹川が、一瞬息を止めた。
その視線が、一度だけ後ろへ流れる。
中学校のある方角だった。
「行きます」
「戦闘の準備をしろ」
言いながら、もうハンドルに手を戻していた。
保育園の五百メートルほど手前、見つからない位置に車を停める。
そこからは、徒歩で近づいた。
崩れたブロック塀の陰から覗く。
園庭のフェンスが破られ、園舎の外壁沿いに人影が散っていた。
十数人、いや、それ以上か。
怒号、悲鳴、何かが割れる音が続いている。
中の住民が数人、小さな椅子や消火器を投げつけて応戦していた。
バリケード代わりの机が倒れ、その隙間からマッドマックスの一人が躍り込む。
鉄パイプが振り下ろされ、悲鳴とともに机の陰へ人が崩れた。
別の一人は窓から侵入しようとして、
中から防犯用の刺股で押し返されている。
押し返す側の声が、次第に間遠になっていく。
「陽動を頼む」
短く言う。
「あっちの角から一発撃って、注意を引いてくれ」
笹川が頷き、散弾銃を構えた。
ブロック塀を回り込み、物陰から物陰へ、気配を殺して敵の死角へ先回りする。
蓮さんの背中が、ブロック塀の向こうへ消えた。
身を低くして、言われた角まで走る。
電柱の陰に膝をつき、散弾銃を構え直した。
園舎の外壁までは、三十メートルほどだ。
照準の先には、人間の顔がある。
獣と同じだ。
そう思おうとした。
撃てるのか。
人殺しだぞ。
頭の中で、何かがずっと警告を鳴らしている。
これを引いたら、僕は今までの自分ではいられなくなる。
喉が、勝手に動いた。
右手が胸元へ伸び、鎖を辿って指輪を取り出す。
握った拳を、額に近づけた。
「遠藤さん、俺は」
声が震える。
「俺にも」
言葉が途切れたところで、指が引き金を絞っていた。
重い破裂音が、路地に跳ね返る。
鉄パイプを提げた男が、横倒しに崩れた。
気づけば、もう次に狙いを移していた。
二発目。
窓に取りついていた男が、仰向けに落ちた。
園舎へなだれ込んでいた連中が、背後からの銃声に動きを止めた。
誰に撃たれたのか分からないまま、視線が泳いでいる。
怒鳴り声に、怯えが混じる。
その隙間に、蓮さんが飛び込んだ。
銃身を折り、空薬莢を弾き出す。
次の二発を押し込み、銃身を戻した。
一人が、こちらへ銃口を振り向けようとしていた。
先に引き金を引く。
反動で肩が跳ね、男の体が塀に叩きつけられた。
四発目は、バイクに跨がろうとした男の背中を捉えた。
また銃身を折る。
撃つ、撃つ、折る、弾く、詰める。
指だけが、覚えた手順をなぞっていた。
最初の一人は、長バールの一振りで頭が砕けた。
血の飛ぶ軌道が、打つ前から見えている。
浴びない位置を選びながら、次を打つ。
二人目は、横薙ぎ。
肋骨の折れる感触が、柄を通して腕まで伝わる。
崩れ落ちる前に、三人目の喉元へ長バールの先端を突き入れていた。
骨の砕ける音。
崩れ落ちる重み。
鉄パイプを振りかざした男が、正面から突っ込んでくる。
半歩だけ体をずらし、パイプごと腕を叩き折った。
悲鳴が上がる前に、二撃目でこめかみを潰す。
避けきれなかった飛沫が、頬と首筋に散った。
背後に、刃物を構えた気配があった。
振り向かず、肘だけを後ろへ突き出す。
鼻の潰れる音とともに、相手が地面に転がった。
悲鳴が上がる。
次、また次と、手は止まらない。
息は、少しも上がっていなかった。
残った数人が、互いの背を庇うように輪を作る。
塀の角から銃声が鳴り、その一人が膝から崩れ落ちた。
輪が崩れる。
バイクのエンジンが唸り、数人が逃げ出していく。
そちらへ視線は向けたが、足は動かさなかった。
足元の死体の服に、長バールをこすりつける。
塀の角へ向かうと、笹川は散弾銃を握ったまま立ち尽くしていた。
足元に、空薬莢が散らばっている。
肩が、細かく震え続けていた。
「遠藤さん、俺はやりました」
銃を握った指は、固まったまま離れない。
「俺にも、出来たんです」
唇だけが、同じ言葉を繰り返している。
体は、まだ動いていなかった。
隣に立つ。
「終わった」
笹川の手に触れ、銃を握る指を一本ずつ、ゆっくりと外していく。
笹川は、何も言わなかった。
肩を支えてジムニーまで歩かせ、助手席に座らせる。
一人で、保育園へ引き返した。
園舎の中は、静まり返っていた。
怒号も悲鳴も、もう聞こえない。
入口に立つと、数人の住民がこちらを窺っていた。
武器を構える者はいない。
「何があった」
やがて、中年の男が一歩前に出た。
「……昨日から、様子のおかしい連中がうろついてた」
「マッドマックスか」
「名前なんか知らねえよ」
男の視線が、こちらの手元に落ちる。
長バールの先に、拭いきれない血がこびりついていた。
「……早く行ってくれ」
男の後ろで、女が子供を抱き寄せ、じりじりと後ずさる。
誰も、目を合わせようとしなかった。
男を見据える。
「俺たちがお前らを助けた。それは分かってるな」
男が喉を鳴らし、小さく頷いた。
「血を拭う水をよこせ。あとは、安全な道筋とスカイリンクが使える施設だ。知ってることを話せ」
男が目を伏せ、首を横に振る。
「そんな大層な話、うちみたいなとこじゃ何も……」
「本当か」
男の目が泳いだ。
知らないのか、知っていて言わないのか、判別がつかない。
それ以上は、何も聞かなかった。
受け取った水をタオルに含ませ、頬と首筋に散った血を拭う。
汚れが完全に消えるまで、何度も水を足して繰り返した。
ジムニーへ戻ると、助手席の笹川はまだ放心していた。
後部座席から缶コーラを一本取り、押しつけるように渡す。
「飲め」
笹川が、震える手でプルタブを起こし、口をつけた。
炭酸の弾ける音が、しばらく車内に響いていた。




