34話「菱沼」
銃声が空気を裂いた。
硝煙の匂いが、鼻先を掠めて流れていく。
二十メートルほど先の一体は、まだ立っている。
顎を落としたまま、音のした方へ腕を伸ばしてきた。
空きテナントビルの前は、モールの周りよりいくらか静かだ。
銃声を響かせても、寄ってくる数が知れている。
それで、練習場所にここを選んだ。
「うわ、感覚忘れてる」
笹川が薬室を開け、空薬莢を落としながら顔をしかめた。
「肩、痛ぇ」
しばらく実戦から離れていたせいか、次弾も外れる。
構え直すたび、キーロンが淀みなく指示を重ねた。
重心の位置、反動を受け流す肩の角度、銃口の戻し方。
「反動制御は依然として未達成だ。肩の入れが甘い。言い訳はいらない、姿勢を直せ。撃ち方、始め」
「サー、イエッサー。新兵笹川、いきます」
立て続けの指摘に、笹川が銃口を下げたまま振り返ってみせる。
キーロンはそのノリを拾わず、次の指示に移った。
「狙点をもう少し下げろ。今のは風でも反動でもない、単にお前が上を向いている」
「そこは乗ってくださいよ」
期待した反応が返らず、笹川が一人で肩を揺らした。
少し離れた場所に腰を下ろし、ジムビームの瓶を傾けた。
口を挟むつもりはない。
昼前の日差しが、足元のガラス片を白く光らせている。
数発重ねるうちに、笹川の腕が勘を取り戻していく。
弾が頭部を捉え、ゾンビが膝から崩れた。
笹川が拳を突き上げ、子供みたいに喜ぶ。
「よくやった、ウジ虫」
「今かよ」
ぼそりと乗ってきたキーロンに、笹川の声が裏返った。
「どうです、今の。三発目から完璧だったでしょ」
答える代わりに、空になった瓶を投げた。
瓶は笹川の脇を抜けていく。
物陰から這い出てきた一体の頭部を打ち砕き、乾いた音を立てて割れた。
「……ちょっと待って。今の、瓶だよね」
笹川が銃口を下げ、倒れたゾンビと足元で割れた瓶を順に確かめる。
「射撃訓練の最中に瓶で仕留めるの、おかしいでしょ」
「何かもう、やる気なくなりました」
「次の個体に向けて構えろ、新兵。同じ方向から四体来ている」
「切り替え早すぎ」
昼前に練習を切り上げ、モールへ戻る。
昼食を済ませてから薬箱を後部座席に積み込み、運転席で待った。
助手席に乗り込んできたのは、笹川ではなく菱沼だった。
「たまには外に出ないと、腰にカビが生えるところでした」
「笹川さんはお休みです」
車が走り出すと、菱沼は膝の上の吹き矢一式を掲げてみせる。
「クーゲルシュライバー。私の武器が火を噴く時が来ました」
「今日はそれの出番じゃない」
「分かってますよ。主役は後ろの薬箱でしょう」
菱沼が後部座席を振り返り、胸を張る。
窓の外を流れる景色に、以前より数を増したゾンビの姿が混じる。
菱沼の口数が、ふと途切れた。
ニコニコマートに着くと、前回と同じくスピーカー越しに誰何された。
「頼まれた薬だ」
短く告げる。
しばしの沈黙のあと、門があっさり開いた。
内側には、露店と焼肉とドラム缶の酒場の賑わいが広がっている。
脂の焦げる匂いに、菱沼の目が輝いた。
「あら、これ何のお肉かしら」
ふらふらと店先へ吸い寄せられていく背中に、釘を刺す。
「はぐれるなよ」
右から左へ抜けているらしい。
「菱沼聖子の警戒レベルは著しく低い。監視対象を一人追加する」
「心配してるのか」
「はぐれた人員の捜索、負傷した場合の治療、最悪の場合は代わりの医療要員を探す手間まで含めれば、監視対象を増やす方が結果的に効率がいい」
戻ってきた菱沼が、串を一本差し出してくる。
「鶏だと思ったんですけど、骨の形が違うんですよね」
「食ってから言うことか」
「食べてから分かることもあります」
奥のホームセンター跡で、カウンター越しにロックと向き合う。
薬箱を並べると、ロックが一つずつ手に取った。
値踏みしては、安く見積もっていく。
菱沼の顔つきが変わった。
「安すぎます」
一歩詰め寄り、薬品名を挙げながらまくし立てる。
抗生剤の名前、鎮痛剤の一般名、消毒液の濃度。
ロックの手が止まった。
「効能も、希少性も、今の流通量も分かってるんですか。使用期限だって、まだ十分に――」
早口が、そこで途切れる。
「今じゃもう、簡単には手に入らないんですよ。これがあったから、赤ちゃんも無事に産まれて……」
言葉が止まった。
目元がふっと緩み、涙がこぼれる。
菱沼自身が、驚いた手つきで自分の頬を拭った。
ロックが煙草をくわえたまま、一瞬たじろぐ。
「いや、悪かった。こりゃ確かに貴重だ、うんうん」
査定が、大きく上乗せされた。
「スカイリンク、使える場所を知らないか」
ロックが煙を吐き、思案顔になる。
「うちみたいな半端な所じゃ無理だが……市庁舎は、まだ公務員どもが仕切ってる。今もこの街で唯一、人権とやらが通用してる場所だ。お前の望みも、案外そこで叶うかもしれんぞ」
「他には、どんな連中がいる」
ロックが指を折りかけ、途中でやめた。
「どいつもこいつも、似たようなもんだ」
白装束の話になった途端、声の調子が変わる。
足元に、唾を吐き捨てた。
「あいつらだけは別だ。狂ってる。はっきり言って、近づくだけ無駄だ」
それきり、ロックは話を切り上げた。
露店で生鮮食品を必要な分だけ買い付け、帰路につく。
「帰り道まで同じなんて芸がありません。飽きました、変えましょう、早く」
助手席の菱沼が、何度も繰り返す。
ハンドルを切った。
トラックの荷台は、いつも煙草の煙で濁っている。
その煙が、幌の隙間から流れ込む風に攫われていった。
膝に立てた刀の鞘を、指の腹で撫でる。
「おい銀二、お前も一杯やるか」
前の座席から瓶が突き出され、首を振って返した。
誰かの下ネタに誰かが乗っかり、また誰かが茶々を入れる。
いつものくだらない空気に、俺は入れない。
誘われないわけじゃない。
誘われても、薄い膜を一枚挟んだような距離が消えないのだ。
組を失ってから、ずっとそうだった。
組長は、噛まれた翌日には俺の名前も忘れていた。
濁った目で若い衆に食らいつこうとしたのを、仕留めたのは兄貴だ。
本当は、俺がやるべきだったと今でも思う。
その兄貴も、じきに同じものになって死んだ。
あの人が生きてりゃ、こんな連中の下でくすぶってねえよな。
そこまで考えて、灰を弾く。
トラックが、速度を落とした。
視界の先に、人だかりがある。
白装束の連中だ。
縄で縛った数人の男を、白いワンボックス車の後部へ押し込もうとしている。
縛られた男たちは、抵抗する体力もないのか、引きずられるままだ。
「見るな、通り過ぎるぞ」
運転席から低い声が飛び、誰も文句を言わない。
当然のように、視線が逸れていく。
俺だけが、逸らせなかった。
押し込まれる男の一人と、目が合う。
助けてくれとも、もう諦めたとも取れる、濁った目。
――ああ、くそ。
気づいたときには、荷台から飛び降りていた。
鞘から抜いた瞬間、走行音も風の音も遠くへ退く。
残るのは、自分の呼吸と、地を蹴る足音。
一閃。
白装束の首筋が開き、生温かい飛沫が頬に散った。
崩れ落ちる音を背に、体はもう一人へ向いている。
振り向かれる前に、袈裟。
骨を断つ手応えが、柄を通って腕まで伝わってきた。
残った連中は、悲鳴を上げてワンボックス車へ逃げ込んだ。
タイヤが砂利を撥ね、白い車体が角の向こうへ消える。
縄をほどいてやると、男たちが呆然とこちらを見上げた。
その顔に礼の言葉が浮かぶより早く、背後から怒鳴り声が飛んだ。
「てめえ、何しやがった」
振り返ると、額に汗を浮かべた男が、顔を真っ赤にして詰め寄ってくる。
「あの宗教にだけは手を出すなと、あれほど言ったはずだ」
「知るかよ、あんな……」
「知るかじゃねえんだよ」
胸ぐらを掴まれ、汗と煙草の臭いが鼻先まで迫った。
掴んだ指が、細かく震えている。
怒りなのか、恐怖なのかは分からない。
「お前はもう、うちの人間じゃない」
男は俺の装備を半分取り上げ、そのまま踵を返した。
誰も、名前を呼ばなかった。
トラックのエンジン音が、遠ざかっていく。
残った刀の柄を、握り直す。
助けた男たちが、すがるような目でこちらを見ていた。
誰も、何も言わない。
俺も、何も言えない。
「……とりあえず、住んでたとこまで送ってやるよ」
力なく歩き出した背中を追う。
一人が指した方角に、瓦礫で塞がれた小さな公民館があった。
屋根の上に、材木を組んだ見張り台が突き出している。
出てきた住民たちの顔に、喜びの色はない。
誰かが後ずさり、誰かが白装束の来た方角へ怯えた視線を投げる。
「なんで、連れてきた」
掠れた声。
言い終わるより早く、見張り台から矢が放たれた。
矢は先頭にいた一人の胸を貫き、男は声もなく崩れ落ちる。
残りの数人が、悲鳴を上げて散り散りに逃げ惑った。
二の矢が、こちらへ迫る。
肩を掠め、熱さより先に痺れが走った。
「な……」
言葉にならないまま、身を翻して駆け出す。
背後から怒声、矢羽根が空を切る音、路地を折れる自分の足音。
瓦礫を跨ぎ、息が上がりきるまでひたすら走った。
追っ手の気配が薄れても、足は止まらない。
助けたのに、死んだ。
庇ったのに、独りだ。
肩から流れる血が、思っていたより多い。
服の内側が、じっとりと重くなっていく。
視界の端が滲み始めた頃、膝から力が抜けた。
瓦礫の陰に、体が崩れ落ちる。
背中に伝わるコンクリートの冷たさが、やけにはっきりしている。
乾いた笑いが漏れた。
「……これが俺の末路か」
「お似合いだな」
自分で言って、自分で答える。
拾う相手は、どこにもいない。
霞んでいく視界の中、意識がゆっくりと途切れていった。




