31話「追放」
「空気感染だと……こんなところで一緒にいられるか」
威之が吐き捨てた。
朝の食堂は、まだ昨日の重さを引きずっていた。
拓海の椅子には、誰も座らない。
のぞみのガラガラも、棚に置かれたままだ。
誰も箸を進める気になれず、それぞれが黙って器を見下ろしている。
その中で、威之の声が場違いに響いた。
「親父、新渡、部屋に帰るぞ」
光男と新渡が立ち上がる。
三人分の椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
従子だけがその場に残り、空いた器を黙って重ねていく。
守屋が眉を寄せた。
「おい」
「放っときましょう」
笹川が、短く止める。
それ以上、口を挟む者はいなかった。
三人は、そのまま自室に籠った。
「私たちも、危ないんでしょうか」
千鶴が、手を止めずに聞いた。
「今さら防ぎようがないの」
菱沼は洗い物を続けている。
「マスクも換気も、意味がない。私たちはもう何十日も、同じ建物の同じ空気を吸ってる」
「それで何ともないなら、私たちはそういう体なんでしょ」
千鶴が、手を止めた。
「じゃあ、のぞみちゃんは」
「あの子は、免疫を持っていなかったんでしょうね」
誰も、何も言わなかった。
従子は変わらず朝の片付けに出た。
昼の下拵えを手伝い、夜には洗い物までこなす。
その合間に、三人分の食事を盆に乗せて二階へ運ぶ。
いつもと同じ量、いつもと同じ品数。
誰に頼まれたわけでもなく、当然のことのように続いた。
盆を下げてきた従子に、千鶴が声をかける。
「今日も、ちゃんと食べてるみたいですね」
「千鶴さん」
従子が、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「お肉の方が、と主人が言うので」
「それは……私の一存では、決められないので」
千鶴の返事は、そこで途切れた。
二階の部屋からは、時折、言い争いが漏れた。
高くなるのは威之で、光男が窘めるように低く応じる。
新渡は、ほとんど口を開かないらしい。
「あいつらのせいで、俺たちまで」
「だったら、俺たちだけでも」
言葉の途切れ目に、扉の閉まる音が続いた。
廊下を通りかかった垂水が、指に煙草を挟んだまま足を止め、また歩き出す。
「あいつの籠城は」
「無意味だ。だが、本人が納得するまで続くだろう」
四日目の朝、三人が部屋から出てきた。
従子が、蒼の手を引いている。
蒼は寝癖のついた頭で、欠伸を噛み殺していた。
従子の手に引かれるまま、素直に歩いている。
「蒼ちゃん、おいで」
従子の声には、いつもと変わらない響きしかない。
食堂に着いたところで、光男が動いた。
従子から蒼の腕を取り、包丁を首元にかざす。
「守屋さん」
光男の声は、妙に落ち着いていた。
「あんたが責任者だろ」
守屋が、意味を掴みかねたように瞬きをする。
器を持ち上げかけた手が、宙で止まっていた。
誰も、立ち上がらない。
「はあ」
「このモールは、わし達が管理する」
「何言ってんだ、この人」
笹川が、呆れたように顎を上げる。
「あんたの息子が、どうなってもいいのか」
守屋の目が、蒼へ向く。
包丁の刃が、電灯の光を細く弾いていた。
蒼の顔から、ようやく血の気が引いていく。
「蒼」
守屋の声が、低く沈んだ。
「動くなよ、蒼」
「守屋さん、話を聞いてくれ。あんたらは出て行ってくれ。あんたらがいたら、わし達が感染するかもしれん」
光男が続ける。
右手の親指が、刃の根元に近い位置で止まっている。
握りが浅い。
箸を置いて、立ち上がった。
「蓮さん」
笹川の声を背中で聞きながら、ゆっくりと歩き出す。
「あんたの子供が大事なように、わしは家族が大事なんだ。あんたにも分かるはずだろう」
光男の視線が、こちらへ流れる。
すぐにまた、守屋の方へ戻った。
その手に、力の入る様子はない。
距離が詰まる。
光男の右手ごと、包丁の刃を握った。
力を込める。
鈍い音がして、刃が中ほどから折れた。
光男が悲鳴を上げ、柄を放り出してへたり込む。
もう片方の手で、蒼を引き寄せていた。
「蒼」
守屋が駆け寄り、蒼を抱き上げる。
蒼はしばらく声も出さず、守屋の首にしがみついていた。
折れた刃が、床に転がっている。
「痛い、痛い。折れとる、指が折れとる」
光男は右手を抱えて、床に座り込んだまま喚いた。
新渡が慌てて駆け寄る。
どこを見ればいいのか分からず、手が宙で泳いでいた。
威之は一歩下がって、天井の辺りを見ている。
「……やめとけ言うたやんか」
「最初に騒いだんはお前やろが」
親子の声が重なり、そこで急に小さくなった。
従子は少し離れた場所に立ち、成り行きを見ていた。
止めもせず、庇いもしなかった。
「出て行ってくれ」
蒼を腕に抱いて、守屋が言った。
「今すぐだ」
反論の声は、どこからも上がらなかった。
金満家の四人が荷物をまとめる間、共用エリアには誰も近寄らなかった。
通用口へ向かう四人の荷物は、来た時より一回り膨らんでいた。
「開けてみてくださいよ」
笹川が言うと、光男は左手で持ち手を握り直した。
中から出てきたのは腕時計と、値札のついた革のバッグだった。
「これはわしが見つけたもんだ」
「そんなもの、好きなだけ持っていってください」
光男は口を開きかけて、やめた。
バッグを胸に抱え直し、通用口へ歩いていく。
威之は誰とも目を合わせず、新渡はその後ろをついていく。
従子は一度だけ振り返り、誰にともなく深く頭を下げた。
それきり前を向いた。
通用口の鉄扉が閉まる音が、廊下に響いた。
その夜、皆を前にして言った。
「もう、新しい人間は入れない」
異を唱える者はいなかった。
インカム越しに、キーロンが口を挟む。
「居住者は、十四名から七名になった。消費ペースを再計算している。生存可能日数は、約三百日延びた」
それ以上、言葉を継ぐ者はいなかった。
あの騒ぎから、一週間が経っていた。
モールの空気は、少しずつ落ち着きを取り戻している。
その日、館内を見回っていると、キーロンが割り込んだ。
「一体、こちらに向かってきている」
「照合が完了した。過去データとの一致率、九十九パーセント。あの特殊個体だ」
通用口の覗き窓から、外を見る。
離れた場所で、ドローンを見上げている男がいた。
鮮やかなコバルトブルーのスーツに、黄色いシャツ。
仕立てはいいのに、色の合わせ方は大胆すぎる。
それが本人には、やけに馴染んでいた。
「何の用だ」
「やあ、久しぶりだね」
軽い調子だった。
「なんでここが分かった」
「ドローンが飛んでるのを見かけてね。見覚えのある機体だったから、近くに君がいるんだろうと思ったのさ」
男は、肩をすくめてみせた。
「もちろん、僕は悪いゾンビではないよ。僕と君の仲じゃないか、少し中に入れてくれないか」
あの島で一度、言葉を交わしたことがある。
あの時は、名乗り合わなかった。
「あ、僕の名前はオメガ。いい名前だろう、僕が付けたんだよ。君の名を、良ければ教えてくれないか」
「蓮だ」
少し迷ってから、通用口のドアを開けた。
間近で見れば、体温の低さは肌の色で分かる。
それでもリストバンドをかざして、数値を確かめた。
生存者の基準を、下回っている。
人間ではないという証拠は、結局その数値にしかない。
「その服、どこで見つけた」
服に興味を持ったことは、一度もない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「探せばあるものだよ。まだ手をつけられていない場所は、案外残っているものさ」
答えになっていない。
これ以上聞いても、まともな返事は来ないだろう。
昼過ぎの館内に、他の人影はない。
オメガは、モールの中を歩き回った。
棚を眺めながら歩く足取りは、買い物客そのものだ。
眼鏡店では鼻歌を歌いながら、鏡の前でフレームを次々と試していた。
宝飾品の売り場で、足が止まる。
指輪をいくつか手に取っては光にかざし、置いて、また別のものを手に取る。
「それは安物だが、いいのか」
「値段の話をしているんじゃないよ。この留め具、よく見てごらん。噛み合わせがきれいだ、こういうのは長く保つ」
オメガは、それ以上話を広げなかった。
紳士用品のコーナーでは、ステッキと日傘を選んだ。
日傘のタグには、紫外線カット率百パーセントの表記がある。
わざわざそれを選んで持ち上げる姿に、口が勝手に動いた。
「ゾンビも日焼けを気にするのか」
「馬子にも衣装って言うだろう。人は見た目が十割だったかな。ゾンビも綺麗でいるに越したことはないよ」
冗談とも本気ともつかない調子だった。
山高帽を頭に乗せ、鏡の前で角度を調整する。
仕上げに、眼鏡店で選んだ伊達眼鏡をかけた。
鏡の中の姿は、荒れた街を歩く化け物にはとても見えなかった。
フードコートの椅子に、オメガと向かい合って座る。
「学校の時も、病院の時も」
口にするのを、ずっと先延ばしにしてきた問いだった。
「お前が指揮してたのか」
「まさか」
オメガは笑って、首を振った。
「僕にそんな趣味はないよ。指揮なんて、面倒なだけだ。誰かをまとめて動かすなんて、僕には向いてない」
「じゃあ、なんで毎回いた」
「死の影を追ったのさ。誰かが死ぬと、その場所だけ空気が変わる。僕はそれを感じるんだ」
あっさりとした答えだった。
嘘をつく必要すら感じていない口ぶりだ。
「不思議だよね」
オメガは、他人事のように言った。
膝の帽子のつばを、指で撫でている。
「今までに何人食った」
オメガは、少し考えるような間を置いた。
「パンの数なら覚えていないよ。ずいぶん食べたからね」
核心には答えていない。
それでも、はぐらかしているようには見えなかった。
「君も、大きく変わったね」
返す言葉が見つからない。
「僕の肉でよかったら、食べるかい」
冗談だと分かっていた。
だから、軽く鼻を鳴らして流した。
流したはずだった。
視線がオメガの喉元に向いていたと気づいたのは、その直後だ。
皮膚の下に薄く透ける血管の色に、目が吸い寄せられていた。
病院で受けた輸血の記憶が、頭の隅で疼く。
あの時、腕から流れ込んでくる感覚に、安堵したのを覚えている。
それに近い、名前のつかない渇きだった。
オメガの目が、一瞬だけ細くなる。
「いや、冗談だよ」
大げさに椅子を引いて、後ずさる。
「ゾンビも噛まれると痛いんだよ。襲わないでー」
道化じみた仕草だった。
見抜かれたのか、自分の軽口を引っ込めただけなのか、判断がつかない。
オメガが帰り支度を始めたのは、日が傾き始めた頃だった。
山高帽をかぶり直し、ステッキを小脇に挟む。
用意しておいた日焼け止めを、放って渡した。
オメガは片手で受け止め、チューブを目の高さに掲げてみせる。
「気が利くね」
「使うのか使わないのか知らないけどな」
「使うよ、もちろん」
上機嫌な足取りで、オメガはモールの外へ消えていった。




