30話「赤とんぼ」
のぞみがフードコートに顔を出したのは、生まれて十日後だった。
「のぞみです。希望の、のぞみ」
拓海が言うと、テーブルを囲んでいた面々が一斉にそちらを見た。
守屋が身を乗り出して覗き込む。
蒼はその隣で背伸びをしながら、恐る恐る指先を伸ばしていた。
「触っていいの、これ」
「そっとな、そっと」
守屋が、蒼の手首を軽く支える。
芽衣は赤ん坊を抱いて、拓海の隣の椅子に深く腰を沈めていた。
目の下に、薄く隈が浮いている。
拓海はその肩に手を置いて、ずっと同じ姿勢で立っている。
「これくらいしか、僕には残せるものがなかったから」
茶々を入れる者はいなかった。
二日後、金満家が現れた。
祝いだと言って、紙袋を三つも抱えている。
中身は化粧品と香水、それから未開封の高級ブランドのバッグだった。
「これは……」
拓海が、戸惑いながら受け取る。
光男が胸を張った。
「気にするな、百貨店の特選品だ。金に糸目はつけてない」
「いや、でも」
「お会計は、もう済んでるようなものですから」
従子が、横から口を添える。
「遠慮するもんじゃない。子供が生まれたんだ、めでたいことにはめでたいものを贈るのが筋ってもんだろう」
拓海は困り顔で、紙袋を両手で抱え直した。
使い道のない品物が、フードコートの隅に積まれていく。
誰も口には出さないが、視線が微妙に泳いでいた。
少し離れた席から、それを眺める。
「香水三万八千円、バッグ二十四万、化粧品セット五万二千円。合計、三十三万」
キーロンが、淡々と読み上げた。
「大金だな」
「十年後には使える。推定十歳から、化粧品の使用は許容範囲に入る。バッグはランドセルとしての転用も可能だ」
翌朝、フードコートの一角に籠が置かれていた。
寝具店から誰かが運んできたらしい。
拓海がのぞみを抱えて席につくと、守屋がひょいと顔を近づける。
「よう、今日も元気そうやな」
のぞみが手を動かし、守屋の口元が緩む。
隣では千鶴が、乾いたタオルを膝の上で畳んでいた。
枚数が多い。
おくるみも交じっている。
拓海がのぞみを抱え直して、こちらを見た。
「蓮さんも、抱いてみますか」
一瞬、間が空く。
「……首が、まだ据わってないだろ」
首を振り、一歩下がる。
「怖い」
拓海は笑って、腕を引っ込めた。
昼、笹川が配線工具を片手に通りかかる。
目だけをのぞみの方へ向け、何も言わずに過ぎていった。
千鶴が鍋をかき混ぜていると、芽衣がそばに来て野菜を切ろうとした。
横から菱沼が手を伸ばし、包丁を取り上げる。
「無理しないでよねー。その代わり、切るのは私が」
「菱沼さん、それは……」
「やめて。聖子にやらせるくらいなら、私がやる」
二人に同時に止められ、菱沼が唇を尖らせる。
それでも、大人しく包丁を返した。
千鶴が小さく笑う。
芽衣も釣られて笑い、椅子に腰を下ろした。
少し離れた席では、金満家が四人で固まって食事をしていた。
いつもは、誰かへの文句か要求で始まる食卓だ。
今日は、光男がのぞみの方を見て相好を崩している。
「孫みたいなもんだな、これは」
従子が、小さく頷いた。
夜、フードコートに戻ると、守屋が垂水に手を出していた。
「一本でええから」
「めったに吸わんくせに」
「たまにはな。……お前、それいつも何本くらい吸ってるんや」
「数えたことないな」
二人が、短く笑う。
奥の椅子では、拓海がのぞみを抱き、ぎこちなく揺らしている。
通りかかった千鶴が足を止め、微笑んで、また歩き出した。
自室の扉を閉めてから、僕は鎖を首から外した。
遠藤さんの指輪だ。
のぞみちゃんの寝顔を思い出しながら、しばらく黙って眺める。
「遠藤さん」
「赤ちゃんが、生まれたんですよ」
「男の子です」
指輪を握り込み、また鎖に通した。
輪から少し外れた席で、一人で皿を空ける。
床に、ガラガラが落ちていた。
赤ちゃん用品の店から持ち帰ったやつだ。
拾い上げて、棚に戻す。
口元が緩んでいた。
誰も見ていない。
何日かして、フードコートの壁に絵が一枚増えた。
蒼が描いたものだ。
拓海と芽衣、真ん中にのぞみ。
棒人間に近いが、三人とも笑っている。
「上手いな」
守屋に褒められ、蒼が得意げに胸を張った。
屋上に上がり、フェンスの向こうへ目をやる。
照明は落としてある。
人間の目なら、柵の輪郭も拾えない暗さだ。
駐車場の端を、赤い塊が二つ横切っていく。
芯だけが濃く、手足の先にいくほど色が薄い。
その後ろを、小さくて明るいのが一つ。
こちらは全身が均一に熱い。
「猫だな」
「私の側には映っていない。ドローンを上げるか」
「いらない」
「熱源の識別距離、前回の計測から二割伸びている。便利になるほど、お前は人間から遠ざかる」
赤い塊が、柵の角を曲がった。
しばらく目で追う。
「そっちの数は」
「拠点周辺は横ばいだ。市街全域で見ると、増加傾向にある」
「平和すぎるな」
「統計的には、そろそろ何か起きる頃合いだ。それより、赤ん坊が怖いとはな」
「……」
「記録しておく。統計的に貴重なサンプルだ」
風のない夜だった。
悲鳴が響いたのは、見張りの交代時間だった。
拓海の声だ。
通路を走り、部屋の前で止まる。
ドアは開いていた。
照明は落ちている。
それでも、中は全部見えた。
拓海が白い。
その向こうに、壁と同じ色の塊が二つ。
屋上から見た、柵の外の連中と同じ色だ。
小さい方は、抱かれていた。
「殺すな」
拓海の声が裏返る。
「これは、間違いだ」
「まだ、生きてる」
見れば分かる。
拓海には、見えていない。
「キーロン」
「リストバンドを向けろ」
二人に、手首をかざす。
「表面温度、二十六度台。壁と二度しか違わない」
「生存者の下限を、大きく下回っている」
拓海が両手を広げ、前に立ちはだかった。
目が血走っている。
「悪いな」
拳を、拓海の腹に沈める。
声も出せずに崩れ落ちる横を、通り過ぎた。
剣鉈を、二度突き刺す。
刃を引き抜く音が、静かに響いた。
物音を聞きつけて、廊下に人が集まってくる。
真っ先に、守屋が蒼を抱き上げて視界を遮った。
「見んでええ」
蒼が何か聞こうとしたが、守屋は答えずに部屋から離れていく。
千鶴、笹川、垂水、菱沼が、開いたドアの向こうを見た。
誰も、声を出さない。
崩れ落ちた拓海に、菱沼が駆け寄る。
「拓海さん、咬まれてない……よね」
拓海は答えない。
菱沼が服をめくり、腕、首筋、腹部を確かめていく。
傷はない。
菱沼が立ち上がり、こちらと笹川を見た。
「二人を調べるから、手伝って」
間を置いて頷き、二つの体の前に立つ。
笹川がライトを構え、視線だけは逸らして照らした。
菱沼が屈み込み、芽衣の服をめくって肌を確かめていく。
腕、脚、首、腹部。
どこにも、咬み跡はない。
続けて、のぞみの産着も脱がせ、同じように確かめる。
こちらにも、傷はなかった。
「水は、煮沸と濾過を毎日やってる」
菱沼の声は低く、一つずつ確かめるような調子だった。
「ここ二週間、外から誰も入ってきてない。食事も、みんな同じものを食べてる」
言葉が途切れる。
「それでも、のぞみちゃんだけが」
「残るのは、空気しかない」
誰も、反論しない。
菱沼がもう一度、芽衣の胸元に手を戻した。
そこで、動きが止まる。
「切れてる」
こちらからは見えない位置だ。
菱沼は服を戻し、手を膝の上で握った。
「授乳してれば、よくあることなの。乳首が切れて、血が出る」
「そこから、入ったんだと思う」
「のぞみが、こうなる前からか」
「たぶん」
「キーロン。本社の記録は」
「同様の報告は、他地域からも上がっている。詳細は開示権限の外だ」
リストバンドを袖の下に戻した。
拓海は、その場から動かなかった。
目の前に横たわる二つの体を、ただ見ている。
千鶴が毛布を持ってきて、そっと拓海の肩にかけた。
拓海は気づかない様子だった。
夜が更けても、拓海はそこにいた。
朝が来ても、まだいた。
言葉は、ほとんどない。
時折、指先が芽衣の髪に触れる。
夜が明けきった頃、拓海がゆっくりと立ち上がった。
「笹川さん」
笹川が、振り向く。
「拳銃を、一丁だけ、欲しいんです」
笹川の手が震えている。
震えたまま拳銃を取り出し、拓海に差し出した。
拓海はそれを受け取り、通用口へ歩き出す。
追う者はいない。
声もかけない。
「夕焼け小焼けの……赤とんぼ……」
声は掠れ、途中で消える。
しばらくの沈黙の後、また続いた。
「山の畑の……桑の実を……」
言葉になりきらない部分が混じる。
歩調は乱れない。
通用口の向こうへ、背中が遠ざかっていく。
「……とまっているよ」
「竿の先」
乾いた銃声が、一度だけ響いた。




