29話「産声」
紫煙が、朝の空気に溶けて消えていく。
見張り台で、威之が煙草をふかしている。
手すりに片肘を乗せ、視線はどこにも向いていない。
灰が風に散り、手すりの向こうへ消えていった。
「威之さん、東側お願いします」
「ああ、はいはい」
返事だけは早い。
体は動かない。
僕はもう一度声をかけようとして、やめた。
煙草の先が赤く光り、また灰が落ちる。
この人は、駄目だ。
ポケットの割り当て表を取り出し、見張りの欄から名前を線で消した。
夕方、フードコートで笹川に呼び止められた。
「威之さん、見張りから外した。あの人ら駄目だわ、まったく」
「そうか」
「そうかって。蓮さん、もうちょっと関心持ってよ」
「興味がない、笹川、任せた」
それだけ言って、手元に視線を戻した。
翌日から、威之は雨水収集機の水運びに回された。
バケツを両手に提げ、屋上への階段を上り下りする仕事だ。
三往復目で、踊り場にへたり込んでいるのを見かけた。
「なんで俺が、こんなことしなきゃなんねえんだよ」
愚痴は階段の吹き抜けに響いて、すぐに消えた。
新渡は、夜の厨房で缶詰を開けているところを千鶴に見つかった。
足元には、空き缶がいくつも転がっていたという。
その日から、新渡はゴミ袋を担いで通用口を出入りするようになった。
光男は、見回りを名目に清掃係へ回された。
管理室のモニターに、衣料品店の奥が映っている。
ブランドバッグと腕時計の棚の前で、光男が腕時計を手に取っていた。
口が何か呟くように動き、腕時計はそのままポケットに消える。
足元には、ショッピングバッグが二つ、三つと積まれていた。
隣の椅子で、垂水が頬杖をついた。
「……モップ、一回も持ってないな、あの人」
従子だけは、変わらず厨房に立っていた。
野菜を刻み、鍋をかき回し、皿を運ぶ。
包丁の音が、規則正しく続いている。
「従子さん、いつも助かってます」
「ああ……はい」
声をかけた千鶴と目を合わせず、
従子は包丁の背で、人参の欠片をまな板の隅に寄せた。
装備を整え、通用口の前でサングラスをかける。
ジムニーのエンジンをかけ、地下駐車場のシャッターをくぐった。
市街地に入ると、路上に立つ影が増えていた。
信号待ちのまま朽ちたセダン、横倒しのバイク。
視界の端に重なったドローンの映像が、死角の数を教えてくる。
ハンドルを切って避けるたび、影がゆっくりと振り返った。
速度は緩めず、路地を選んで進む。
向かった先は、赤ちゃん用品の専門店だった。
店内は暗い。
それでも、棚の輪郭も通路の幅も、昼間と変わらず見えている。
緑がかった視界の奥、棚の陰で、
人間よりずっと弱く鈍い熱の塊が二つ、わずかに動いた。
長バールが空気を裂き、一体目の頭を薙ぎ払う。
勢いを殺さぬまま二体目の脚を払い、崩れたところへ切っ先を突き立てた。
静寂が戻る。
棚の隙間から、埃が舞い落ちてくる。
粉ミルクの棚も、乳幼児食の棚も空だった。
おもちゃ売り場の一角だけが、手つかずで残っている。
パステルカラーの、シリコン製のガラガラを拾い上げた。
振ると、柔らかい音がする。
しばらく眺めてから、リュックの横ポケットに突っ込んだ。
モールに戻ると、守屋が駆け寄ってきた。
「蓮さん、芽衣さんが……内科に運びました」
二人で、内科クリニックへ向かう。
診察室の前には、もう人が集まっていた。
芽衣の陣痛が、始まったらしい。
菱沼が指示を飛ばし、笹川が湯を運び、千鶴がタオルを畳む。
拓海だけが、診察室を出たり入ったりしていた。
「拓海さん、外で待ってて。邪魔になるから」
拓海は言われた通り椅子に座ったが、膝の揺れが止まらない。
輪の外、診察室の入口近くに立つ。
リュックから今日拾ったガラガラを取り出し、待合のベンチにそっと置いた。
誰も気づかなかった。
窓から差す光が、少しずつ夕方の色に変わっていく。
時折、診察室の中から芽衣の呻き声と、菱沼の落ち着いた指示が漏れてくる。
拓海はそのたびに腰を浮かせ、また座り直した。
数時間後、診察室から赤ん坊の泣き声が響いた。
ドアが開き、拓海が転がるように駆け込む。
「元気な男の子ですよ」
菱沼の声に、周りから拍手が起きた。
拓海が崩れるように泣く。
芽衣は目を閉じたまま、涙だけを流していた。
金満家の四人は、少し離れた廊下の端からその輪を眺めていた。
誰も、声をかけなかった。
しばらくして、診察室から拓海が出てきた。
その手に、ベンチのガラガラが収まっている。
両手を握りしめ、その場を離れた。
離れた場所で、バルカがくーっと伸びをした。
騒がしい人だかりを、しばらく眺めている。
輪から離れて歩き出すと、バルカが足元にすり寄ってきた。
こちらを見上げて、一声鳴く。




