28話「招かるざる客」
どこかで鶯が鳴いた。
まだ拙い、練習中のような声だ。
モールの周りでは、以前なら聞こえなかったはずの囀りが幾重にも重なっている。
屋上へ上がると、見張り台の垂水が欠伸を噛み殺していた。
交代まで、あと十分ある。
農園の水やりは、千鶴と拓海の担当だ。
拓海が雨水収集機からバケツに水を汲み、畝まで運んでは千鶴に渡す。
何度目かの往復で、腕がぎこちなく止まった。
春先の柔らかい日差しが、畝の上に落ちている。
「無理しなくていいですよ」
「いや、これくらいは……」
拓海が、バケツを地面に下ろす。
水面が揺れ、畝の縁に少しだけ跳ねた。
数分後、拓海は結局、息を切らして座り込んだ。
千鶴が苦笑しながら、残りを引き取る。
「元は事務職ですもんね」
「情けない限りです」
芽衣が麦茶を運んできたのは、そのときだった。
「無理しないでって言ったのに」
「いや、少しは動けるようにならないと」
拓海が、照れたように頭をかく。
芽衣はその隣にしゃがみ、拓海の額の汗を自分の袖で拭った。
拓海は、拭かれるままになっている。
その距離の近さに、千鶴が小さく笑った。
「お腹、大きくなってきましたね」
「はい。最近、よく動くんです」
芽衣が、自分の腹に手を当てる。
拓海の視線が、そこに吸い寄せられた。
「男の子か女の子か、もう分かってるんですか」
「まだです。菱沼さんが、機材次第では分かるかもって」
見張り台へ向かう途中、畝の脇を通りかかった。
「おう」
「あ、蓮さん。ちょっと聞いてもらえます」
「男の子なら碧、蒼真、陽向あたりで迷ってて、女の子なら結菜、陽葵、あと芽衣が言い出した咲良ってのもあって、正直もう自分でもどれがいいか分からなくなってきてて」
拓海が、一気にまくし立てる。
「どれがいいと思います」
少し黙ってから、短く答えた。
「柄じゃない」
「そう言わずに」
芽衣が、拓海の肩を軽く叩く。
「この人、ずっとそればっかりなんです。昨日の夜も、一人でぶつぶつ言ってましたよ。碧かなあ、いや蒼真かなあって」
「それは……」
「可愛いですけどね、正直」
千鶴が、横から口を挟んだ。
「私はいいと思いますよ、そうやって悩めるの。名前を考える余裕なんて、今は贅沢じゃないですか」
「贅沢、ですか」
「はい。だから拓海さんがうるさいくらい悩んでるの、見てて何か……いいなって」
芽衣が、拓海の顔をちらりと見る。
拓海は照れくさそうに、視線を逸らした。
「じゃあ、咲良は」
「それも可愛いです」
「結局、全部いいって言ってるだけじゃないですか」
芽衣が、笑いを堪えながら口を挟む。
千鶴がくすくすと笑い出し、芽衣も釣られた。
拓海も最後には、一緒になって肩を揺らしている。
何も言わず、見張り台へ向かった。
昼、フードコートの片隅で、菱沼がバルカに小皿を差し出していた。
猫缶の中身が、少しだけ盛られている。
バルカは匂いを嗅いだだけで、そっぽを向いた。
「今日も駄目かー」
向かいの椅子に座る。
テーブルには、産婦人科系の専門書が数冊、手書きのメモと一緒に積まれていた。
白衣を羽織るのが、いつの間にか菱沼の定番の格好になっていた。
「何読んでるんだ」
「お産の勉強です。もう、あまり時間がなくて」
「私、出産の立ち会いなんて経験ないんです。動物ならまだしも」
少し黙ってから、聞いた。
「動物ならあるのか」
「何度かあります。一番大変だったのは、ゴールデンレトリバーですね」
真顔だった。
「人間は、勝手が違いすぎます」
返す言葉が出てこない。
菱沼が、椅子に座り直した。
「正直、器具の使い方は本でなんとかなるんです。でも、想定外が起きたときの判断は、経験がないと無理で」
「今から経験を積めるわけでもないだろ」
「だから怖いんです」
菱沼はページに視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「私の手に、命がかかってると思うと……」
言葉は、そこで途切れた。
バルカが菱沼の足に体をすり寄せ、そのままどこかへ歩き去った。
無線が鳴ったのは、その日の午後だった。
「蓮さん、正面に人が四人来てます。かなり長く叩いてたみたいで……どうします」
「すぐ行く」
胸ポケットのサングラスをかけ、正面入口へ向かう。
シャッター脇の通用口で、守屋が待っていた。
ドアは、今も外から叩かれ続けている。
巡回中の守屋が気づくまで、三十分以上叩いていたらしい。
小窓から覗くと、四人組が立っていた。
くたびれた様子で、それでもまだドアを叩く手を止めていない。
「あの、私共、行き場を失いましてね」
初老の男が、小窓越しに改めて口を開いた。
「実は元々こういった状況には慣れておりませんで、私も不動産業を営んでおりました関係上、土地勘というものはあるのですが、いかんせんこう荒れてしまいますとどこに何があるやら、いや本当に困ったもので、それでもこの建物だけは妙に人の気配がありましてね、灯りが漏れていたものですから、もしやと思いまして」
守屋が口を挟もうとして、何度もタイミングを逃す。
話は、一向に終わらない。
隣で、妻らしき女がうんうんと頷き続けていた。
「父さんの言う通りだ。俺たちだって困ってるんですよ」
息子らしき男が、割って入る。
口ぶりまで、父親そっくりだった。
もう一人の若い男は、一言も発さない。
小窓の隙間から、奥にあるスーパーの看板をじっと見ていた。
延々と続く話に、小さく息を吐いた。
「……とりあえず中に入れよう」
「ですね。もう、それが早いです」
守屋も、うんざりした様子で頷く。
ドアを開けた。
初老の男が、待ってましたとばかりに名刺を差し出す。
「金満と申します。金満不動産の代表取締役をしております」
守屋が、戸惑いながら受け取った。
やけに厚みのある上質な紙に、金の箔押しの社名が光っている。
妻の従子、長男の威之、次男の新渡。
フードコートまで歩くあいだに、光男は家族の名前まで一通り並べてみせた。
四人を椅子に座らせ、水と余っていた軽食を出す。
小太りの体を揺らして、新渡だけが真っ先に手を伸ばした。
従子が慌ててその手を叩き、代わりに頭を下げる。
「本当に、助かりました」
「へえ、広いことは広いですね。まあ、作りはずいぶん古いですけど」
威之が、物珍しそうに天井を見上げている。
守屋が、売り場や居住区画、当番制のことを簡単に説明した。
一通り聞き終えたところで、光男が身を乗り出す。
「……実は、折り入ってお願いがございましてね。よろしければ、私共もこちらに置いていただけませんでしょうか。もちろん、お礼はいたします」
居住区画を見せるため、守屋が案内に立った。
騒ぎを聞きつけた千鶴と蒼、それに笹川も、
そのまま後ろについてくる。
空き店舗の前をいくつか過ぎ、奥まった一角に差し掛かる。
そこで、光男が急に足を止めた。
大きな窓から、外の緑がよく見える場所だ。
「ここ、いいですね」
「そこは今、備品倉庫として使ってて」
「いや、ここがいいです」
従子が「せめてそのくらいはねえ」と続き、威之も「当然でしょう」と便乗する。
守屋は、曖昧に頷くことしかできない。
光男がアタッシュケースを開け、束になった札を見せた。
「お金なら払いますので」
「そんなものに、今、価値なんかないですよ」
笹川だった。
光男は何か言い返そうとして、周囲の視線に気づき、口をつぐむ。
それ以上、口を挟む者はいなかった。
千鶴は蒼の肩に手を置いたまま、光男を見ている。
光男は不服そうに札束をケースへ戻し、引き下がった。
結局、二階の空き店舗の一角が、金満家の居室になった。
光男が、メモ帳を差し出してくる。
家具店の品目が、何ページにも渡ってびっしりと書き込まれていた。
寝具と最低限の家具だけを運び込み、その場を離れる。
「……いや、いや。運べる者が運ぶのが、道理でしょうにねえ。まったく、これだから最近の若い者は」
光男の声が、廊下の奥から追いかけてくる。
角を曲がるまで、それは途切れなかった。




