27話「三人」
ローターが唸りを上げる。
四つの風が地面を叩き、埃と乾いた葉を巻き上げた。
屋上の床が、視界の中でみるみる小さくなっていく。
給水タンクの丸い影、フェンスの網目、監視カメラの支柱。
どれもが、上昇するごとに輪郭を失っていく。
高度十メートル。
モールの屋上全体が、四角い一枚の板のように収まった。
高度五十メートル。
駐車場の白線が、意味を持たない縞模様になる。
搬入口へ続くスロープだけが、白く浮いて見えた。
高度二百メートル。
視界が一気に開ける。
市販機ならとうに姿勢を乱している高さのはずだが、
機体は揺らぐ様子もなく風を切っていく。
「本体性能100%維持、快調だ」
キーロンが、誰にともなく呟いた。
街が、輪郭を持った地図として広がっていく。
碁盤目状の道路、点在する屋根、川のように蛇行する幹線道路。
モール到着から六百八十三時間、日数にして二十八日が経っている。
眼下にあるのは、一か月前とは違う街だった。
シャッターの下りた店が増え、割られたガラスも増えている。
視界の端に、この映像が重なっている。
体は屋上に置いてきた。意識の半分が、上空の風を掴んでいた。
「対象、増加傾向」
キーロンの声が、小さく挟まる。
「モールに入ってからの街の推移を整理しておく。聞くか」
「……言え」
「モールに入って十日目に、送電が止まった。水道はその二日後、ガスはさらに数日遅れて止まっている。この街の基幹インフラは、そこですべて死んだ」
ドローンが高架の下をなぞる。
信号機が、黒い箱になってぶら下がっていた。
「略奪が目立ち始めたのは、警察が消えてからだ。最初に狙われたのはドラッグストアと食料品店で、次が住宅だった。警察車両の稼働を確認できたのは、十三日目が最後になる」
アーケードの下で、シャッターが内側からめくれ上がっている。
路上に段ボールと衣類が散らばり、靴が片方ずつ転がっていた。
「二十日を過ぎたあたりで、感染個体の数が、人間の数を上回った。街で確認できる生存者は、モールに入った頃の半分を切っている」
ドローンが住宅街の上へ滑る。
開け放たれた玄関が、いくつも並んでいた。
出てくる者も、入っていく者もいない。
「増加は続いている。ただ、ここ十日で緩やかになった」
返す言葉はなかった。
「それと、感染個体の動きが変わり始めている」
カメラが繁華街の方角へ寄る。
交差点を、二十体ほどが同じ方向へ歩いていた。
互いに見交わす様子はない。
それでも間隔を空け、同じ速さで、建物の影が落ちる側ばかりを選んでいる。
「群れてるのか」
「そう見える。ただ、互いに合図を送り合っている形跡はない。各個体が別々に、同じ結論に行き着いたと見るのが妥当だ。群れていた方が生き残りやすい、という結論に」
「考えてるってことか」
「考えている、とまでは言わない。学習はしている」
島で片づけた群れを思い出す。
あそこまで固まるのに、何か月かかったか。
「島でも同じ傾向は出ていた。
ただし、あちらではもっと時間がかかった」
「この街は、速いな」
「密集の起点は、繁華街と避難所指定施設の二箇所だ。
群れの大半も、そのどちらかから出てきている」
視線を右へ流す。
それに合わせてドローンのカメラが旋回し、
路地裏の暗がりを舐めるように映した。
「視線の移動が非効率だ」
「なんだそれ」
「注視点の切り替えが早すぎる。同じ場所を二度なぞっている。走査効率は平均を下回る」
鼻で笑った。
「文句あるならお前が飛ばせよ」
「同期プロトコル上、操縦権限はお前にある。私は効率化を提案しているだけだ」
「……」
しばらく、沈黙が続いた。
ドローンだけが、風に流されながら高度を保っている。
「もう、一年以上になるんだな」
ぽつりと、言葉が出た。
キーロンは、すぐには返さない。
「島からずっと、お前は一緒にいた」
俯いたまま続ける。
「最初の頃だって、愛想がなかったわけじゃない」
「それでも、今の方が明らかに口数が多い。皮肉も増えたし、先回りもする。あのアップデートからだよな、お前が変わったの」
「事実の指摘か、それとも感想か」
「両方だ」
キーロンは、また一拍置いた。
「人間は、道具にすら人間性を求める。そういう傾向がある、というだけの話だ」
「決めつけんな」
「決めつけてはいない。観測に基づく一般論だ。お前が私に人格を見出しているだけで、私自身が変化したかどうかとは、別の問題だ」
小さく息を吐く。
それ以上、言葉は続かなかった。
ドローンは高度を保ったまま、街の輪郭をなぞり続けている。
映像の端、住宅街の外れで何かが動いた。
「対象、三名。移動中」
キーロンがカメラを寄せる。
乱れた足取りで走る人影が、三つ。
後方から追ってくる数体との距離を、じりじりと詰められていた。
「距離を詰めろ」
ドローンが、低空へ滑り込む。
拡大された映像の中、先を走る一人は明らかに歩幅が小さい。
腹を庇うように前屈みになり、もう一人がその背を支えて併走している。
少し遅れて、三人目が振り返りながら、
二人を追い立てるように腕を振っていた。
「対象の一名、妊婦と推定。確度九十二パーセント」
キーロンの声に、感情の色はない。
追いつかれるまで、あと何分か。
ぼんやりと、そればかり数えていた。
「感染個体との接触、あと二十五分」
答えない。
「推定、あと二十分」
まだ答えない。
「推定、あと十九分」
「……何回言うつもりだ」
「必要な回数だけだ」
短く息を吐き、屋上の縁から視線を外して駆け出した。
階段を二段飛ばしで下り、サングラスをかける。
地下駐車場のシャッターが上がる数秒が、やけに長い。
ジムニーのエンジンが唸る。
「無線、モールへ」
キーロンの声に、無線のスイッチを叩いた。
「垂水さん、聞こえるか。妊婦を含む三名、救助に向かう。しばらく戻らない」
無線の向こうで、少し間があった。
「了解、気をつけろよ」
拳銃を突きつけられていた頃の硬さは、その声のどこにもなかった。
「歓迎用のビールは一ダース確保している」
ハンドルを握ったまま、口の端がわずかに動く。
「気が早い」
「段取りは早いくらいで丁度いい」
無線が切れる。
タイヤを軋ませ、ジムニーでスロープを駆け上がった。
「右に二体。距離八十」
キーロンの誘導が、矢継ぎ早に続く。
ハンドルを切りながら、頭の中で迂回ルートを組み替えていく。
「その先、瓦礫で封鎖。次の角を左折」
左へ振った。
「推定到達、五分」
信号のない交差点を、減速せずに突っ切った。
現場が見えた瞬間、追っていた個体の一体が、先頭の女に手を伸ばしていた。
車を横付けし、ドアを蹴り開けて外へ出る。
手には、1500ミリの長バールを握っていた。
まず、腕を伸ばした個体の頭部に、長い柄を活かした一撃を叩き込む。
間合いは詰めすぎない。
血飛沫の届かない距離から、柄の長さで沈める。
二体目が、横から迫った。
背に回していた散弾銃を引き抜く。
二連式で、装填は二発だけだ。
群れが、細い路地で押し合うように重なった。
その一瞬を逃さず、引き金を二度引く。
轟音とともに、重なっていた個体がまとめて崩れ落ちた。
残弾はない。
ここからは、長バール一本で応じる。
三体目。四体目。
返り血を浴びない角度を選び、淡々と数を減らしていく。
最後の一体が倒れてから、短く息を吐いた。
「……状況終了」
妊婦は、地面に座り込んだまま動けずにいた。
その隣でもう一人の女がしゃがみ込み、震える背を支えている。
「大丈夫か」
支えていた女が、こちらを見上げて言った。
「菱沼といいます。この人、芽衣っていうんですけど、妊娠中で……もう、歩けなくて」
「わかってる。乗れ」
ジムニーの後部を指す。
車の反対側から、男が一人、転がるように駆け寄ってきた。
「拓海です。妻がお世話に……ありがとうございます、本当に」
拓海が、何度も頭を下げる。
その横で芽衣は肩で息をしながら、それでも自分の足で立とうとしていた。
乗り込む前に、拓海がぽつりと言った。
「僕らがいた避難所、バイカーの集団に襲われて……もう、あそこには戻れません」
何も言わず、ドアを閉めた。
モールに戻ると、地下駐車場のシャッターの前に人だかりができていた。
「無事でしたか!」
守屋が、真っ先に駆け寄ってくる。
その後ろで、垂水が両手を腰にあて、満足げに頷いていた。
「言った通りだろう。ビールは冷えてる」
車から降りた芽衣を見て、千鶴が息を呑んだ。
「妊婦さん……」
「はい。もうすぐ、なんです」
芽衣が小さく笑う。
疲れの滲んだ目元が、そこでようやく緩んだ。
受け入れに、反対する者はいなかった。
菱沼が、硬い面持ちで一歩前に出た。
「獣医です。人間は専門外ですけど、できることは手伝います」
「医療知識のある人が増えるのは、普通に助かるし」
笹川がそれだけ言い、千鶴と守屋が頷いた。
拓海が深々と頭を下げ、菱沼もそれに倣う。
蒼が菱沼の周りをぐるぐると回りながら、興味津々に見上げた。
「お姉さん、動物のお医者さんなんだって」
「そうだよ」
菱沼が苦笑いする。
そこへ、休憩室の方から茶白の猫が顔を出した。
「あ」
蒼が声を上げた瞬間、バルカは尻尾を膨らませて身構えた。
菱沼が膝をつき、そっと手を伸ばそうとする。
バルカは低く唸り、爪を空振りさせて後ずさった。
「うわ、やっぱり駄目か」
横で、笹川が笑う。
「蓮さん以外、誰にも懐かないんですよ、こいつ」
「なるほど……」
菱沼は無理に触れようとせず、少し離れた場所からバルカを観察した。
「毛艶は悪くないですね。片耳の欠け方も、もう治りきってる。年齢は、生後一年半くらいかな」
「詳しいな」
短く言うと、菱沼が顔を上げた。
「去勢は、考えてますか」
「……そこまで考えてなかった」
バルカは警戒を解かないまま、足元にだけそっと寄ってきた。
夕方、フードコートに家具店のテーブルが並び、白いクロスまで敷かれた。
「これ、どこの高級店」
笹川が笑いながら、クロスの皺を伸ばす。
厨房からは、焼けた肉の匂いが漂ってきた。
守屋がステーキの皿を運んでくると、蒼が歓声を上げる。
「肉!」
「野菜も食べえ、野菜も」
千鶴が、屋上の農園で摘んだ小松菜を皿の端に添えていく。
「一ダース確保してるって言っただろ」
垂水が缶ビールを配り、笹川がワインの栓を開けた。
「ようこそ、モールへ」
守屋が缶を掲げると、拓海と菱沼が戸惑いながらも笑って応じた。
「電気、点いてるんですね」
缶を受け取った拓海が、天井の照明を見上げた。
「地下の非常用発電機です。軽油さえあれば、まだ回る」
垂水が缶を開けながら答えた。
「水も、屋上と地下のタンクにたっぷりあるんで。当分は困りません」
芽衣は炭酸水のグラスを、両手で包むように持ち上げる。
「あと、アイスもあるよ!」
「デザートまであるんですか」
拓海が、目を丸くした。
にぎやかな食卓から少し離れた椅子で、ステーキを切る。
足元では、バルカが丸くなっていた。




