23話「海峡大橋」
「うまっ……!」
「これ桃だ、久しぶり!」
「ホタテに牡蠣……美味しい」
ブルーシートを広げただけの食卓に、賑やかな声が上がる。
アルファ米、フリーズドライのスープ、缶詰、酒瓶まで、備蓄倉庫から根こそぎ運び出したものが並んでいた。
ハンバーグ、カニ、ホタテ、牡蠣。フルーツ缶。
普段なら手をつけない高級品まで惜しみなく開けられ、
湯を注いだスープが湯気を立てている。
「え、こんなに開けちゃっていいの」
蒼が缶の山を見て、目を丸くする。
「残しても、どうせ持っていけない量だしね」
「置いてったら置いてったで、誰かが漁るか、腐らせるかのどっちかだから」
答えたのは、笹川だった。
「食べられるだけ食べときなよ」
守屋が、蒼の器に桃をよそってやる。
千鶴はブルーシートの端に座り、表情を少し緩めていた。
「いただきます、本当に……こんな贅沢」
小さく頭を下げてから、箸をつける。
食卓に、小さな笑い声が続く。
「蓮さんも、ほら」
笹川が、缶詰を一つ差し出してくる。
受け取って、箸をつける。
一口、二口。
それ以上、箸が進まない。
「食欲ないの」
「別に」
短く答えて、缶を脇に置く。
笹川はそれきり何も言わず、自分の器に目を戻した。
「経過観察対象に追加する」
キーロンの声が、静かに割り込む。
「食事摂取量、過去平均比で大幅減。三日連続だ」
「身体機能に影響が出る水準ではまだないが、このペースが続けば話は別だ」
「うるさい」
賑やかな食卓を、少し離れたところから眺める。
蒼が守屋に何かをねだり、千鶴がそれを見て小さく笑う。
その輪の中に、自分だけが入っていないような感覚がある。
二日前、笹川が院長室の書類を片付けていて、宮本の手帳を見つけていた。
几帳面な字が並ぶページの中に、一行だけ気になる記述があった。
本土、副首都から来たと。医療関係者、茉莉花。
「これ、行き先の手がかりになるんじゃないかな」
あの時、笹川はそう言いながら手帳を見せてきた。
「院長、几帳面な人だったから、適当に書いてるとは思えないんだよね」
「たぶんこれ、誰かに聞いた話をそのままメモしてる感じでさ」
「僕も、茉莉花さんが来た日に院長から聞いてるんだ。副首都から来た人だって」
「情報量が不足している。本人の申告を、院長が書き留めただけの可能性が高い」
キーロンが割り込んだ。
「だとしても、何もないよりはマシでしょ」
「茉莉花さんが何者なのか、確かめたいんだよね」
手帳を持つ指に、力が入っていた。
笹川の中では、もう決まっていたらしい。
「副首都に行く」
「一人じゃ心細いしさ、蓮さんも来るでしょ」
手帳から目を上げて、頷いた。
本土に行くと決めてすぐ、守屋が声をかけてきた。
段ボールを担いだまま、硬い顔で近づいてくる。
「本土に渡られるんですよね」
「ああ」
「俺たちも、連れて行ってもらえませんか」
三人だけじゃ、この先やっていけない。
千鶴の足もまだ本調子じゃないし、蒼を守りながらだと限界がある。
守屋は、そう続けた。
少し考えて、頷く。
守屋は深く頭を下げ、段ボールを担ぎ直した。
食事が終わると、荷物の積み込みに移る。
「軽トラじゃ入らないから、病院の運搬用の四トン、出してきたよ」
「積載量には、まだ余裕がある」
「荷はトラックに優先して積め。ジムニーは人員優先だ」
段ボールを担ぎ上げ、荷台に積んでいく。
笹川も手を貸しながら、ロープの結び方を確かめている。
荷物の隙間に、拳銃と散弾銃を一丁ずつ差し込む。
「これ、僕が持つの」
「使えるだろ」
「まあ、練習はしたけど」
笹川は、拳銃をベルトに、散弾銃を助手席の足元に置いた。
荷台の陰から、茶白の毛並みがのぞく。
バルカだ。
蒼が屈んで指を伸ばすと、低い唸り声とともに前脚が一閃した。
「わっ……」
蒼が慌てて手を引っ込める。
爪は空を切っただけだったが、それきり蒼は近づこうとしなかった。
「バルカ、おいで」
守屋が名を呼んでも、段ボールの隙間に引っ込んだまま出てこない。
「……もう、いいよ」
蒼が小さくつぶやいて、守屋の方へ寄っていった。
「僕も前に一回、やられかけたんだよね」
笹川が積み荷を整理しながら、思い出したように言う。
「うわ、危な、ってなったよ」
水入れを取り出し、新しい水を注いでやる。
餌の缶を開け、皿に移す。
これは、他の誰にも任せられない。
「これで最後」
笹川が、最後の段ボールを荷台に押し込む。
「ああ」
運転席に乗り込みながら、ジムニーの方へ声を投げる。
「トラックが先頭だ。後ろについてこい」
「はい。何かあったら無線しますわ」
守屋が短く応じ、無線機を軽く持ち上げてみせた。
蒼がジムニーの助手席によじ登り、千鶴が後部座席に落ち着く。
笹川が助手席に乗り込み、軽く手を上げた。
エンジンをかける前に、一度だけ振り返る。
防火シャッターの隙間、崩れた玄関、割れたままの窓。
笹川は、しばらくその方を見たまま動かなかった。
「長かったな、ここも」
独り言のような声だった。
「発生前からいたけど……もう、勤めてた頃の方が短いくらいだ」
小さく息を吐いて、前を向く。
「行こうか」
「出るぞ」
二台のエンジン音が、荒れた前庭に響く。
トラックが先に動き出し、ジムニーがその後ろにつく。
バックミラーの中で、病院の建物が遠ざかっていく。
日が高くなってきたところで、胸ポケットのサングラスをかけた。
視界の色が、わずかに濃くなる。
瓦礫を避けながら進み、やがて高速道路の入口に出た。
崩れた建物、放置された車両。
見慣れた光景が、窓の外を流れていく。
助手席で、笹川がタブレットを弄りながら口を開く。
「そういえばさ、あの晩のこと、話したっけ」
「あの晩」
「病院が崩れた日だよ。モニターの前に、僕一人でいたでしょ」
ハンドルを握ったまま、視線は前に向けておく。
「あの時、変な奴が映っててさ」
「変な奴」
「動き方が、他のと全然違うんだよね」
「緩慢じゃなくて、物陰選んで、周り警戒しながら歩いてる感じ」
「最初は生き残りが紛れ込んでるのかと思って、慌てて音声繋ごうとしたくらいだし」
キーロンの声が割り込んだ。
「該当映像は、データベースに保存してある。歩行パターンは、生存者との類似度が高い」
「そうそう、それ! 僕も一瞬、生きてる人かと思ったんだよね」
「病院のカメラに熱源情報はない。映像だけでは、生存個体かどうかの判定はできない」
笹川が、タブレットの画面をこちらに向けてくる。
粗い映像の中、死体の間を縫うように動く影が映っていた。
立ち止まっては、また別の死体へ。
その動きに、覚えがあった。
物陰を選ぶ足取り、死体を漁る仕草。
あの資材倉庫で会った、あいつだ。
「……知ってる奴だ」
「知ってる」
「前に会った。喋る奴だった」
「該当個体は分類不能だ」
「同一個体である可能性は、十分にある」
キーロンが、淡々と補足する。
笹川が目を丸くする。
「え、喋るゾンビがいるってこと」
「僕、そんなの初めて聞いたよ」
「キーロンさんのデータベースにも前例ないんじゃない。分類不能って言ってたし」
「それ以上は話さない」
「え、それ今さら言う。もっと聞かせてよ」
笹川が身を乗り出しかけるが、取り合わなかった。
返事をしないでいると、笹川が小さく笑った。
「相変わらずだなあ」
窓の外に、海が見え始める。
防波堤の向こうに、灰色の水面が広がっていた。
高速道路が、緩やかに橋へと続いていく。
遠くに見えてきた橋脚の影に、笹川が顔を上げた。
「見えてきたね」
「海峡大橋だ。全長は約三千九百十一メートル、主塔間は約千九百九十一メートル」
「吊橋構造になっている」
近づくにつれ、道の様子が変わっていく。
等間隔に並んだコンクリートブロック、
錆びついた鉄条網、横倒しになったバリケード。
その隙間を縫うように、トラックの速度を落とす。
道の端に、迷彩色の車両が数台、放置されていた。
装甲車、輸送トラック。
錆は、ほとんど浮いていない。
タイヤの跡も、まだ路面にくっきり残っていた。
島内で見てきた廃車の群れとは、明らかに時間の経ち方が違う。
「自衛隊の車両だ」
運転席の脇に、血まみれのヘルメットが転がっていた。
乾いた血痕がこびりついているばかりで、中身の主はどこにもいない。
「封鎖してたのって、ここか」
笹川が呟く。
「でもこれ、新しいよね。つい最近まで、ここに人がいたってこと」
「路面のタイヤ痕と車体の状態から、放棄後の経過は短いと推定する」
「じゃあ、何があって出ていったんだろ」
笹川が、転がったヘルメットから目を逸らした。
笹川がドローンの映像をタブレットに出し、車両の側面を拡大する。
そこに描かれた部隊マークに、目が止まった。
「……見たことのないマークだ」
「キーロン、識別できるか」
「一部は判読可能だ」
「本部所在地は、こちらの記録に該当がない。編成番号の付け方も、通常の部隊とは違う」
「臨時に組まれた、特別編成の可能性がある」
この中に、知っている顔がいたかもしれない。
そこから先は、考えなかった。
検問所まで、あと僅か。
その残骸に、想像していたよりずっと多くの影が溜まっていた。
風雨をしのげる構造物、崩れたバリケードの陰。
長い時間をかけて、寄り集まってきたのだろう。
「数、四十以上」
「増加中」
キーロンの声が、いつもより張っている。
トラックを停め、剣鉈と長バールを手に取る。
「僕、後ろで援護するから」
笹川が散弾銃を構え、ジムニーの陰に身を寄せた。
車を降りると、緩慢な唸り声が一斉にこちらへ向く。
群れが動き出すまでの間が、いつもより長く感じられた。
最初の一体が、振りかぶる。
肩の傾き、重心の移動。
全部、ひどくゆっくりだった。
以前なら詰まっていたはずの間合いに、今は余裕がある。
剣鉈と長バールを振るうたび、一体、また一体と崩れ落ちていく。
振り返らずとも、気配で後ろの位置がわかる。
時折、背後から乾いた銃声が響き、側面に回り込もうとした個体が倒れる。
バリケードをよじ登って飛びかかってきた一体だけは、軌道が読めなかった。
空中で剣鉈を合わせ、叩き落とす。
腕が止まらない。
骨に響くはずの衝撃が、掌の中で軽く散って消えていく。
群れの密度が薄れるにつれ、ただの作業になっていく。
最後の一体が倒れる頃には、あたりは静かになっていた。
剣鉈の血を払い、周囲を見回す。
息が、思ったより上がっていない。
「……終わったか」
「敵性反応、ゼロ。一度の戦闘での撃破数、記録を更新した」
ジムニーの窓から、蒼がおそるおそる顔を出す。
その目は、怯えるというより、呆気に取られて開いていた。
それでも、剣鉈を鞘に収める金属音には、小さく肩をすくめる。
笹川が近づいてきて、倒れた個体の一つを見下ろす。
「容赦ないな、ほんと」
笑うでもなく、それだけ言った。
橋の入口を、崩れたバリケードと横転した大型トラックが塞いでいた。
迂回する隙間はない。
「動かすしかないか」
「重量、推定十トン以上。牽引機材はない」
構わず、横転したトラックの荷台側に手をかける。
力を込めると、鈍い音を立てて、車体がわずかに動いた。
そのまま、肩を押し当てる。
車体の側面が路面に擦れ、金属片を撒き散らす。
地面を抉りながら、トラックが横へずれていく。
笹川が、口を開けたまま見ていた。
「……ちょっと待って待って」
「推定筋力が、以前の計測値から大幅に上昇している」
押し終えたトラックから、手を離す。
息は上がっていない。
自分の手のひらを、少しの間見つめた。
以前なら、びくともしなかったはずのものだ。
「力持ちってレベルじゃないでしょ」
笹川が呟く。
「なんか、見てて怖いんだよなあ、それ」
息を吐いて、付け足した。
「やっぱり連邦製は違うんだなあ……」
答えずに、残ったバリケードの残骸を蹴り飛ばす。
軽い音を立てて、道が開けた。
四トン車に戻り、エンジンをかける。
開いた道を、ゆっくりと進んでいく。
ジムニーが、後ろに続く。
橋の中央、両側の欄干が崩れかけている箇所を、慎重に通り抜けた。
下には、灰色の海が広がっている。
橋を渡り切ると、道はそのまま緩やかな下り坂に続いていた。
振り返れば、島影が霞んで見える。
「渡ったな」
笹川が、ぽつりと言った。
返す言葉は、特に浮かばない。
道の先に、目を向ける。
「位置情報を更新した」
ジムニーが並びかけ、蒼が窓から顔を出した。
「着いたの」
「まだ先だ」
短く答えて、アクセルを踏む。
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