22話「変異」
「シャァ――ッ」
鍵を開けた途端、暗がりの奥から鋭い声が飛んできた。
薄暗い玄関の先、キッチンの床にドライフードの粒が散らばっている。
棚の下段では、封を食いちぎられた袋が横倒しになっていた。
水入れは、底が乾いていた。
名を呼ばずに屈むと、バルカが飛び出してきて、手の甲に爪を立てた。
「悪かった」
「引っかき傷の深さは二ミリに満たない。出血もすぐに止まるだろう」
構わず抱き上げようとすると、また唸って距離を取る。
放っておいたことを、まだ許していないらしい。
備蓄していたペットボトルの水を、皿に注ぐ。
バルカは我先にと顔を突っ込み、喉を鳴らして飲み始めた。
皿の水が、みるみる減っていく。
飲み終えてからも、しばらく皿から顔を上げなかった。
キャリーに詰め込むと、車内では終始不服そうな声を上げ続けた。
病院に着いて蓋を開けてやると、真っ先に瓦礫の隙間へ飛び出していく。
警戒するでもなく、勝手に縄張りを確かめて回るような足取りだった。
あの日の唸り声も、水を飲む音も、もう何日か前のことだ。
「経過、六日目。気温、体温ともに安定。備蓄倉庫の被害は軽微で、物資は十分にある」
「聞いているか」
「……ああ」
窓の外の瓦礫から、視線は動かさなかった。
「バイタル、平常。ただし発話頻度、過去平均比で六割減。記録しておく」
割れた窓から風が吹き込み、床の埃を巻き上げていく。
しばらく、それを目で追う。
バリケードで仕切った隣のロビーで、鍋の底を叩く音がした。
配膳の合図だ。
蒼の肩が、一瞬だけ小さく跳ねた。
守屋が気づかぬふりで、器に匙で何かをよそってやる。
「ほら、ようけ入れたるからな」
「……うん」
蒼の声は、いつもより小さい。
千鶴は壁際に座ったまま、膝の上で手を重ね、二人を眺めていた。
一度そちらへ目をやり、また窓の外に戻す。
シャッターの隙間から、笹川が顔を出した。
「蓮さん、ちょっといい」
返事の代わりに、目だけを向ける。
それで十分だというように、笹川は隣の椅子を引いて座った。
「敬語、もうやめるね。今さらでしょ」
好きにしろ、と目で返す。
「キーロンさんのデータ、見せてもらったんだけどね」
「反応速度、視覚同期率、暗視域の拡張。数値だけなら、閲覧を許可した」
「そう、それ」
「数字だけだと勿体ないっていうか、実際どこまでできるのか気になっちゃって」
端末を覗き込みながら、笹川の指先が何かを弄っている。
「ドローンの視界、直接繋げられるんだよね」
「厳密には、脳波由来の疑似同期だ。直接ではない」
「その辺の理屈が知りたいんだよなあ」
「前に整備してた工場のラインでも、似たようなフィードバック制御があってさ」
「型式を言え。比較する」
笹川が型式を挙げると、キーロンはすぐに数値を並べ始めた。
二人のやり取りは、いつの間にか俺を挟んで進んでいく。
口を挟む気力は、まだ湧いてこない。
それでも、蚊帳の外にいる感じはしなかった。
「そういえば、ドローンを脳内で操作するアニメ、思い出すなあ」
「学生の頃、友達とよく話してたんだよね」
「『ドローンパイロット・ゼロ』か。操縦系統の設定は、現実よりも杜撰だ」
「特に思考誘導の遅延処理は、実機の数値とかけ離れている」
「知ってるんだ、そんなアニメまで」
「概要データベースに存在する」
「作品自体は視聴していないが、設定資料と技術考証の部分は参照した記録がある」
「じゃあ、こっちは。昔のドローンレース、規制が入る前のやつ」
「あれも、よく夜中に配信見てたんだよな」
「フリースタイル部門か。機体重量の規制緩和以降、事故率が跳ね上がった年代の映像だろう」
「当時は、安全マージンより速度が優先されていた」
「うわ、それも把握してるんだ。いつの間に調べたわけ」
「事故統計は資料価値が高い。装備設計の参考として、折に触れて呼び出している」
黙ったまま、二人のやり取りを聞いていた。
「ちょっと試してみる。ここ、中庭に面してるでしょ」
シャッターの端、笹川が開けておいた通用口の先に、荒れた中庭が広がっていた。
答える前に、キーロンが告げる。
「離陸準備は、完了している」
仕方なく、頷く。
笹川がタブレットを構えると、ドローンが小さく浮き上がった。
視界が、二重になる。
自分の目とドローンのカメラが、交互に映像を送ってくる。
「反応速度、良好だね。想定より速い」
笹川の声が、少し弾んでいた。
「次、こっちも試したいんだけど」
「思考だけで動かせるって、キーロンさんが言ってたやつ」
「その通りだ。思考誘導という」
「蓮の体には、以前の治験で適性強化ナノマシンが埋め込まれている」
「その神経接続経路が、いまだ生きていると推定される」
「治験って……蓮さん、何やってた人なの」
「経歴照会は、開示の範囲外だ」
「自衛隊にいた」
笹川の指が、タブレットの上で止まった。
「開示範囲の変更を記録する」
「え、ほんとに」
「元だ。輸送の部隊にいた」
「へえ……教えてくれるんだ、それ」
返事はしなかった。
笹川は小さく頷いて、タブレットに目を戻した。
「ナノマシンの経路についても、暫定的な仮説の域を出ない」
「輸血による身体変質が、休眠状態だった経路を偶発的に再起動させた可能性がある」
「じゃあ本来は、何のためのナノマシンだったの」
「端末を介さず、視覚情報を直接得る。思考誘導で、装備を操作する」
「操作系まで、丸ごと肩代わりってことか」
「細部の制御は、AI側が担う。装備一体型の強化スーツ運用を想定した技術だ」
「めちゃくちゃ大掛かりじゃん」
「実用化前に、蓮の適性検査で頓挫した」
「当時は、不採用案件の一つに過ぎなかったはずだ。皮肉なことに、こういう形で生きている」
もう一度、ドローンが浮かぶ。
右へ向かうことを考えただけで、視界の端でドローンが同じ方向へ傾いた。
思ったより、遅れがない。
それが、少し不気味だった。
今度は、自分から上昇を思い描いてみる。
言われるままではなく、確かめておきたかった。
視界が、跳ねるように高度を上げる。
思い通りに動く道具だと頭ではわかっていても、指先が強張った。
「反応遅延、〇・三秒未満か。これ、すごい数字なんじゃないの」
「訓練された個体としては、標準的な数値だ」
「暗視の方も見せてよ。カメラ、切り替えられるでしょ」
笹川がタブレットを操作すると、ドローンの映像から色が抜けた。
重なった視界の中で、中庭の植え込みや瓦礫の輪郭だけが、線になって浮かぶ。
「どう、見え方」
「輪郭だけ拾えてる。色は付かない」
「白黒ってことか。夜目が利く猫みたいな」
「可視域の拡張率は、標準カメラの約二・四倍」
「ただし色情報を犠牲にしている以上、識別能力を単純に上位互換とは言えない」
ひとしきり動かし終えて、ドローンが着陸する。
笹川が、ふと顔を覗き込んできた。
「蓮さん、目、青いよ」
窓に映る自分の顔を見る。
瞳の色が、記憶にあるものと違う。
「キーロン」
「輸血後の変化と推定される。虹彩の色素を、経過観察対象に追加する」
笹川が棚の奥から何かを取り出し、差し出してきた。
度の入っていない、黒いレンズのサングラスだ。
「遠藤さんのだったんだけどね」
受け取って、そのまま顔にかけた。
「似合ってるって、言った方がいい」
「事実確認は不要だ」
笹川が、小さく笑う声がした。
答えないまま、椅子から立ち上がる。
日が落ちて、防火シャッターの隙間から差し込む光もなくなった。
見回りのため、処置室を出て暗い廊下を歩く。
懐中電灯は、まだポケットの中だ。
点ける前に、廊下の先の消火栓や案内表示がはっきり見えていることに気づいた。
立ち止まる。
壁の非常灯は、切れたままのはずだった。
それでも、輪郭だけでなく、色までうっすらと判別できる。
「キーロン」
「言え」
「明かりなしで、見える」
「報告する。可視域が、赤外線帯まで拡張していると推定される」
「虹彩の変化と同一系統だろう」
「昼間のドローンの暗視と、同じってことか」
「機構は別だ。ドローンは、光学センサーによる補正を経由している」
「お前のは、目そのものが変化している」
廊下の奥、非常口の表示灯を見つめる。
灯りは落ちているのに、板の縁と人型の線が読み取れた。
その向こうで、熱を持つものだけがぼんやりと浮かび上がる。
配電盤の裏、まだ余熱の残る配線が、他より仄かに明るい。
「体温分布まで拾えてるな、これ」
「その通りだ。生体と非生体の熱源を、区別して認識している可能性が高い」
「個体差や体温の変化から、ある程度の状態推定も可能になるだろう」
「便利は便利だが」
その先が、出てこなかった。
「続けろ」
「別に」
懐中電灯を、結局ポケットに戻した。
暗い廊下を、そのまま奥へ進む。




