21話「弔い」
扉の外の唸り声が、いつの間にか遠のいている。
壁に背をつけたまま、しばらく息を整える。
隣では、蓮さんが目を閉じたまま横たわっている。
規則正しい呼吸が、生きている証だった。
立ち上がって、制御盤の前に座り直す。
幸い、ここのモニターはまだ生きていた。
何が起きたのか、記録を遡って確かめる必要がある。
誰かがやらないといけない。
そう、自分に言い聞かせる。
映像を巻き戻していく。
最初に目についたのは、裏手の配線室に一人で入っていく茉莉花さんの姿だった。
時刻は、ロックダウンが完了してすぐ。
彼女以外に、その部屋へ出入りした人物はいない。
僕は総合制御室でモニターを見ていたのに、この動きには気づかなかった。
カメラは何十台もある。
あの時見ていたのは、避難民が休んでいる区画ばかりだった。
もっと、他の画面にも目を配っていれば。
あの部屋は、本来カードキーがなければ開かないはずだった。
権限を持つのは、宮本院長と僕くらいだ。
なぜ茉莉花さんが、迷いのない手つきで扉を開けられたのか。
考えても、答えは出てこない。
滞在時間は、十数分ほど。
中で何をしていたのかは、映像ではわからない。
念のため、配線室のログも確認してみる。
配線を切断すれば、本来はその瞬間に異常検知の警報が鳴る仕組みのはずだ。
だが記録を見る限り、警報は一度も作動していない。
配線が切られるより前に、安全装置そのものが手動で無効化されていた。
カメラに映らない操作で、ログにだけ跡が残っている。
誰かが先回りして仕込んでいたとしか、思えなかった。
何をしたのか、直接の証拠はない。
時系列を並べれば、疑う余地はほとんど残らない。
もう一つ、別の映像に目が留まる。
ロックダウンの少し前、裏手の廊下で、茉莉花さんと曽根崎校長が向き合って話し込んでいる。
随分と長い。
肩の距離が近く、時折、曽根崎校長が頷くような仕草を見せていた。
途中、茉莉花さんが何かを差し出す。
思わず、画面を拡大した。
小さな金属片が、曽根崎校長の手に渡っていく。
鍵らしい。
音声はないから、話の中身まではわからない。
ただ、あの校長が、非常口を開けるという判断に一人で至ったとは、
どうしても思えなかった。
鍵を受け取った後の校長は、何度も腕時計に目を落としている。
誰かと、時刻を合わせていたように見えた。
ふと、指が止まる。
輸血パックを運び込む茉莉花さんの映像が、別のフォルダに残っていた。
茉莉花さんの前で、遠藤さんがいつも硬い顔をしていたのを思い出す。
期限切れが大半だと聞いていた在庫なのに、
彼女が運んできたパックだけは、やけに数が揃っている。
考えすぎかもしれない。
だが、一度引っかかると、頭の隅から離れなかった。
遠藤さんの姿を追って、別のカメラへ切り替える。
避難民を送り出し、自分も扉の向こうへ消えていく背中。
その先の映像は、開けなかった。
開けば、何かが確定してしまう気がする。
まだ、わからないままでいい。
少なくとも今は。
静かに、その映像を閉じた。
院内を映す別のモニターに、目を移す。
群れていたゾンビたちの動きが、時間の経過とともに変わっていく。
死体を漁り、貪るように食べ続けていたものたちが、
やがて統率されたように動きを揃え始めた。
そして、示し合わせたかのように、開いたままの非常口から次々と外へ出ていく。
すべてが、そうなったわけではない。
院内の各所には、まだ緩慢な動きでうろついている影がいくつも残っていた。
群れに加わることも、去ることもなく、そこに留まっている。
その中に一つ、動きの違う影がある。
他の個体のような、緩慢で直進的な足取りではない。
死体の間を、縫うように進んでいく。
立ち止まっては、また別の死体へ。
一体を貪るのではなく、少しずつ、あちこちに手をつけているように見えた。
しばらく、その影を目で追う。
だが、はっきりとした姿を捉える前に、カメラの死角へと消えていった。
画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
まだ、やることがある。
どれくらい時間が経ったのか、よくわからなくなっていた。
記録を何度も見返しているうちに、外の唸り声はほとんど聞こえなくなっている。
隣で、小さな身じろぎがあった。
「……ん」
蓮さんの瞼が、ゆっくりと開く。
思わず、身を乗り出した。
「蓮さん、気づきましたか」
返事はない。
蓮さんは天井をぼんやり見つめたまま、ゆっくりと身体を起こす。
その動きは緩慢で、まだ本調子には程遠い。
「バイタルは回復方向にある。意識レベルも上昇している」
リストバンドのスピーカーから、キーロンの声が漏れる。
「蓮、聞こえているか」
応答はない。
蓮さんは黙って壁に手をつき、身体を支えている。
「蓮」
キーロンが、もう一度呼びかける。
「状況を報告する。病院は壊滅、生存者は数を確認中だ」
それでも、蓮さんは何も言わなかった。
視線が、虚ろに宙をさまよっている。
「……蓮さん」
そっと声をかけてみたが、反応は薄い。
これはちょっと、まずいかもしれない。
代わりに、キーロンへ言葉を返す。
「キーロンさん、蓮さんは今、あまり喋れる状態じゃないみたいです」
「把握した」
「話せるようになるまで、報告は僕が引き受けます。それでいいですか」
「問題ない」
蓮さんの顔を、そっと覗き込む。
その時、はっとした。
瞳の色が、変わっている。
元は確か、もっと濃い色をしていたはずだった。
今、僕を見返す瞳は、薄い青みを帯びている。
輸血の影響なのか、それとも別の何かなのか。
僕にはわからない。
口にする勇気は、出なかった。
今はまだ、その時じゃない気がする。
何も言わないまま、蓮さんの背中に手を添える。
しばらくして、蓮さんは僕の手を振り払うことも、
頼ることもなく、壁づたいに立ち上がった。
「残りを掃除する」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
蓮さんは、そのまま副制御室を出ていく。
モニターを切り替えると、隔離室に入っていく背中が映った。
出てきた手には、置いたままだった剣鉈と長バールが握られている。
その後ろ姿を、見送ることしかできない。
しばらくして、遠くから重い物音と、唸り声の途切れる気配が伝わってくる。
何度か、それが繰り返された。
やがて、蓮さんが戻ってきた。
剣鉈の刃には、乾きかけた汚れがこびりついている。
「生存者がいた」
短く言うと、蓮さんは踵を返す。
慌てて後を追った。
備品倉庫の陰に、三人の避難民が身を寄せ合っていた。
中年の男性と、その子供らしい少年、それに足を負傷した中年の女性。
僕たちの姿を見て、彼らはようやく強張った表情を緩めた。
少年だけは、扉の開く音にびくりと肩を跳ねさせ、
しばらく父親の腕にしがみついて離れなかった。
「……もう、大丈夫なんですか」
「ここは、片付けた」
蓮さんは短く答えると、それ以上は何も言わない。
三人を落ち着かせてから、名前だけでも、と尋ねる。
男性が「守屋です」と短く名乗った。
少年は俯いたまま「……蒼」と呟き、女性は足を庇いながら「千鶴です」と応じる。
硬い声ばかりだったが、名乗り合ったことで、少しだけ空気が和らいだ気がした。
それから、状況を伝える。
避難所として使えそうな場所のこと、そして、これから始めることについても。
蓮さんはそのまま外の見回りにも向かい、しばらくして戻ってきた。
「外も片付いた」
それを聞いて、遺体を運び出す作業に取りかかる。
悠人くん、他の子供たち、宮本院長、権藤さん。
守屋さんに手を借りながら、一体ずつ担架に乗せて運ぶ。
「こっち、持ちますわ」
守屋さんが、担架の端を引き受けてくれた。
千鶴さんは足を庇いながらも、道を空けたり荷物を支えたりして手伝ってくれた。
「すみません、これくらいしか、私……」
差し出す手つきに、場違いなほど丁寧な間があった。
蒼くんは目を伏せたまま、それでも担架の端に手を添えている。
遠藤さんの遺体は、避難口を出てすぐの場所で見つかった。
最後まで、避難民を連れて逃げようとしていたのだろう。
白衣は、胸元まで血に染まっている。
その手のそばに、丸めた包帯が転がっていた。
院内には、名前もわからない遺体が、まだあちこちに残されている。
避難民の誰か。
病院に元からいたスタッフの誰か。
付き添いの家族らしき誰か。
見つけるたびに、同じように担架へ乗せて運び出した。
全員分の名前を、僕は知らない。
それでも、このまま放っておくわけにはいかなかった。
運び出しが一段落すると、蓮さんがシャベルを手に取る。
病院の裏手、血の匂いの薄い一角を選んで、蓮さんは土を掘り返し始めた。
黙々と、穴を掘っていく。
病み上がりの身体には堪えているはずだったが、手は止まらなかった。
どの遺体も、損傷がひどい。
噛み痕が残るものも少なくないが、それだけではなかった。
群れに押し潰され、あるいは倒れた拍子に首や背骨を痛めたのだろう。
脊髄の損傷が、はっきり見て取れるものが多い。
その意味に、ふと気づいた。
これなら、蘇らない。
感染が全身に回りきる前に、致命傷そのもので絶命している。
安堵とも呼べない、乾いた納得が胸に残った。
その間に、遺体の傍らに残っていた持ち物を検める。
名前シールの貼られた眼鏡ケース。
子供の折った折り紙。
院長の胸ポケットにあった万年筆。
権藤さんの、擦り切れた腕時計。
一つずつ、それぞれの墓の前に置いていく。
供えるというより、そこにいた証を、せめて残しておきたかった。
名も知らない人たちの墓の前には、代わりに小さな石を一つずつ置いた。
僕にできるのは、そのくらいだ。
最後の一つになる。
遠藤さんのポケットの中を検めた。
小さなメモ帳が出てくる。
開くと、几帳面な文字で、患者の名前と処置の記録がびっしりと並んでいた。
最後のページだけ、少し文字が乱れている。
院長へ、校長の件、とだけ書きかけて、線が途切れていた。
意味はわからないまま、それを、そっと墓の前に置いた。
置き終えて、立ち上がろうとした、その時だった。
膝から、力が抜ける。
「……」
声にならないまま、その場に崩れ落ちた。
抑えていたものが、堰を切ったように溢れてくる。
止め方が、わからない。
シャベルを止めた。
崩れ落ちた笹川の背中が、小さく震えている。
声を殺しているつもりなのだろう。
それでも、嗚咽は隠しきれていなかった。
シャベルを地面に突き立てたまま、しばらくその背中を見る。
「……悪い」
声が、ひどく掠れていた。
しばらく、まともに声を出していなかった。
笹川が顔を上げる。
泣き腫らした目が、こちらを見た。
「蓮さん……」
「あとは、俺がやる」
笹川の肩に、手を置く。
震えていた背中から、少し力が抜けた。
「悪かったな、任せきりで」
笹川は何も答えず、首を横に振った。
墓の前に立ち、もう一度、頭を下げる。
言葉は出てこない。
シャベルを握り直し、残りの土を戻していく。




