20話「壊滅」
夕暮れの光が、病院の外壁を赤く染めている。
学校から連れてきた避難民の列は、まだ途切れない。
老人、子供、担架に乗せられた者。
誰もが、誰かに縋るようにして歩いていく。
車で先に着いた者たちは、もう院内に散っている。
その中に、見覚えのある背広があった。
曽根崎だ。
人の陰に隠れるように、玄関へ消えていく。
その後ろに立って、崩れかけた列の最後尾を見張る。
「反応、後方五十メートル。緩慢、追跡意志なし」
キーロンの声が、骨伝導越しに響く。
門をくぐった避難民の数を、キーロンが数え上げていく。
「収容、九十七。行方不明、確認中」
「学校の生徒数からすれば、悪くない数字だ」
最後の一人が門の内側に入ると、鉄扉が軋みながら閉じていく。
それを見届けた宮本が、傍らの笹川に向き直った。
「笹川さん、収容が完了しました」
「完全なロック体制に入ってください」
「はい、すぐに」
小走りで総合制御室へ向かう笹川の背中を、見送る。
数分後、館内放送のスピーカーから、くぐもった音声が流れた。
ロックダウン、開始。
警報が三度、四度と鳴り、区画ごとに鉄扉が下りていく音が続く。
やがて、音が止む。
静寂が、院内を満たした。
誰かが、小さく息を吐く。
遠くで子供が泣きやみ、母親らしき女がその頭を撫でている。
避難民の一人が、壁に背を預けて座り込み、目を閉じた。
誰も言葉にしない。
それでも、張り詰めていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
こちらも、ようやく肩の力を抜いた。
「バイタル、注意」
キーロンの声が、その空気を割る。
「心拍、上昇。出血、継続中」
近くの壁に手をつく。
遠藤が、慌ただしく駆け寄ってきた。
「矢代さん、座って。すぐに診ます」
「治療はいい。輸血パックだけくれ」
「……いつもの、その調子ね」
遠藤は手早く腕の傷を確かめながら、口元を歪める。
「言っておくけど、うちにある輸血パックは、もう使えるものがないの」
「期限内のものは、学校からの負傷者にほとんど回してしまった」
「残っているのは、期限切れだけ」
言葉に詰まる。
「あら、良かった。私の持ってきたのが、早速役に立ちそうね」
聞き覚えのない声が、割り込んできた。
声の主は、崩壊した世界には不釣り合いなほど、
きっちりとスーツを着こなした女だった。
皺一つない襟、乱れのない髪。
ついさっきまでどこかのオフィスにいたような佇まいが、
この場で妙に浮いて見える。
「彼女は茉莉花さん」
宮本が、横から口を挟む。
「本土から来てくれてね。緊急性の高い薬ばかりを、随分と運んでくれたの」
「輸血用の資材も、彼女のおかげで揃った」
「本当に助かっているのよ」
宮本の声には、素直な感謝が滲んでいる。
遠藤の表情は、それとは対照的に硬い。
「……早々によこしなさい」
遠藤が、茉莉花に向かって手を出す。
「あなたが運んでくれた分、まだ残っているでしょう」
茉莉花は、微笑んだまま頷いた。
「矢代さん、血液型は」
「O型」
遠藤はカルテに走り書きし、茉莉花の持ち込んだ箱を運ぶよう、看護助手に指示する。
「とにかく輸血すればいいのね」
遠藤が声を落とす。
腕の噛み跡が周りの避難民から見えない向きに、体を寄せて立っている。
「悪いけど、隔離室でやらせてもらうわ。鍵もかける」
「ああ」
「その方が、こっちも都合がいい」
遠藤は、こちらの顔をまじまじと見てから、小さく頷いた。
「……運びましょう。騒ぎにならないうちに」
隔離室のベッドに横たえられ、天井の照明を見上げる。
遠藤が手際よく針を刺す。
茉莉花の持ち込んだパックの隅に、見慣れないマークが刷られていた。
そこから、チューブへと血が流れ始めた。
照明の輪郭が、少しずつ揺れ始める。
「……遠藤」
「喋らないで。血圧が下がってる」
「曽根崎が、中にいる」
「校長先生のことね。避難民と一緒に入ったわ」
「学校で、子供を突き飛ばして、逃げた」
「その子は、死んだ」
遠藤の手が、テープを貼りかけたまま止まった。
「……目を、離すな」
「わかった。落ち着いたら、院長に伝える」
遠藤は短く答えて、テープを貼り終えた。
「終わったら、鍵をかけるから」
「何かあれば、インカムで呼んで」
そう言い残して、遠藤が隔離室を出ていく。
扉が閉まる重い音。
外では、まだ避難民の対応に追われる声が続いているのだろう。
扉の小窓の向こうに、茉莉花の姿が見えた気がした。
こちらを見ていたのか、見ていなかったのか。
確かめる前に、視界が霞んでいく。
「バイタル、安定方向。輸血パック、二本目に切り替わった」
キーロンの声が、やけに遠い。
まぶたが重くなっていく。
意識の輪郭が、少しずつ滲んで薄れていった。
監視カメラのモニターの前で、僕はマグカップを握っている。
コーヒーは、とっくに飲み干していた。
それでも、手放す気になれない。
ロックダウンが完了してから、もう一時間近くが経つ。
その間、席を立ったのは一度きりだった。
モニターの中では、避難民たちが廊下や待合室の床に座り込んで休んでいる。
誰かが、毛布を配って歩く。
子供が一人、誰かの膝の上で眠っていた。
静かなものだ、と思う。
カメラを順に切り替えながら、各区画の様子を眺め続ける。
モニターの端に映る人影が、目に留まった。
学校の校長だった、曽根崎という男が、
誰もいない裏手の廊下を、一人で足早に歩いていく。
目的地があるような足取りだった。
「……何してるんだろうね、あの人」
独り言のつもりだったし、答える者もいない。
カメラを切り替えて、その先を追おうとする。
だが角を曲がったところで、男の姿は死角に消えた。
まあいいか。
避難民の誰かを探しているだけかもしれない。
そう思うことにした。
それから十数分後。
モニターの一つに、赤いランプが点滅し始める。
非常口の扉が開いている、という表示だった。
「え」
思わず声が出る。
該当のカメラに切り替える。
裏手の非常口が、大きく開け放たれていた。
外の暗がりが、そのまま院内に繋がっている。
慌てて警報を鳴らそうと、制御盤に手を伸ばす。
反応がない。
何度ボタンを押しても、非常放送のランプが点かない。
配線をたどるように別の系統を試すが、それも同じだった。
パネルの隅で、小さなランプが赤く点滅している。
そこで初めて、気づいた。
「回線異常」の表示。
「……切られてる」
誰かが、意図的に切断している。
いつの間に、と考える余裕もなかった。
このエラー表示は、もっと前から出ていたのかもしれない。
だとしたら、いつからだ。
モニターの中、暗がりの奥から、影の群れが非常口へと集まってくる。
「嘘、だろ」
総合制御室を飛び出す。
廊下を走りながら、遠藤さんの姿を探す。
見つけた時、彼女は負傷者の手当てをしている最中だった。
「遠藤さん、非常口が開いて、ゾンビが来てるんです!」
「もう駄目です、逃げましょう!」
「そうできれば良かったけど……患者がいる限り、私は動けない」
「安全な場所ならあるんです。そこなら、そこで――」
僕の言葉を遮るように、遠藤さんは首を振る。
「笹川さん、あなたの思いは嬉しいわ。でも、今は」
その続きを聞く前に、遠藤さんの腕を掴んでいた。
「せめて、院長のところまで一緒に来てください」
「状況だけでも、伝えないと」
「……わかったわ」
押し切られる形で、遠藤さんが僕についてくる。
院内を走り、院長室の扉を叩く。
院長は、束の間の休息を取っていたのだろう。
椅子に腰掛けていたところだった。
傍らには、権藤さんも詰めていた。
「院長、大変です」
息を切らしながら、状況を伝える。
「非常口が開けられて、ゾンビが……」
「通信も切られていて、警報が飛ばせません」
院長の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……わかりました」
院長は椅子を立ち、すぐに指示を飛ばし始めた。
「避難民の誘導は、遠藤さんに任せます」
「はい」
遠藤さんはそう応じるなり、部屋を飛び出していく。
「権藤さん、あなたは私の護衛について」
「任せてください」
権藤さんが、即座に頷く。
「笹川さんは、防火シャッターで食い止めて。できる限り、封鎖を」
「はい……!」
院長は、院内に残っていた警備班を呼び集めるよう、内線で指示を飛ばし始めていた。
それぞれが、それぞれの持ち場へと散っていく。
副制御室へ向かう前に、隔離室に立ち寄る。
設備用のマスターキーで、鍵を開ける。
蓮さんは、眠ったままだった。
手首のリストバンドの表示灯が、規則的に点滅している。
「キーロンさん、蓮さんはいつ起きるんですか」
「回復途中だ。覚醒の時刻は予測できない」
「早く避難しましょう。僕の持ち場に、立てこもれる部屋があるんです」
「笹川、その申し出は記録した。だが、今は移動できない」
「隔離室は構造強度が高い。留まった方が生存率は上がる」
応答は、いつも通り淡々としていた。
押し問答をしている時間は、もうない。
踵を返す。
「また来ますからね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
副制御室へ走り、管理モニターの前に立つ。
防火シャッターの操作画面を呼び出し、区画を一つずつ選んでは下ろしていく。
「頼む……!」
一つ、また一つと、シャッターが下りていく音が響く。
これで少しは食い止められる。
そう思った矢先だった。
モニターの一つに、防衛ラインが崩れる様子が映る。
音は入らない。
映像が、その一部始終を黙って映している。
権藤さんが、院長を庇うように前へ出る。
金属バットを大きく振り、群がる影を薙ぎ払っていく。
それも、数体までだった。
権藤さんの膝が、ふいにかくんと落ちる。
崩れ落ちたその体に、群れが殺到する。
院長の姿も、すぐにその中へ消えていく。
悲鳴も、断末魔も、聞こえない。
静かなモニターの中で、それは起きていた。
「……」
ついさっき、院長室で指示を受けたばかりだった。
しばらく、動けない。
だが、いつまでもそうしてはいられない。
覆せるとしたら、あの人しかいない。
そう思い至って、また走り出す。
隔離室に駆け込むと、蓮さんの瞼が薄く開いていた。
「蓮さん!」
「……なんだ」
まだ覚めきっていない目で、蓮さんがこちらを見る。
「力を貸してください、お願いします!」
蓮さんの足取りはおぼつかず、ほとんど引きずるようにして連れて走る。
意識はまだ、はっきりとは戻っていないようだった。
辿り着いた先は、怒号と悲鳴が入り混じる修羅場だった。
遠藤さんの姿も、そこにあった。
侵入口とは反対側の扉へ、避難民たちを追い立てるように誘導している。
「そっちよ、早く! 振り返らないで!」
遠藤さんは、避難民たちを次々と扉の外へ送り出していく。
最後の一人を押し出すと、彼女自身もその扉の向こうへ消えていった。
その混乱の中で、校長が一人の避難民の腕を掴み、盾にして逃げようとしている。
「なに、してるんですか!」
思わず声が出た。
校長はこちらを一瞥すると、掴んでいた避難民を、迫る群れへと突き飛ばす。
悲鳴が上がる。
群れが、その一点に殺到する。
僕は、崩れるように膝をついた。
隣で、蓮さんの顔つきが変わる。
完全に覚めた目だった。
「……お前が」
蓮さんが、逃げようとする校長に向かって走り出す。
追いつくのに、時間はかからなかった。
蹴りが、校長の右膝に叩き込まれる。
骨の砕ける音が響く。
「あ、あが、あああ!」
「ま、待て、話し合おう、私は悪く――」
言い切る前に、蓮さんの拳が顎を撃ち抜く。
骨が軋む音がして、言葉はそこで潰れた。
蓮さんが、手刀を大きく振りかぶる。
唐竹割りに、頭頂から一息に。
校長の身体が、そのまま縦に裂ける。
その光景を、見ていることしかできない。
蓮さんはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてふらりと体が傾いた。
覚めていた目が、また朦朧としたものに戻っていく。
「……あ」
それだけ呟くと、蓮さんは僕の肩に体重を預けてきた。
このままでは、二人とも群れに飲まれる。
蓮さんの腕を自分の肩に回し、引きずるようにして走る。
辿り着いたのは、持ち場の副制御室だった。
震える手でカードキーを読み取らせ、転がり込むように中に入る。
扉を閉めて内側から施錠し、近くの棚を引きずって扉の前に積み上げた。
荒い息を吐きながら、壁にもたれかかる。
隣で、蓮さんはぐったりと座り込んでいる。
外からは、まだ唸り声と、崩れていく病院の音が響いていた。
「……遠藤さん、探し出します」
誰に届くわけでもない言葉を、小さく呟く。
「待っていてください」




